「西行」
白洲正子
空になる心
そらになる心は春の霞にて世にあらじともおもひ立つかな
山家集の詞書に、「世にあらじと思い立ちけるころ、東山にて人々、寄霞述懐と云事よめる」とあるから、西行が二十三歳で出家する直前の作だろう。いかにも若者らしいみずみずしさにあふれているとともに、出家のための強い決心を表しているが誰もこのような上の句から、このような下の句が導きだされるとは、思ってもみなかったに違いない。それが少しも不自然ではなく、春霞のような心が、そのまま強固な覚悟に移って行くところに、西行の特徴が見出せると思う。その特徴とは、花を見ても、月を見ても、自分の生き方と密接にむすびついていることで、花鳥風月を詠むことは、彼にとっては必ずしもたのしいものではなかった。
世の中を思へばなべて散る花のわが身をさてもいづちかもせん
嘆けとて月やは物をおもはするかこち顔なるわがなみだかな
百人一首で名高いこの歌は、同じ百人一首の大江千里の、「月みれば千々に物こそ悲しけれ我身ひとつの秋にはあらねど」を受けているような感じがあり、それを今少し凝縮させたといえようか、---月は物を思わせるのか、いや、思わせはしない、それにも拘わらず、自分は月を見て悲しい思いに涙していると、反語を用いることによって引き締めている。のどかな王朝の歌が、外へ拡がって行くのに対して、どこまでも内省的に、自己のうちへ籠もるのが若い頃の西行の歌風であった。
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※西行は、謎の多い人物である。それを独自の視点で描きだしたのがこの作品である。歯切れの良い文章が、西行を炙り出していく。
平成27年11月3日 記
「私の百人一首」
白洲正子
五十六 和泉式部
あらざらむこの世のほかの想ひ出に
今ひとたびの逢ふこともがな
和泉式部は色好みで、奔放な女性として知られているが、このようにしっとりとした歌をみると、一概にそういって片づけられないものがある。これは、『後拾遺集』の恋の歌で、「心ちれいならず侍りけるとき、人のもとにつかわしける」という詞書きがあるが、「人」については色々の説があって定めにくい。
「あらざらむ」(いなくなってしまう、死んでしまう)と謳い出し、せめてあの世の想い出に、もう一度お目にかかりたいと、むせび泣くように終わっているのが美しい。式部にはもっと情熱的な作が多いが、あえてこの歌を選んだのは、定家の好みを示すとともに、百年の歳月の間に、彼女に対する評価も変わっていったに違いない。何といっても、生身の人間と、古典と化した作品では、印象が異なるのは当然である。
紫式部は、同輩の女房のことを様々に評した中で、和泉式部について次のように述べている。
「和泉式部といふ人こそ、面白う書 き交しける。されど、和泉はけしからぬ方こそあれ。うちとけて文走り書き たるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見え侍るめり。歌はいとをかしきこと、ものおぼえ、歌のことわり、まことのうたよみざまにこそ侍らざめれ。口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目とまる詠み添へ侍り。それだに人の詠みたらん歌なん、ことわりゐたらんはいでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるゝなめりとぞ、見えたるすぢに 侍るかし。恥づかしげの歌よみやとは覺え侍らず」。(紫式部日記)
現代語に訳すと、文章の陰影を失うので、原文のままにしておくが、何となく奥歯に物がはさまったような言いぶりである。そして最後には、「はづかしげの歌詠みやとは、覚え侍らず」と、あっさり決めつけている。
だが、和泉式部は、はたしてその程度の歌詠みであろうか。たしかに、口にまかせて呼んだには違いないが、そういう人こそ天性の歌人というべきだろう。少なくとも、和歌に関するかぎり紫式部より、はるかにすぐれていることは、万人の認めるところである。
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※一人の一つの作品の解説にとどまらず、その背景にある歴史や人物までも光を当てて書いている。だからこそ、100の歌が有機的に結び付き、新たな輝きを放っている。百人一首を題材にした書物の中で、最も興味深く読める作品である。白洲正子は、幼少より能を学び、女性として初めて能舞台に立っている。また、骨董にも造詣が深く北大路魯山人とも交流があった。
平成26年12月17日 記