井上靖
「額田王」
井上靖
「大海人皇子と別れて、今年の秋はさぞ淋しいことであろう」
額田は゛は゛とも、゛いいえ゛ともいうことはできなかった。返事ができないためか、自分でも知らぬ間に面があがった。中大兄皇子は少し仰ぐように月の方へ顔を向けていた。
「淋しさが癒えるまで一年待とう」
額田はまた面を下げた。体が小刻みに震えていた。
「一年経ったら、その美しい手も、その美しい顔も貰う」
「・・・・・・・」
「その美しい顔も、美しい頬も、美しい項(うなじ)も、美しい髪も貰う」
火のように熱い烙印が、中大兄皇子の言葉と一緒に、額田の額に、頬に項に、頭髪に捺されていった。月光の冷たい光の中で、そこだけ焼けるように熱かった。
全く一方的な宣言だった。それだけ言うと、中大兄皇子は額田から離れていった。
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※ 「万葉集」には、二人の短歌が並んで掲載されている。
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守は見ずや君が袖振る
額田王
紫のにほへる妹(いも)を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも
天武天皇(大海人皇子)
かつての夫、大海人皇子が袖を振るので「野守が見とがめます」よと諫めると、「紫のように美しいあなたが憎いなら、既に天智天皇の人妻なのにどうして恋などするものか」と、大海人皇子が返答する。大海人皇子が大友皇子を攻める壬申の乱は、これが一因だとする逸話ができるくらいであった。古代のロマンが描かれている。
平成27年10月9日 記
「大洗の月」
井上靖
これは佐川の仕事ばかりではない。戦後の日本のあらゆる事業が多かれ少なかれ持っている特性であった。事業が繁栄して行くのも、ひとたまりもなく崩壊して行くのも紙一重のようなもので、二重にも三重にも外部的な条件に束縛されているので、自力一本槍で行かないところがあった。
佐川の場合、いつも、事業崩壊の予感は、なんの前触れなしにやって来た。どんな悲観材料が山積しても、めったにそんなことにくたばらない彼であったが、全くなんの前触れもなく、事業の現状とは無関係に襲って来るこの予感は、直接の根拠がないだけにやり切れないものだった。
佐川は、昨日あたりから自分が、そうした心の衰えをもっていることを、改めて思ってみた。田島の言葉がきっかけとなって、どこかへ月見に出掛けようという気持ちが自分に働いたのも、確かに、自分の心の中に頭を擡げているこの亡びの予感のようなものが関係しているようであった。
大洗という名前から想像される荒涼とした磯で、今年の仲秋の明月を見るのも悪くないじゃあないか。--そんな風に、佐川の観月の気持ちには中年男の得体の知れぬ絶望感から来る観賞とデカダンスが多分に関係しているもののようであった。
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※大洗で出会った一人の画家に自分と同じような境遇にあることを知る。しかし、佐川は、その人に人間的な温かさを感じていく。この作品が、書かれたのは昭和28年で、今から約60年前になる。大洗は、今では茨城県の有数な観光地になっている。アクアワールド、海水浴場、磯前神社(いそざきじんじゃ)などが挙げられる。「水戸を離れて東へ三里 、波の花散る大洗」とは、民謡「磯節」の一節である。茨城に住む我々にとって、「偕楽園」と並んでもっとも親しみをもつ場所が大洗である。
「那珂川の海に入るなるいやはての海門橋の白き夕ぐれ」
と与謝野晶子が詠った海門橋は、アクアワールドから直ぐ近くにある那珂川に架かる橋である。
平成27年4月25日 記
「夏草冬濤(なつくさふゆなみ)」
井上靖
洪作は小林も増田も、将来自分たちが何になろうかということにはっきりした考えをもっていることに驚いた。弁護士というものがどんなものか、よく知らなかったが、増田は恐らくその弁護士というものになるであろうと思った。
「俺は・・・・」
対抗上、洪作も自分の志望を口に出そうと思ったが、言いかけて中止した。何になったらいいか、全然見当がつかなかった。すると、そうした洪作の心の内部を覗きでもしたように、
「お前は何になるんだ?」
と小林が洪作に訊いてきた。
