森本哲郎

           『続 生き方の研究』
                    森本哲郎

 明治45年4月30日、石川啄木は最期の息を引き取った。享年26歳、あまりにも短い一生だった。この年の7月30日、明治天皇崩御。時代は大正へと移る。啄木は明治とともに、生命(いのち)を終えたのである。人生50年といわれた時代でも、啄木の生涯はその半分、平均寿命80歳近くなった現在からみれば、わずか三分の一の歳月である。生き急いだという以外にない。それだけに、人生の刹那を、この上なく、いとおしんだのだった。
 刹那とは仏教の用語で瞬間という意味である。人間が指を弾くほんの一瞬、その一瞬が65刹那にあたるという。また、べつの計算によれば、一秒の七十五分の一が刹那ともいう。いずれにせよ、それを意識することは、とうてい不可能な極微の時間といっていい。
 けれども、人生はたとえ80年になろうと、100年になろうと、すべて刹那の連続であり、刹那によって構成されている。だとすれば、どうしてその刹那を看過することができよう。刹那をどのようにいかすか、それがその人の人生をきめ、その寿命をきめるのだ。刹那を、まるで宝のように握りしめて生きた啄木の生涯は、この意味で、けっして短いとはいえないのである。げんに彼は自分の生の営みを、おびただしい数の歌に、詩に、小説に、評論に、随想に、そして克明な日記にのこしているではないか。それらの作品に見られるのは、どれも一瞬、一瞬の自分を正直に見つめ、ひたすら、生きる証しを求めつづける意志、情熱、思索の軌跡である。そう彼は一瞬たりと、むだにはしなかった。あたかも自分の生命が常人の半分にすぎぬことを予感していたかのように。
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「昔、男わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを。」と『伊勢物語』には書かれてある。その成立は平安時代初期、人生が刹那であるという意識は、古来より現代まで何ら変わることがない。
だとすれば、我々はどのような生き様を目指せばよいのだろうか。
 石川啄木の短歌
  友がみな我より偉く見ゆる日よ花を買い来て妻と親しむ
  頬に伝ふ涙のごわず一握の砂をしめしし人を忘れず
  戯れに母を背負いてそのあまり軽きに泣きて三歩あゆまず
  かにかくに渋民村は恋しかり思ひ出の山思ひ出の川
  こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ
  ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな
  いくたびも死なむとしては死なざりし我が来しかたのをかしく悲し
  堅く握るだけの力もなくなりしやせし我が手のいとほしさかな
  ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
          平成27年1月22日 記



           『続 生き方の研究』
                           森本哲郎

     
 このように、美人の基準は時代、民族によって、かなりれ変わっているものだが、東洋、とくに中国や日本においては、やはりスリムな繊細な容姿がなによりももてはやされた。だから、佳人は薄命なのである。といっても美人のすべてが短命であったわけではない。げんに日本の美人の代表とされる小野小町は百歳近い長寿を保ったといわれている。しかし、薄倖であったことはたしかだ。いや、小町にかぎらず、美人の多くが不幸な生涯をたどっている。してみると、「美人薄命」というよりは、「美人薄倖」というほうが当たっている。そう、美人はつねに幸いが薄いのである。
 なぜなのだろう。美しい容姿にめぐまれたなら、より幸福な人生を送れてしかるべきなのに、必ずしもそうはいかない、どころか、むしろ不遇な運命を背負わされてしまうところに、人の世の無常がはっきりあらわれている。その原因は、まさしく人の心にあるのだ。美人はとうぜん憧憬の対象となる。憧憬はしだいに羨望へと移り、羨望はやがて嫉妬に変質する。そして、嫉妬はついには憎悪にまで高ぶってゆくからである。美人を薄倖にするのは、人びとのそうした無情、いや、無常の心根なのだ。
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人の美しさもかりそめの姿、美しさ故に儚いものである。小野小町を題材にした能の演目でも、その美しさを賛美したものではなく、「通小町」「卒塔婆小町」「関寺小町」など老いさらばえたものばかりである。いつまでも若くありたい美しくありたいと願うのは世の常、しかし、その妄執に囚われると己を失うことになる。
  (小野小町の短歌)
  花の色はうつにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
  思いつゝぬればや人の見えつらん夢と知りせばさめざらましを
  うたゝねに恋しき人を見てしよりゆめてふ物はたのみそめてき
  色みえでうつろふものは世の中の人の心の花にぞありける
              平成27年1月20日 記



