水上勉

          金閣炎上
                 水上勉   

 金閣が焼けたとき、浦和市白幡町の農家の土蔵を借りて住んでいた。のちに別れた妻が神田のダンスホールへ通う留守を、四歳だった長女を守しながらのぐうたら生活だった。浦和でも号外が出た。藁半紙の半切ぐらいの大きさで「国宝金閣焼ける」と大見出しがあり、“放火容疑者は同寺徒弟の大学生”と副見出しだった。鈴を鳴らしてきた配達少年から買って、短い文章をむさぼるように読んだ。毎日新聞であった。なぜ、そんなことをおぼえているかといえば、文章に小さい誤りがあった。「今暁午前三時〇五分京都市北山金閣寺町鹿苑寺(通称金閣寺、住職村上慈宗氏)にあった国宝金閣が炎上した」このリード文の、住職村上慈宗とあるのは誤りだった。慈宗でなく、慈海で、私の親しんだ海さんは僧堂時代の呼名、のちになって慈海和尚あるいは、慈海長老とよばれた。住職の名をまちがえるほどだから、あてにはならないものだなあ、という新聞への感想は、その号外からである。だが夕刊がきてわかった。午前三時〇五に炎上した金閣は徒弟林養賢によって放火されていた。私は絶句した。六年前高野野分教場にいたころ、青葉山うらで逢った中学生がやったのだ。帽子を阿弥陀にかぶった額ぎわのせまい男。私と滝谷の会話に聞き入っていた吃音(きつおん)少年だった。あの火をつけたか。
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※生来の吃音、母親との確執、父親譲りの結核など、金閣寺を焼失させた理由が取りざたされる。水上勉は、事件から約30年経ってから、この作品を書き上げる。三島由紀夫の『金閣寺』と比較して読むのもおもしろい。

           平成29年1月5日 記