「俺か、俺は学者になるんだ。」
ととっさに答えた。
「学者!!」
「そうだ」
「何の学者だ」
「何の学者かそんなことはまだ決まっていない。学者になることだけが決まっている」
「ほう」
増田が変な声を出して、うしろへひっくり返った。
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※この作品は、幼少年期を描いた「しろばんば」につぐ作者の中学時代を書いた自伝的小説である。伊豆半島の湯ヶ島で小学校を終えた洪作は、伯母の家に下宿して沼津の中学校に通う。この時代のことを井上靖は、「沼津の生活は、今考えると、この場合も責任のある監督者がなかったので、ひどく野放図なものであった。勉強というものは殆どしないで、四年間、毎日のように友達と遊び暮らした。全く自由であった。・・・・・・。怠惰というか、自由というか、何者にも拘束されない少年時代を送った。」と書いている。普通の中学生であった作者の自己成長の一時期を静かに、ある力強さをもって描いた清純な作品だと言われている。
平成27年4月24日 記
「天平の甍」
井上靖
ただこの遣唐使派遣の最も重要な意味をなす留学生、留学僧の銓衡(せんこう)だけは、年内には決まらないで翌年に持ち越された。もともと時の政府が莫大な費用をかけ、多くの人命の危険をも顧みず、遣唐使を派遣すると言うことの目的は主として宗教的、文化的なものであって、政治的意図というものは、若しあったとしても問題にするに足らない微妙なものであった。大陸や朝鮮半島の諸国の変遷興亡は、その時々に於いていろいろな形でこの小さな島国をも揺すぶって来ていたがそれよりこの時期の日本が自ら課していた最も大きな問題は、近代国家成立への急ぎであった。中大兄皇子に依って律令国家としての第一歩を踏み出してからまだ90年、仏教が伝来してから180年、政治も文化も強く大陸の影響を受けていたが何もかも混沌として固まってはいず、やっと外枠が出来ただけの状態で、先進国唐から吸収しなければならないものは多かった。人間の成長で言えば少年から青年への移行期であり、季節で言えばどこかに微かに春の近い気配は漂っているが、まだまだ大気の冷たい三月の初めといったところであろうか。
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※ 「天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら――在唐二十年、放浪の果て、高僧鑑真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ。」と本の紹介文にあるように、当時の留学は、想像を絶するほど過酷なものであったろう。しかし、歴史は、単に鑑真来日という事実を残すのみである。そこには強い国家の意思があり、留学僧の不退転の決意があった。国家としてのエネルギーが沸々と沸き上がっていたのだろう。
海外で働く日本人も考えてみれば、「天平の甍」の若い僧に重なるものがある。多くを海外に依存する日本の懊悩(おうのう)がそこにある。この小説やテロの事件から、我々は多くの犠牲の下に今の平穏で豊かな生活を享受していることを考え、どのように行動しなければならないか再構築していく必要がある。
昨年、五島列島を旅した折り、福江が遣唐使船最後の寄泊地として栄え様々な歴史の舞台になったことを知った。多くの遣唐使が海の藻屑になったことも事実である。大陸への憧れや先進文化の吸収という使命を抱いて漕ぎ出しながら、果たせなかった人々の悔しさを感じた旅でもあった。
平成27年4月23日 記
「北の海」
井上靖
「いずれにしても、急に四高を受けたいと言い出したことはおかしいね。わざわざ四高を選ばなくても、もっと近いところに高等学校はある。静岡高校でいいだろう。静岡で結構じゃないか。君は今年静岡高校を受けて落第している。もう一度受験して、恥をそそぎなさい」
「でも金沢の方がいいと思います」
「おかしいね」
宇田は言ってゆっくりと顔を洪作の方に向けた。
「急に四高へはいりたくなったといからには、それだけの理由があるだろう。・・・・・それは、何かね」
宇田は言った。
「あそこの柔道部にはいりたいんです」
「柔道部?ほう」
それから
「そう、そう、この間、四高の柔道部の選手が来たそうだね。・・・・・そうか、勧誘されたのか」