           『生き方の研究』
                           森本哲郎
 
 子規が唱えた「写生」論は、けっして俳句や短歌や文章を創作するための技法ではなかった。それは彼が病気と闘いつつ、死と格闘しながら確信した哲学であり、生き方の原理ともいうべきものであった。
 写生とは対象を忠実に写しとることである。その対象とは何か。それは自己の存在をふくめた全自然であり、全宇宙にほかならない。忠実に写しとるとはどういうことか。正直に、素直に自然に向かい合い、それによって自然と渾然一体となること、さらにそれによって自然を越え、おのれを越えてゆくことにほかならない。
 子規は野心家だった。漱石の評言によれば、いつも「お山の大将」になりたがっていた。そのことは子規自身も認めている。だが、何たる不公平であろう。野心においてだれにも負けないと自認していた子規は、見るも無残な肉体を与えられていたのだ。わずか三十五年の生涯、しかもそのうちのいちばん貴重な七年余りを苦吟してとおしたのである。けれども子規は最後の最後まで頑張り通した。まことに超人的としか思えない彼の気力、それを支えたものこそ、正直に、率直に、全宇宙と向かい合い「生」を「写」しとろうとした「写生」の精神であり、いっさいの偽りを拒否した彼の生き方だった。私が子規に学ぶのは、なにより、どんな苦悩のなかにあっても「平気で生きる」というその悟達の心境なのである。
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子規の生き様については、ホームページでも「病床六尺」「仰臥漫録」「墨汁一滴」を通して紹介してきた。それは、まさしく生き地獄のなかで生き続けることであった。その中で、短歌や俳句の改革を進めていった。常人にできることではない。だから、人の心を揺さぶるのであろう。
    しぐるるや蒟蒻冷えて臍の上
    へちま咲いて痰のつまりし仏かな
    痰一斗糸瓜の水も間にあわず
    をととひのへちまの水も取らざりき
    障子あけよ上野の雪を一目見ん
    瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり
    瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす
    いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす
              平成27年1月19日 記



           『生き方の研究』
                           森本哲郎

 さても、人の評価ほど当てにならないものはない。毀誉褒貶は、まさしく世の習いである。そこで「棺を蓋(おお)うて事始めて定まる」などといわれるのだが、棺を蓋うたあとも、その人物についての評価は必ずしも定まるわけではない。時代により、善人とされた人間が悪玉とみなされるようになったり、極悪人ときめつけられていた人物が、反対に偉人に祭りあげられたりする。
 どれほど多くの人がこのような逆転の憂き目にあったことだろう。どれほどたくさんの人が長い歳月ののちに‘名誉回復’されたことか。だから孔子はこう洩(も)らしたのだ。いわく、
 人ノ己ヲ知ラザルヲ患(うれ)エズ。己レノ人ヲ知ラザルヲ患ウ。
 それほど、人を正しく評価することはむずかしいのである。最も親しい夫婦のあいださえ、そうではないか。ヨーロッパの格言にはこうある。「誤解して結婚し理解して別れる。」夫婦にしてこの始末なのだから、いわんや、友人、知人、他人においてをや!
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*歴史の中でも為政者により、人の評価がねじ曲げられることがある。ことほどさように、他からの評価は様々であり意図的だ。だから、我々は他からの評価に一喜一憂する必要はない。毀誉褒貶は一側面にしかすぎない。自分の信ずる道を歩むべきである。
              平成27年1月17日 記



