向田邦子

        「ごはん」
                         向田邦子

  「空襲。」
 この日本語はいったいだれがつけたのか知らないが、まさに空から襲うのだ。真っ赤な空に黒いB29。そのころはまだ怪獣という言葉はなかったが、繰り返ししつように襲う飛行機は、巨大な鳥に見えた。
 家の前の通りを、リヤカーを引き荷物を背負い、家族の手を引いた人たちが避難して行ったが、次々に上がる火の手に、荷を捨ててゆく人もあった。通り過ぎた後に大八車が一台残っていた。その上におばあさんが一人、ちょこんと座って置き去りにされていた。父が近寄ったとき、その人は黙って涙を流していた。
 炎の中からは、犬のほえ声が聞こえた。
 飼い犬は供出するよういわれていたが、こっそり飼っている家もあった。連れて逃げるわけにはゆかず、つないだままだったのだろう。犬とは思えないすさまじいケダモノの声はまもなく聞こえなくなった。
 火の勢いにつれてゴオッとすさまじい風が起こり、はがき大の火の粉が飛んでくる。空気は熱く乾いて、息をすると、のどや鼻がひりひりした。今でいえばサウナに入ったようなものである。
 乾ききった生け垣を、火のついたネズミが駆け回るように、火が走る。水を浸した火たたきでたたき回りながら、うちの中も見回らなくてはならない。
「かまわないから土足で上がれ!」
 父が叫んだ。
 私は生まれて初めて靴を履いたまま畳の上を歩いた。このまま死ぬのかもしれないな。」
と思いながら、泥足で畳を汚すことをおもしろがっている気持ちも少しあったような気がする。
 こういうとき、女は男より思い切りがいいのだろうか。父が、自分で言っておきながらつま先立ちのような半端な感じで歩いているのにひきかえ、母は、あれはどういうつもりだったのか、いちばん気に入っていた松葉の模様の大島の上にモンペをはき、いつもの運動靴ではなく父のコードバンの靴を履いて、縦横に走り回り、盛大に畳を汚していた。母も私と同じ気持ちだったのかもしれない。
 三方を火に囲まれ、もはやこれまでというときに、どうしたわけか急に風向きが変わり、夜が明けたら、我が隣組だけがうそのように焼け残っていた。私は顔じゅうすすだらけで、まつ毛が焼けてなくなっていた。
 大八車の主が戻ってきた。父が母親を捨てた息子の胸ぐらを取りこづき回している。そこへ弟と妹が帰ってきた。
 両方とも危うい命を拾ったのだから、感激の親子対面劇があったわけだが、不思議に記憶がない。覚えているのは、弟と妹が救急袋の乾パンを全部食べてしまったことである。うちの方面は全滅したと聞き、お父さんにしかられる心配はないと思って食べたのだという。
 自分たちだけになったという実感はなく、おなかいっぱい乾パンが食べられてうれしかった、と後で妹は話していた。
 さて、この後が大変で、絨毯爆撃がいわれていたこともあり、父は、この分でゆくと次は必ずやられる、最後にうまいものを食べて死のうじゃないかと言い出した。
 母はとっておきの白米をかまいっぱい炊き上げた。私は埋めてあったさつま芋を掘り出し、これもとっておきのうどん粉とごま油で、精進揚げをこしらえた。格別のやみルートのない庶民には、これでも魂の飛ぶようなごちそうだった。
 昨夜の名残で、どろどろに汚れた畳の上に薄べりを敷き、泥人形のような親子五人が車座になって食べた。辺りには、昨夜の余燼がくすぶっていた。
 我が家の隣は外科の医院で、かつぎ込まれた負傷者も多く、息を引き取った遺体もあったはずだ。被災した隣近所のことを思えば、昼日中から、天ぷらのにおいなどさせて不謹慎の極みだが、父は、そうしなくてはいられなかったのだと思う。
 母はひどく笑い上戸になっていたし、日ごろは怒りっぽい父が妙に優しかった。
「もっと食べろ。まだ食べられるだろ。」
 おなかいっぱい食べてから、親子五人が河岸のマグロのように並んで昼寝をした。
 畳の目には泥がしみ込み、いぐさが切れてささくれだっていた。そっと起き出してぞうきんでふこうとする母を、父は低い声でしかった。
「掃除なんかよせ。おまえも寝ろ。」
 父は泣いているように見えた。
 自分の家を土足で汚し、年端もゆかぬ子どもたちを飢えたまま死なすのが、家長として父として無念だったにちがいない。それも一個人ではどうがんばってもがんばりようもないことが口惜しかったにちがいない。
 学童疎開で甲府にいる上の妹のことも考えたことだろう。一人だけでも助かってよかったと思ったか、死なばもろとも、なぜ、出したのかと悔やんだのか。
 部屋の隅に、前の日に私がとってきたはまぐりやあさりが、割れて、干からびて転がっていた。
 戦争。
 家族。
 二つの言葉を結びつけると、私にはこの日の、みじめでこっけいな最後の昼餐が、さつま芋の天ぷらが浮かんでくるのである。
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※向田邦子の作品は、いつ読んでも心が締め付けられるような感懐に陥る。心の奥深いところに届くような表現がある。人と人の温もりが感じられる。昭和56年(1981年)8月22日、飛行機事故により台湾でなくなられたのが返す返すも残念でならない。
            平成26年11月1日 記


        「字のないはがき」
                         向田邦子

 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、 三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。
 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で、母は当時貴重品になっていたキャラコで肌着を縫って名札を付 け、父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。
「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」
と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。
 あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。
 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東 京に比べれば大マルにちがいなかった。
 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。
 下の妹は、校舎の壁に寄りかかって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣い たそうな。
 まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。
 妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
 夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」
と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へとび出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣 いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。
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※戦争の悲惨さや残酷さを大音声(だいおんじょう)に表している作品ではないが、戦争がどのようなことを引き起こし平和な生活を奪うかを我々に訴えてくる。
 大酒を飲み、家族に鉄拳を振るう頑固者の父親。しかし、戦争による家族との別れが、父親の違う一面を引き出す。娘を迎える父親の姿には、心を打たれる。向田邦子の作品には、人間の本質を剔抉(てっけつ)した言葉が、ちりばめられている。
            平成26年10月31日 記