山本有三

       「路傍の石」  
                   山本有三

 そのとき、吾一は学校からかえったばかりだった。はかまをぬいでいるところへ、おとっつぁんが、ひっこり帰ってきた。おとっつぁんは、彼に銅貨を一つ渡して、焼きイモを買ってこいと言った。よっぽど腹がすいているらしく、いやにせかせかしていた。
 吾一は、いそいで路地を駆けだして行った。
 ちょうど、おやつの時刻だったので、焼きイモ屋の店さきは、ふろしきを持った小僧だの、オカモチをさげた女中だのが、黒びかりのする、大きなカマの前に、いっぱい立っていた。なかなか順がまわってこないので、吾一はいらいらしたが、やっと、彼の番になった。
「おつぎは、おいくら。」
 イモ屋のおやじは長い竹のハシを動かしながら、いそがしそうに言った。
 大きな店の小僧たちが、十銭も二十銭も買っていくなかで、少しばかり買うのは、吾一はなんとなく、きまりが悪かった。彼はちいさな声で、「一銭。」と言った。
「おいきた。」
 主人は威勢よく答えて、カマの中から、なれた手つきで、ひょいひょいとイモをはさみあげた。
 きょうはバカにまけてくれるんだなあ、と吾一は思った。やがて新聞にくるんでくれた焼きイモを受け取って、厚いカマのふちの上に、一銭銅貨を置くと、
「あっ、ちょっと待った!」
 と、おやじはとんきょうな声を出して、吾一から急に包みを取りもどした。そして、三つ、六つと勘定しながら、包みの中のものを、カマへ返しはじめた。おやじは一銭を十銭と聞きちがえたらしい。向こうがまちがえたのではあるけれども、いったん、包んでくれたもののなかから、数をへらされることは、こっちが悪いことでもしているように見えて、ひどくきまりが悪かった。吾一はカマの前に立っていることが苦しくなって、逃げだしたくなった。
 そのとき、
「はいよ。」
 と言って、おやじが、ちいさな袋を渡した。吾一はそれを持つと、どろぼうのように、こそこそと店さきから姿をけした。
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※この書き出しは、不幸な少年の人生行路を浮き彫りにしているかのようである。この後も数々の試練に遭遇するが、決して負けることなくそれに立ち向かっていく姿に感動を覚える。生き抜いていくことの意味を考えさせられる作品である。貧しさは恥ずかしいことではないが惨めな感じがする、そんな書き出しにも惹かれていく。
                平成27年4月16日 記