        『生き方の研究』
                        森本哲郎

 その冒頭で兼好はこう書いている。
――人間としてこの世に生まれてきた以上、こうでありたい願うことはたくさんあろう。だが、いちばん願わしいことは、なまめかしくあるということだ・・・。
 なまめかしいとは、現代においては「つやっぽい」「あだっぽい」の意に解されているが、本来は「抑制された美しさ」のことである。つまり、けっして派手やかではないが気品がにじみ出ていて美しく感じられることであり、要するに奥ゆかしいと同義である。身の処し方、生き方において兼好が何よりも重視するのは、そうした「奥ゆかしさ」「上品さ」なのだ。
 その美学――倫理というよりは美学というべきであろう――『徒然草』の全編を貫く主題であり、ここから道徳をふくめた彼のすべての人生観が流れ出ているといってもよい。彼にとっては美しいことが善きことなのであり、正しいことでもあり、それが人間の条件なのである。したがって、彼にとっての人生の指針は、どのようにしてそうした美学を身につけるか、ということになる。いいかえれば、人間としての教養はそれにつきるのだ。
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*日本文学の研究者であるドナルド・キーンは、本日の読売新聞で、「漫画や映画、和食は産業として成功し、日本の小説は数多く翻訳され、ベストセラーにもなる。美術、建築、さらに生活のあらゆる場面で、日本的なセンスと造形は、世界的な美の基準になりつつある。
 私の見るところ、その遠いルーツは室町時代の将軍足利義政の美的趣味にある。彼の選んだ書院造りの簡素なしつらいは、西洋のブルジョア趣味が時代遅れとなり、現代人が理想とするシンプルな生活によく似合う。合理的で洗練され、自然と響き合うこの国の美的センスを、すでに多くの欧米人が共有している。
 (中略)
 大阪市では文楽協会へ補助金を出すかどうか、観客数で判断した。関西を代表する伝統芸能に対する何という冒涜か。要するに、海外でこれほど価値が認められつつある日本文化を、当の日本人は粗末に扱い続けてきた。そんな70年間であった。」と述べ、戦後70年間を検証している。
 ドナルド・キーンが言っている「理想とするシンプルな生活によく似合う。合理的で洗練され、自然と響き合うこの国の美的センス」ということは、まさに『生き方の研究』の中で取り上げている『徒然草』の世界である。自国の文化や歴史を冒涜するのではなく、見つめ直す時がきたのである。本ホームページでも『徒然草』は何度となく掲載している。是非読んでもらいたい。しかし、このようなことを米国人のドナルド・キーンから指摘されるのは、なんとも歯痒い。そうか、彼はもはや日本人(2012年日本に帰化)であったか。
              平成27年1月15日 記



         『生き方の研究』
                        森本哲郎

 蕪村はある意味でたいへん不幸な芸術家である。彼は画人であり、同時に俳人であったのだが、画業については同時代の池大雅と比較されて一歩譲るとみなされ、俳諧においては先達の芭蕉にとうてい及ばないと思われているからである。大雅との比較はともかく、芭蕉とくらべて蕪村がそれほどに評価されていないのは、以上見てきたように、彼の芸術が芭蕉とちがって求道的な情熱を欠き、高踏的な遊びごとのように受けとめられるからである。芭蕉は野ざらしを覚悟で生涯を笠と杖に托して、ただ一筋の道を歩んだ旅人だった。それにくらべて、蕪村は京都で家庭人となり、いわば小市民的な生涯を終えている。
  だが、いささか逆説のようにきこえるが、私は蕪村のような生活のほうが芭蕉の人生行路よりも、むしろ茨の道だつたのではないかと思う。たしかに芭蕉のように身を極限の状況に置くことは勇気を必要とする。「故郷を去り六親を離れて」ひとり放浪の日々を重ねることは凡人のよくするところではない。けれども、そうした求道の生き方を希求しながら「家にあって浮世のわざに苦しむ」場合のほうが、その希求が強ければ強いほど、余計に苛酷といえないだろうか。旅を栖(すみか)とする詩人は、日々おのれと忠実に向かい合うことができる。が、浮世の絆にかたく結ばれてしまった詩人は、最も恐るべき敵、「日常性への埋没」と不断に戦わねばならぬ。食うための苦労と、真に生きるための努力、この二者の乖離(かいり)こそ、人の心をこの上なくさいなむのである。さまざまな浮世の絆にしばられつつ、しかも美しく生きようとし、醜い現実の世界を、わが心で美しく仕立て直そうとするには苦行僧に似た強い意志と、みがきあげた才能を必要とするのだ。                    
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※風雅の道に生きた松尾芭蕉も世俗の垢にまみれて芸術性を追求した与謝蕪村も、その輝きは失われることはない。
              平成27年1月12日 記