芥川龍之介
「地獄変」
芥川龍之介
その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、――何と云ふ不思議な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇(たたずん)んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。
しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳か)さがございました。でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。
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※ 芸術至上主義を肯定するような作品であるが、娘を火炎地獄の中に置く良秀の気持ちが忖度(そんたく)できない。この作品は、「宇治拾遺物語」を参考にしている。
平成27年9月1日 記
「芋粥」
芥川龍之介
では、この話の主人公は、唯、軽蔑される為にのみ生れて来た人間で、別に何の希望も持っていないかと云うと、そうでもない。五位は五六年前から芋粥と云う物に異常な執着を持っている。芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛(あまかずら)の汁で煮た粥の事を云うのである。当時はこれが、無上の佳味として、上は万乗の君の食膳にさえ、上せられた。従って、吾五位の如き人間の口へは、年に一度、臨時の客の折にしか、はいらはい。その時でさえ、飲めるのは僅(わずか)に喉を沾(うるお)すに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云う事が、久しい前から彼の唯一の欲望になっていた。勿論、彼は、それを誰にも話した事がない。いや彼自身さえそれが、彼の一生を貫いている欲望だとは、明白に意識しなかった
事であろう。が事実は彼がその為に、生きていると云っても、差支(さしつかえ)ない程であった。--人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟(ひっきょう)、人生に対する路傍の人に過ぎない。
しかし、五位が夢想していた、「芋粥に飽かむ」事は、存外容易に事実となって現れた。その始終を書こうと云うのが、芋粥の話の目的なのである。
(中略)
或年の正月二日、基経の第に、所謂(いわゆる)臨時の客があった時の事である。臨時の客は二宮(にぐう)の大饗(だいきょう)と同日に摂政関白家が、大臣以下の上達部(かんだちめ)を招いて、催す饗宴で、大饗と別に変りがない。五位も、外の侍にまじって、その残肴(ざんこう)の相伴(しょうばん)をした。当時はまだ、取食(とりば)みの習慣がなくて、残肴は、その家の侍が一堂に集まって、食う事になっていたからである。尤も、大饗に等しいと云っても昔の事だから、品数の多い割りには碌な物はない、餅、伏菟(ふと)、蒸鮑(むしあび)、干鳥(ほしどり)、宇治の氷魚(ひお)、近江の鮒、鯛の楚割(すわやり)、鮭の内子(こごもり)、焼蛸、大海老、大柑子(おおこうじ)、小柑子(ここうじ)、橘、串柿などの類である。唯、その中に、例の芋粥があった。五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。が、何時も人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。それが今年は、特に、少かった。そうして気のせいか、何時もより、余程味が好い。そこで、彼は飲んでしまった後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についている滴を、掌で拭いて誰に云うともなく、「何時になったら、これに飽け
る事かのう」と、こう云った。
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※「人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一 生を捧げてしまう。その愚を哂う者は、畢竟(ひっきょう)、人生に対する路傍の人に過ぎない。」という文章があるが、ここに芥川龍之介の透徹した眼がある。どの作品も人間心理の分析に長けている。 地方の豪族が、力を付けてきたことを示す作品でもある。
平成27年8月1日 記
「蜘蛛の糸」
芥川龍之介
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐しい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。陀多は両手を蜘蛛の糸にからみながら、ここへ来てから何年にも出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきまの糸の下の方には、数限もない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。陀多はこれを見ると、驚いたのと恐しいのとでしばらくはただ、莫迦(ばか)のように大きな口を開いたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落しに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。
そこで陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですから陀多もたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。
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※誰しもが自分だけはという感情はあり、このようなことを一度は考えたか経験したはずだ。自分のことを書かれたようで忸怩(じくじ)たる思いがする。しかし、お釈迦様も悪戯をするものだ。
平成27年3月5日 記
「杜子春」
芥川龍之介
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、好いと思っているのだな。」
閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚(ワメ)きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打ち砕いてしまえ。」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈(みしゃく)なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打ち破るのです。馬は、ーー畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べた儘、見てもいられない程嘶(いなな)き立てました。「どうだ。まだその方は白状しないか。」
