島崎藤村 

             「家」
                          島崎藤村

  橋本の家の台所では昼飯の仕度に忙しかった。平素(ふだん)ですら男の奉公人人だけでも、大番頭から小僧まで入れて、都合六人のものが口を預けている。そこへ東京からの客がある。家族を合せると、十三人の食う物は作らねばならぬ。三度度々々この仕度をするのは、主婦のお種に取って、一仕事であった。とはいえ、こうういう生活に慣れて来たお種は、娘や下婢(おんな)を相手にして、まめまめしく働いいた。
 炉辺は広かった。その一部分は艶々と光る戸棚や、清潔な板の間で、流許(ながしもと)で用意したものは直にそれを炉の方へ運ぶことが出来た。暗い屋根裏からは、煤けた竹筒の自在鍵が釣るしてあって、その下で夏でも火が燃えた。この大きな、古風な、どこか厳(いかめ)しい屋造(やづくり)の内へ静かな光線を導くものは高い明窓で、その小障子の開いたところから青く透き徹るような空が見える。
 「カルサン」という労働の袴を着けた百姓が、裏の井戸から冷い水を汲くんで、流許へ担かついで来た。お種はこの隠居にも食わせることを忘れてはいなかった。
 お種は夫と一緒に都会の生活を送ったことも有り――娘のお仙が生れたのは丁度その東京時代であったが、こうして地方にも最早長いこと暮しているので、話す言葉が種々に混って出て来る。
「お春や」とお種は下婢の名を呼んで尋ねてみた。「正太はどうしたろう」
「若旦那様かなし。あの山瀬へお出いでたぞなし」
 こう十七ばかりに成るお春が答えたが、その娘らしい頬ほおは何の意味もなく紅く成った。
「また御友達のところで話し込んでると見える」とお種は考え深い眼付をして、やがて娘のお仙の方を見て、「山瀬へ行くと、いつでも長いから、昼飯には帰るまい--兄さんのお膳ぜんは別にして置けや」
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「木曾には小泉家と橋本家という二つの旧家が存在する。その家長の小泉実と橋本達夫は、伝統的な旧家の生き方などに縛られ時代から取り残されつつある。一方、その後を継ぐ橋本正太と、達夫の弟の小泉三吉は、自らが旧家の生れであるという呪縛から逃れられない。家を助けようとした正太は株に手を出したが失敗し女性関係にも悩まされ名古屋で没する。三吉は夫婦関係や兄との援助関係に悩みみつつも作家として大成し、一家の大黒柱のような存在になっていく。」
 (ウキィペディアに記載されている解説)
 平野謙は解説で、「『家の格が違います。どうしてお前さま、あんな家から橋本へ貰えるものかなし』と断言している。由来、古い日本の母親というものだが、心配するというかたちでしか子どもに対する愛情を表現する術を知らなかったのは事実だろう。客観的にはお種の心配も愛情表現の一表現だったかもしれない。」と述べている。江江戸から明治につながる家父長制を、家に縛られながら守り、生きる人々の姿を見見事に描き出している。

                平成27年12月7日 記



           「新生」
                           島崎藤村

 「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。然実を言えば何も書く材料は無いのである。黙していて済むことである。君と僕との交誼(まじわり)が深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。旧い家を去って新しい家に移った僕は懶惰(らんだ)に費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働くということが出来ない。他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。そんなら自分の意志の鞭を背にうけて、厳粛な人生の途(みち)に上るかというに、それも出来ない。今までに一つとして纏(まとま)った仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。空と雲と大地とは一日眺めくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕を倦ましめることが多い。新しい家に移ってからは、空地に好める樹木を栽えたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。そして僅(わず)かに発芽する蔬菜(そさい)のたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。勿論もちろん厨房の助に成ろう筈はずはない。こんな有様であるから田園生活なんどは毛頭(もうとう)思いも寄らぬことである。僕の生活は相変らず空な生活で始終している。そして当然僕の生涯の絃(げん)の上には倦怠(けんたい)と懶惰が灰色の手を置いているのである。考えて見れば、これが生の充実という現代の金口(きんく)に何等なんらの信仰をも持たぬ人間の必定(ひつじょう)堕ちて行く羽目であろう。それならそれを悔むかというに、僕にはそれすら出来ない。何故かというに僕の肉体には本能的な生の衝動が極めて微弱になって了しまったからである。永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽(かんせい)である。然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常――僕は僕の生気の失せた肉体を通して、この無常の鐘の音を今更ながらしみじみと聴き惚るることがある。これが僕のこのごろの生活の根調である……」
 郊外の中野の方に住む友人の手紙が岸本の前に披げてあった。
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※姪との道ならぬ関係を描いたこの作品を読んで、芥川龍之介は、島崎藤村を「老獪(ろうかい)な偽善者」と一蹴している。それは、芥川龍之介が、似たような家庭の事情から親近感を抱いていた藤村に、裏切られたという感情をもったためである。
                 平成27年8月15日 記   