「別に勧誘されたわけではないんですが」
「勧誘されてもいいさ。勧誘にこたえて、受験し、合格するんだったら結構。が、別に、今から金沢に行っている必要はあるまい。金沢へ行っている方が刺激があると言ったが、刺激があるから、勉強ができるものでも、合格しやすいわけのものでもあるまい。それにしても、どうして四高の柔道部へはいりたくなったのかな」
「練習量がすべてを決定する柔道というのが、四高の柔道部のモットーらしいんです。それが気にいりました」
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※「しろばんば」「夏草冬濤」と続く自伝三部作とされているのが、この「北の海」である。洪作は、中学校を卒業して、沼津で浪人生活を送り、勉強もせず、先輩として母校の柔道場に通っているうちに四高の柔道部員の勧誘で金沢へ出掛けた。そこで四高への入学を決心する。自分の考えを吐露する場面が、上記である。四高へ入学した洪作は、柔道に打ち込み明け暮れることになる。
平成27年4月22日 記
「後白河院」
井上靖
入道相国の息女徳子姫が高倉天皇の中宮になられましたのはその翌々年の承安2年のことでございます。高倉亭は12歳、中宮は18歳でございます。入道相国は息女の何人かを摂関家へ嫁がせられ、摂関家と浅からぬ関係をもっておられますが、その上皇室との関係も、これで二重に深くなったわけで、平家一門の繁栄はこの時点に極まった感じでございました。この場合もまた、一部の公卿の間にはとかくの風評があった模様で、そうしたことがきれぎれにわたくしたちの耳にもはいって参りました。
徳子姫入内のために平氏一門の力が今まで以上に強くなり、ために今にも院方にご不幸が見舞うように言う者もあれば、こんどのことは院自らお望みになったことで、徳子姫に中宮たる資格をお持たせになるために、院はいったん姫をご自分の養女とさえなされていると言う者もございました。
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※歴史の転換期には、人間同士の凄まじい戦いと心の相克がある。巨魁、後白河院の周辺にいた4人の人たちによって歴史を語り、院の人となりを語っている作品である。その語りが相互に関係し合い、後白河院の人物像をより鮮明にイメージさせてくる。
磯田光一は、その解説で「作者の人間に対する深い洞察が働いている。単純な情熱家や野心家が、したたかな政治家であったためしはない。口数が少なく、忠誠や信頼を示す者には奇妙に優しく、それでいて何を考えているのかわからぬような後白河院のイメージは、まさしく謎であって、その冷静なしたたかさには常に一点の薄気味悪さがつきまとっている。」と述べている。まさに、人間の奥深さは端倪(たんげい)すべからざるものである。
平成27年4月21日 記
「姨捨(おばすて)」
井上靖
私が初めて姨捨山の棄老伝説を耳にしたのは一体何時頃のことであろうか。私の郷里は伊豆半島の中央部の山村で、幼時私はそこで育ったが、半島西海岸の土肥地方にも、往時老人を山に棄てたという話が語り伝えられておりおそらくはその話と一緒になって、姨捨山の伝説は私の耳にはいり、私の小さい心を悲しみでふくらませたようである。
私はその時五つか六つくらいではなかったかと思う。その話を聞いて縁側へ出ると、私は声を上げて泣き出した。その場所が何処であったか記憶していない。ただうろ覚えに覚えていることは、祖母だったか母だったか、とにかく家人が急に私が泣き出したことを訝(いぶか)って、縁側へ飛び出してきて何か二言三言言葉をかけてくれたことである。私には勿論物語そのものは理解できなかったが、母を背負って、その母を山へ棄てに行くという事柄の悲しみだけが抽象化されて、岩の間から滴り落ちる水滴のように、それが私の心に滲みる入って来たのである。私は自分が、母と別れなければならぬという悲しみに耐えかねて泣き叫んだのである。
姨捨山の棄老伝説というものは、少しずつ細部が変わって何種類か流布されているらしいが、私が知っているそれは、全くこの絵本に依ったもので、それをなんら修正することなしに今日まで持ち続けている。絵本「おばすて山」が少年の私の心にいかに強烈な印象をもって捺印されたかが窺える。