閻魔大王は鬼どもに、暫く鞭の手をやめさせて、もう一度杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶え絶えに階の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊(かた)く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆(ほとんど゙)声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で。」
それは確に懐しい、母の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転(まろ)ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸(くび)を抱いて、はらはらと涙を落しながら、
「お母さん。」と一声を叫びました。………
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※吉田松陰の短歌に次のようなものがある。
「親思ふこころにまさる親ごころ今日の音づれ何ときくらん」
まさに親の愛は何物にも代え難い。それなのに、近頃は子どもを虐待して死に至らしめる親がいる。獣にも劣る所業である。今、日本の結婚の4分の1は再婚だということだ。それらによる家族の崩壊も関係しているのだろう。
平成27年3月4日 記
「鼻」
芥川龍之介
--人間の心には互に矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。そうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くような事になる。--内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない。
そこで内供は日毎に機嫌が悪くなった。二言目には、誰でも意地悪く叱りつける。しまいには鼻の療治をしたあの弟子の僧でさえ、「内供は法慳貪(ほうけんどん)の罪を受けられるぞ」と陰口をきく程になった。殊に内供を忿(おこ)らせたのは、例の悪戯な中童子である。或日、けたたましく犬の吠える声がするので、内供が何気なく外へ出て見ると、中童子は、二尺ばかりの木の片(きれ)をふりまわして、毛の長い、痩せた尨犬(むくいぬ)を逐いまわしている。それも唯、逐いまわしているのではない。「鼻を打たれまい。それ、鼻を打たれまい」と囃しながら、逐いまわしているのである。内供は、中童子の手からその木の片をひったくって、したたかその顔を打った。木の片は以前の鼻持上(はなもた)げの木だったのである。
内供はなまじいに、鼻の短くなったのが、反て恨めしくなった。
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※人間の心には相矛盾する二つの心があるという段落は圧巻である。まさに人間の深層心理を 剔抉(てっけつ)している。芥川龍之介の作品は、読む年代によっても感じ方が違う。この作品は、その最たるものである。説話集「今昔物語集」を参考にして書かれている。
平成27年3月3日 記
「トロッコ」
芥川龍之介
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば――」良平はそう思いながら、辷すべってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駈け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」
などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家うちの門口へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲まわりへ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣わけを尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………。
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※良平が家に着いた瞬間、わっと泣き出す。ここに作品の真髄がある。芥川龍之介は、人間の奥深い感情を見事に表現することに関して他の追随を許さない。
平成27年3月2日 記
「蜜柑」
芥川龍之介
或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒(いちりゅう)のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ――その時その蕭索(しょうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頬の赤い三人の男の子が、目白押しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉に手を挙げるが早いか、いたいけな喉を高く反らせて、何とも意味の分らない喊声(かんせい)を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆(いくくわ)の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、不相変(あひかはらず)皸(ひび)だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。…………
私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
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※貧しい山村のある風景の一部を切り取ったような作品であるが、いつまでも心に残っている。芥川龍之介の真骨頂とも言える作品だろう。珠玉の一編である。
平成27年2月11日 記
「ある日の内蔵助」
芥川龍之介
「江戸中で仇討ちの真似事が流行はやると云う、あの話でございます。」
藤左衛門は、こう云って、伝右衛門と内蔵助とを、にこにこしながら等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云うものは、実に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までそう云う真似がして見たくなるのでございましょう。これで、どのくらいじだらくな上下の風俗が、改まるかわかりません。やれ浄瑠璃の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行っている時でございますから、丁度よろしゅうございます。」