          「破戒」
                         島崎藤村
                                
 蓮華寺れんげじでは下宿を兼ねた。瀬川丑松うしまつが急に転宿やどがへを思ひ立つて、借りることにした部屋といふのは、其蔵裏(くり)つゞきにある二階の角のところ。寺は信州下水内郡(しもみのちごほり)飯山町二十何ヶ寺の一つ、真宗に附属する古刹で、丁度其二階の窓に倚凭(よりかゝ)つて眺めると、銀杏の大木を経だてゝ飯山の町の一部分も見える。さすが信州第一の仏教の地、古代を眼前に見るやうな小都会、奇異な北国風の屋造(やづくり)、板葺の屋根、または冬期の雪除ゆきよけとして使用する特別の軒庇(のきびさし)から、ところどころに高く顕れた寺院と樹木の梢まで――すべて旧めかしい町の光景(ありさま)が香の烟の中に包まれて見える。たゞ一際目立つて此窓から望まれるものと言へば、現に丑松が奉職して居る其小学校の白く塗つた建築物であつた。
 丑松が転宿(やどがへ)を思ひ立つたのは、実は甚だ不快に感ずることが今の下宿に起つたからで、尤も賄でも安くなければ、誰も斯様(こんな)部屋に満足するものは無からう。壁は壁紙で張りつめて、それが煤けて茶色になつて居た。粗造な床の間、紙表具の軸、外には古びた火鉢が置いてあるばかりで、何となく世離れた、静寂(しづか)な僧坊であつた。それがまた小学教師といふ丑松の今の境遇に映つて、妙に佗しい感想を起させもする。
 今の下宿には斯ういふ事が起つた。半月程前、一人の男を供に連れて、下高井の地方から出て来た大日向(おほひなた)といふ大尽、飯山病院へ入院の為とあつて、暫時腰掛に泊つて居たことがある。入院は間もなくであつた。もとより内証はよし、病室は第一等、看護婦の肩に懸つて長い廊下を往つたり来たりするうちには、自然(おのづ)と豪奢(がうしや)が人の目にもついて、誰が嫉妬で噂するともなく、『彼あれは穢多(ゑた)だ』といふことになつた。忽ち多くの病室へ伝はつて、患者は総立。『放逐して了しまへ、今直ぐ、それが出来ないとあらば吾儕挙(われわれこぞ)つて御免を蒙る』と腕捲りして院長を脅(おびやか)すといふ騒動。いかに金尽(かねづく)でも、この人種の偏執には勝たれない。ある日の暮、籠に乗せられて、夕闇の空に紛れて病院を出た。籠は其儘もとの下宿へ舁かつぎ込まれて、院長は毎日のやうに来て診察する。さあ今度は下宿のものが承知しない。丁度丑松が一日の勤務を終つて、疲れて宿へ帰つた時は、一同『主婦(かみさん)を出せ』と喚き立てるところ。『不浄だ、不浄だ』の罵詈(ばり)は無遠慮な客の口唇を衝いて出た。『不浄だとは何だ』と丑松は心に憤つて、蔭ながらあの大日向の不幸を憐んだり、道理(いはれ)のないこの非人扱ひを慨(なげ)いたりして、穢多の種族の悲惨な運命を思ひつゞけた――丑松もまた穢多なのである。
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※まさに名作である。誰しもが読んでおきたい作品である。いわれ無き差別や偏見は、我々の社会から根絶しなくてはならない。島崎藤村は、この作品によって作家の地位を確実にしていく。
            平成27年8月11日 記   



           「夜明け前」
                            島崎藤村

 木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口であ。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
    第九章
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 水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もない。それは実に藩論分裂の形であらわれて来た。もとより、一般の人心は動揺し新しい世紀もようやくめぐって来て、誰もが右すべきか左すべきかと狼狽する時に当たっては、二百何十年来の旧を守って来た諸藩のうちで藩論の分裂しないところとてもなかった。
 水戸はそれが激しかっだ。『大日本史』の大業を成就して、大義名分を明らかにし、学問を曲げてまで世に阿るものもある徳川時代にあってとにもかくにも歴史の精神を樹立したのは水戸であった。彰考館の修史、弘道館の学問は、諸藩の学風を指導する役目を務めた。当時における青年で多少なりとも水戸の影響を受けないものはなかったくらいである。
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当時諸藩に党派争いはあっても、水戸のように惨酷を極めたところはない。
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※ 大作「夜明け前」には、水戸天狗党が木曾の宿を通り戦いをしていったことが記載されている。本文に記載されているとおり、水戸藩は、天狗党と諸生党とに二分して激しい内乱を引き起こしていた。その天狗党が、京都を目指して行く途中のでき事が書かれている。実際は、京都に行く前に捕縛され敦賀で斬首されることになる。中心人物である藤田小四郎や武田耕雲斎などの名前がでてくる。彼らの遺品は、水戸回天神社の一角にある回天館に収められている。
           平成27年7月4日 記