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※ 福田宏利は、「この小説には、母、妹、弟の三人について語られている もちろん、事実そのままではなく、かなり小説的粉飾が加えられてはいるが、作者の身辺の事実にほぼ忠実と解していい。特に心理的にはいささかの虚構もないと言っていい。」と書いている。その解説を基に考えてみると、上記の書き出しから井上靖の人間的な深さや感情的な繊細さがうかがえる。
平成27年4月20日 記
「忘れ得ぬ芸術家たち」(前田青邨について)
井上靖
学問、芸術の世界で、私は何人かの、その人間も、その作品も信じている人をもっております。失礼な言い方になりますが、氏も数少ないその中の一人にさせて頂いております。成功しようと、成功していまいと、それが何でありましょう。氏の大きさ、立派さはそんなところにはない思います。
文学の世界でも、ごく少数ではありますが、その人間も、その作品も信じている人があります。その人の文章はに2、3行読むとすぐ判ります。素朴で、簡潔で、清らかで、強いのであります。青邨氏の線描のようなものであります。
芸術家も、文学者も、芸術家として、文学者として生きるということは、己が人生を制作することによって刻むことであろうと信じます。自分が生きた証しを一歩一歩、制作という形で彫り、刻むことであるに違いありません。大芸術家はみなそのようにして生きた人たちであります。成功も、不成功もありません。立派さがあるだけです。私もまた文学者の端くれとして、氏にあやかって、そのような道を歩きたいと思います。
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※相手に傾倒するということは、すべてを信じ受け入れることなんだと感じた。井上靖の心の有り様を、垣間見たような気がする。
前田青邨(まえだそん)「ウィキペディアより」
歴史画を得意とし、大和絵の伝統を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。その中でも、武者絵における鎧兜の精密な描写は、ことに有名である。1955年(昭和30年)に、文化勲章を受章するなど、院展を代表する画家として活躍する。
平成27年4月19日 記
「しろばんば」
井上靖
その頃の、と言っても大正四、五年のことで、今から四十数年前のことだが、夕方になると、決まって村の子供たちは口々に ゛しろばんば、しろばんば゛と叫びながら、家の前の街道をあっちに走ったり、こっちに走ったりしながら夕闇のたちこめ始めた空間を綿屑でも舞っているように浮遊している白い小さな生きものを追いかけて遊んだ。
素手でそれを掴み取ろうとして飛び上がったり、ひばの小枝を折ったものを手にして、その葉にしろばんばを引っかけようとして、その小枝を空中に振り廻したりした。
しろばんばというのは、゛白い老婆゛ということなのであろう。子供達はそれがどこからやって来るか知らなかったが、夕方になると、その白い虫がどこからともなく現れて来ることを、さして不審にもおもっていなかった。
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※おぬい婆さんと洪作の土蔵での生活が、とても懐かしい感じがするのは、私だけであろうか。
井上靖は、曾祖父の愛人であった「かの」(『しろばんば』のおぬいばあさんのモデル)によって、5歳から約10年間育てられた。この常ならぬ幼少期の体験が、作家井上靖の感性を育むことになる。靖は、後年この「かの」との生活を振り返って、「祖母は、私をてなずけておくことによって、多少自分の不安定な立場を強固なものにする必要があったし、私は祖母の味方であることによって、当然の贈り物として大きい愛情を受け取っていたのである。」と書いている。
井上靖の母「やゑ」の妹の「まち」は、明治28年生まれで靖より12歳上だったが、女学校を卒業して代用教員をしていた。彼女は当時としては積極的で気性の烈しい女性だったが、幼い靖にとっては「掃き溜めに鶴が舞い降りたよう」であった。しかし、肺結核にかかり25歳の若さで亡くなっていく。この美しい伯母への思慕は、形を変えて「氷壁」「敦煌」「蒼き狼」などの女性像へとつながっていく。
平成27年4月18日 記
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