会話の進行は、また内蔵助にとって、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辞を述べながら、巧みにその方向を転換しようとした。
「手前たちの忠義をお褒下さるのは難有たいが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
こう云って、一座を眺めながら、
「何故かと申しますと、赤穂一藩に人も多い中で、御覧の通りここに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。もっとも最初は、奥野将監(おくのしょうげん)などと申す番頭も、何かと相談にのったものでございますが、中ごろから量見を変え、ついに同盟を脱しましたのは、心外と申すよりほかはございません。そのほか、新藤源四郎、河村伝兵衛、小山源五左衛門などは、原惣右衛門より上席でございますし、佐々小左衛門なども、吉田忠左衛門より身分は上でございますが、皆一挙が近づくにつれて、変心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい気のするのも無理はございますまい。」
一座の空気は、内蔵助のこの語ことばと共に、今までの陽気さをなくなして、急に真面目調子を帯びた。この意味で、会話は、彼の意図通り、方向を転換したと云っても差支えない。が、転換した方向が、果して内蔵助にとって、愉快なものだったかどうかは、自ずからまた別な問題である。
彼の述懐を聞くと、まず早水藤左衛門は、両手にこしらえていた拳骨を、二三度膝の上にこすりながら、
「彼奴等らは皆、揃いも揃った人畜生ばかりですな。一人として、武士の風上にも置けるような奴は居りません。」
「さようさ。それも高田群兵衛などになると、畜生より劣っていますて。」
忠左衛門は、眉をあげて、賛同を求めるように、堀部弥兵衛を見た。慷慨家の弥兵衛は、もとより黙っていない。
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※ 大石内蔵助の心の内を赤裸々に書いている。芥川龍之介の独特の見方が興味深い。この事件の始末は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見がとおり全員切腹となる。将来に禍根を残さない英断であった。だからこそ、その顛末は、今でも人気を博しているのである。しかし、赤穂浪士の心の内は、様々だったはずである。ちなみに、林羅山(はやしらざん)や室鳩巣(むろきゅうそう)などが助命論を展開した。
大石内蔵助の辞世の句は
「あら楽し思ははるる身は捨つる浮世の月にかかる曇なし」
である。
平成27年2月10日 記
「枯野抄」
芥川龍之介
元禄七年十月十二日の午後である。一しきり赤々と朝焼けた空は、又昨日のやうに時雨れるかと、大阪商人の寝起の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの静な冬の昼になつた。立ちならんだ町家の間を、流れるともなく流れる川の水さへ、今日はぼんやりと光沢を消して、その水に浮く葱の屑も、気のせゐか青い色が冷たくない。まして岸を行く往来の人々は、丸頭巾をかぶつたのも、革足袋をはいたのも、皆凩の吹く世の中を忘れたやうに、うつそりとして歩いて行く。暖簾の色、車の行きかひ、人形芝居の遠い三味線の音――すべてがうす明い、もの静な冬の昼を、橋の擬宝珠(ぎぼうしゅ)に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと守つてゐる……
この時、御堂前南久太郎町、花屋仁左衛門の裏座敷では、当時俳諧の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃青(とうせい)が、四方から集つて来た門下の人人に介抱されながら、五十一歳を一期として、「埋火のあたたまりの冷むるが如く、」静に息を引きとらうとしてゐた。時刻は凡そ、申の中刻にも近からうか。――隔ての襖をとり払つた、だだつ広い座敷の中には、枕頭にたきさした香の煙が、一すぢ昇つて、天下の冬を庭さきに堰いた、新しい障子の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるやうに冷々する。その
障子の方を枕にして、寂然と横はつた芭蕉のまはりには、先、医者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉をひそめてゐた。その後に居すくまつて、さつきから小声の称名を絶たないのは、今度伊賀から伴に立つて来た、老僕の治郎兵衛に違ひない。と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥満の晋子其角が、紬の角通しの懐を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々しい去来と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる。それから其角の後には、法師じみた丈艸が、手くびに菩提樹の珠数をかけて、端然と控へてゐたが、隣に座を占めた乙州の、絶えず鼻を啜つてゐるのは、もうこみ上げて来る悲しさに、堪へられなくなつたからであらう。その容子をぢろぢろ眺めながら、古法衣の袖をかきつくろつて、無愛想な頤(おとがい)をそらせてゐる、背の低い僧形は惟然坊で、これは色の浅黒い、剛愎さうな支考と肩をならべて、木節の向うに坐つてゐた。あとは唯、何人かの弟子たちが皆息もしな
いやうに静まり返つて、或は右、或は左と、師匠の床を囲みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでゐる。が、その中でもたつた一人、座敷の隅に蹲(うずくま)つて、ぴつたり畳にひれ伏した儘、慟哭(どうこく)の声を洩してゐたのは、正秀ではないかと思はれる。しかしこれさへ、座敷の中のうすら寒い沈黙に抑へられて、枕頭の香のかすかな匂を、擾(みだ)す程の声も立てない。
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※ 松尾芭蕉の最期の時における弟子たちの心の動きを冷徹に書いた作品である。ちなみに芭蕉の最後の句は、
「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」
平成27年2月9日 記
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