司馬遼太郎
「歴史を紀行する」
司馬遼太郎
維新の起爆力・長州の遺恨
歴史は必ずしもロマンではないが、しかしときには怨恨がそれを動かす。
長州の毛利家がそれである。この大名は戦国期までは瀬戸内海岸きっての交通の要衝というべき広島を覇府とし、その領地は山陽山陰十カ国にまたがる大名-というよりもはや覇王にちかい存在だったが、関ヶ原の敗北で一朝に没落した。徳川幕府によってわずか防長二州(周防・長門)にとじこめられ、城を置く場所までくちばしを入れられ、
「城も山陽道はこのましくない」
といわれ、日本海へ追いやられた。その後の城下萩である。
阿武川の三角州にあり、あしやよしのはえた低湿地にすぎなかった。ここに土を盛り上げて指月(しづき)城をきずき、田をうづめて市街をつくった。毛利家は持高を四分の一にへらされたため、家臣の人員を大量に整理しなければならなかったが、多くの者は無禄でも殿様についてゆくと泣きさけび、ついに収拾がつかなくなり、人がいいばかりのこの当時の当主毛利輝元は幕府に泣訴し、
「とてもこの石高ではやってゆけませんから、城地もろともほうりだしたい」
といったほどであった。表日本の広島から裏日本の萩へつづく街道は、家財道具をはこぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟(えんさ)の声でみちた。
--------------------------------------------------------------------------------
※歴史を紐解いてみるのは実に楽しい。何百年後かの事件と有機的に繋がっているのを発見することもワクワクする。徳川幕府への怨嗟が、倒幕へと邁進するのであるから、長い目で歴史を俯瞰(ふかん)しなければならないだろう。
吉田松陰は、籐丸籠で江戸に送られる時、最後に萩の城下が見える峠で
「帰らじと思ひ定めし旅なればひとしほぬるる涙松かな」
と詠んだ。多くの旅人が別れを惜しむ峠には、「涙松」があった。その後、吉田松陰は江戸で斬首されることになる。歴史は常に残酷で、必要としなくなると抹殺していく。
平成29年8月4日 記
「最後の将軍」
司馬遼太郎
人の生涯は、ときに小説に似ている。主題がある。
徳川15代将軍慶喜というひとほど、世の期待をうけつづけてその前半生を生きた人物は類がまれであろう。そのことが、かれの主題をなした。
この人物は、将軍家にはうまれていない。
徳川将軍家の分家である水戸の徳川家にうまれた。水戸を御三家のひとつという。御三家は、水戸のほかに、紀州、尾張がある。
この御三家のうち、水戸はもっとも石高がすくなく、官位も他の二家が大納言であるのに対して、中納言でしかない。それに将軍家に嗣子(しし)がない場合、紀州、尾張から入ることがあっても水戸から入ることはなかった。いわば、一格さげて差別されてきている。
もっとも、ただ一つの点で他の二家よりも優遇されていた。当主は参勤交代の義務がなく江戸屋敷に常住する特権があたえられていることであった。将軍とともに江戸にいる、ということで、
「天下の副将軍」
といわれていた。講釈で高名な水戸黄門以来、江戸の庶民はそう言い囃している。副将軍という官制は徳川幕府にはないが、諸事御政道の批評にめくじらを立てる幕府が、江戸の講釈場あたりからうまれたらしいこのことばに神経をとがらさなかったのは、気分的ににはそういう礼遇を幕府は水戸家に払っていたのであろう。
--------------------------------------------------------------------------------
※大政奉還を行った最後の将軍徳川慶喜とは、どのような人物であったのか数々のエピソードを交えて書いている。司馬遼太郎の作品は、どこから読んでも興味深く読める。徳川慶喜は、恭順の意を表すため、藩校弘道館で蟄居(ちっきょ)している。茨城に住む人ならば、訪れなければならない場所である。
平成27年12月4日 記
「殉死」
司馬遼太郎
明治8年、熊本鎮台歩兵台14連隊(小倉)の連隊長心得に任命され、赴任した。2年ののち西南ノ役がおこり、「歩兵台14連隊ハ直チニ熊本ニ入城スベシ」という鎮台司令官少将谷干城(たにたてき)の命を受け、小倉を出発し、久留米へ出、筑後平野を南下した。ただし兵器受領の都合で、乃木はとりあえずそのうちの一部をひきいていたにすぎない。
敵--薩軍は熊本城を包囲していたが、官軍の新手の南下をみてそれを迎え撃つべくいそぎ陣地を変更した。乃木少佐は植木方面でこの敵と遭遇し、激戦になった。兵力は乃木隊が4百人余人、薩軍の支隊とほぼ同勢であった。昼間は官軍の銃器の性能が優越しているため戦況はほぼ互角であったが、夜に入り、薩軍の抜刀による夜襲に抗しきれず乃木隊は算を乱して退却した。途中、乃木は多方面にいるかれの配下の一個大隊を植木の西方の千本桜に向わしめるべく、隊をはなれみずから伝令になって走った。一人である。連隊長みずから隊をすてて伝令になるというのは、日本式指揮法にも洋式指揮法にもない。指揮技術に習熟しなかったためか、敗戦で動転したのか、それともそばに兵がいなかったのか、どうであろうか。それにどういうわけか、乃木は連隊旗手の河原林少尉以下わずか10名を最前線に置き残した。このため敵前で孤隊になった河原林少尉以下10名は当然敵襲をうけ、河原林は戦死した。このとき軍旗をうばわれた。
--------------------------------------------------------------------------------
※乃木希典は、明治天皇の崩御に伴う大葬の日に時を同じくして、静子夫人と共に自害して果てる。遺言書は「明治10年の役に軍旗を失ひ、その後死処を得たく心がけ候もその機を得ず。皇恩の厚きに浴し、今日まで過分のご優遇をかうむり、おひおひ老衰、もはやお役に立ち候ときも余日無く候をりから、このたび御大変、なんともおそれいり候次第。ここに覚悟相さだめ候ことに候。」とある。数々の苦難に遭遇した人物像を膨大な資料を検証することにより、司馬遼太郎独特の言葉で浮き彫りにしている。
ちなみに辞世の句は、下記のものである。
「うつし世を神さりましゝ大君のみあとしたひて我はゆくなり」
平成27年12月3日 記
「世に棲む日々」
司馬遼太郎
戦国期の毛利氏といえば、安芸国広島を根拠地としてその版図は山陽山陰十一カ国におよび、いわば中国筋の王といわれるにふさわしく、天正期には中央勢力である織田氏とあらそったほどのきらびやかな歴史をもっている。
「中国者の律儀」ということばが、戦国期にはやった。正直をむねとし、人をだまさない。はたして中国衆がすべて律儀者ぞろいなのかどうかはべつとして、すくなくとも毛利氏の外交方針は、その律儀をたてまえとしたがために同盟国に信頼され、威を上方までふるった。
--------------------------------------------------------------------------------
※幕末から明治維新、大きく時代が変わるときの物語である。真に国を民を思う人々が、闊歩した時代である。それだけに魅力ある人物が登場する。司馬遼太郎の作品は、どれをとっても魅力に溢れている。
平成27年4月12日 記
|