和泉式部
馬場あき子
赤染衛門(あかぞめえもん)と和泉式部とは、とかく対比されやすい女流であった。それは歌人としての優劣よりも、身持ちのよい賢夫人として「匡衡衛門(まさひらえもん)と夫の名を直接かぶせた愛称をもってよばれるほどの赤染衛門に対して、とかく情に流されやすく、多くの男からつねになにがしかの期待感をもってみつめられ、紫式部からは「けしからぬ方こそあれ」と批難される不行跡を、よるとさわると噂されてしまう和泉式部の人間の弱さが、あまりにも対照的であったからであろう。
歌人としての作品を検討すれば、誰しも和泉式部が上であることはわかっていた、とはさきの公任(きんとう)大納言のことばである。公任大納言といえば紫式部も遠慮したほどの才学の人で、かつて関白道長が、大井川に催した遊宴に、作文・和歌・管弦の船をもうけたが、そのいずれに乗っても当代一の名を得ることができるという、いわゆる三船の才をもった人物である。
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※出色の歌人と知られる魅力的な人物である。一方、子の小式部内侍(こしきぶのないし)や帥宮敦道親王(そちのみやあつみちしんのう)の死に遭遇するなど、決して平坦ではなかった。変わらぬ女心の相克を、この本は見事に描き出している。
《和泉式部の短歌》
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月
わがこころ夏の野辺にもあらなくにしげくも恋のなりまさるかな
あらざらんこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
背子が来て臥しし傍(かたわら)寒き夜はわが手枕をわれぞして寝る
平成29年3月7日 記