正岡 子規

            「水戸紀行」
                         正岡子規

 こゝより路を轉(てん)じて水戸公園常盤神社に至り左にいづれば、數百坪の芝原平垣にして毛氈(じゅうたん)の如し。左は十間許りのがけにして此がけの下は直ちに仙波沼なり。此沼には限らず此近邊には沼多し。沼の水は深くはあらされとも一面に漲(みなぎ)れり。こは灌漑(かんがい)の用に供するために今より水門を閉ぢて、たくはへおくによるものにてさなき時は水乾(か)れてきたなしとぞ。
 かの芝生の上にて七八人の小供の十許りなるがうちむれて遊ひゐたり。何やと近つき見ればベース、ボールのまね也。ピッチャアありキャッチャアありベース、メンあり。ストライカーは竹を取りて毬(女の持て遊ぶまりならん)を打つ。規則十分にとゝのはずとはいへファヲル、アウト位の事を知りたり。此地方に此遊戲を存ずるは體操傳習所の卒業生などが、小學校にてひろめたるならんと思ひやらる。かへり見がちに打ち過ぎ行けば一株の枝垂櫻あり。稍脣を開いて笑はなんとす。
 其下に竹垣、柴の戸などあり。内は色々の木などうつくしくつみいれて、いと淸らかなる中に二階づくりの家一棟二棟あり。富貴なる人の別荘と見受けられたるかまへ何とも分らねば、つかつかと進み入りて見れは好文亭なりけり。番人の許しを得て上りて部屋を見まはすに額、襖、掛物の類皆當藩諸名家の筆也。
 二階に上りて見れば仙波沼脚下に横たはり向ひ岸は岡打ちつゞきて樹などしげりあへり、すぐ目の下を見ればがけには梅の樹斜めにわだかまりて花いまだ散り盡さず。此がけと沼の間に細き道を取りたるは滊車の通ふ處也。此樓のけしきは山あり水あり奥如(おくじょ)と曠如(こうじょ)を兼ねて天然の絶景と人造の庭園と打ちつゞき常盤木(ときわぎ)、花さく木のうちまじりて何一ッかげたるものなし。 
 余は、未だ此(かく)の如く婉麗幽遠(えんれいゆうえん)なる公園を見たることあらず。景勝は常に噂(うわさ)よりはあしきものなれどもこゝ許(ばか)りは想像せしよりもはるかによかりき。
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※明治22年正岡子規は、友人と水戸を訪ねた。その折のことを まとめたのが『水戸紀行』だ。この文章は、偕楽園について記載した部分で、想像したよりもずっと良かったとなっている。確かに偕楽園は、天下の名園である。その名は、『孟子』の「古の人は、民と偕(とも)に楽しむ、故に能(よ)く楽しむなり」という一節からきている。また、子規は、「崖(がけ)急に梅ことごとく斜めなり」と偕楽園の有様も俳句に詠んでいる。ベースボールについて記しているのは、「野球」と命名した子規ならではのことであろう。
  偕楽園に確かな存在感を示す好文亭。好文亭は偕楽園の一角に佇む建物で、木造二層三階建ての好文亭本体と木造平屋造りの奥座敷からできている。徳川斉昭は、ここに文人墨客や家臣領内の人々を集めて、詩歌の会などを開催していた。
 晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、 梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」といったことから「好文亭」と命名 されたと言われている。ちなみに日本三名園の中で、偕楽園だけが入場無料である。水戸っぽの心意気ここにありか。
 平成29年1月28日のNHKの「ブラタモリ」で水戸が紹介された。偕楽園が藩校弘道館と一対で「一張一弛」の関係だということであった。
 ところで、いま偕楽園では「梅まつり」の最中であるが、上記ようなことを是非伝えていってほしい。
           平成30年3月17日 記



         「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」
                      正岡子規

 余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解して居た。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思って居たのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。
                  明治35年6月2日
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※まさに人生の要諦、生きることの真実である。病魔との闘いの中から掴んだ真実である。もちろん、この境地に達するのは数々の葛藤があったであろが、子規は心の折れない人であった。ネットに軽々に死にたいなどと書き込み悲惨なことになってしまった多くの女性がいたが、子規の壮絶な闘いの果てに死を迎えた生き様を知れば、そんな考え方も起こさなかったろうにと残念でならない。
          平成29年11月20日 記



         「墨汁一滴(ぼくじゅういってき)」
                  正岡子規

 年頃苦しみつる局部の痛の外に左横腹の痛去年(こぞ)より強くなりて、今ははや筆取りて物書く能(あた)はざるほどになりしかば思ふ事腹にたまりて心さへ苦しくなりぬ。かくては生けるかひもなし。はた如何にして病の牀(とこ)のつれづれを慰めてんや。思ひくし居るほどにふと考へ得たるところありて終(つい)に墨汁一滴といふものを書かましと思ひたちぬ。こは長きも二十行を限りとし短きは十行五行あるは一行二行もあるべし。病の間ひまをうかがひてその時胸に浮びたる事何にてもあれ書きちらさんには全く書かざるには勝りなんかとなり。されどかかるわらべめきたるものをことさらに掲げて諸君に見まみえんとにはあらず、朝々(あさあさ)病の牀にありて新聞紙を披(ひら)きし時我書ける小文章に対して聊(いささ)か自ら慰むのみ。
     筆禿(ち)びて返り咲くべき花もなし
         明治34年1月24日
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※正岡子規は、病に伏した明治34年の1月から「墨汁一滴」を書き始め、「仰臥漫録」「病牀六尺」とつないでいく。ついには、筆を執る力もなくなり口述のやむなきにいたっている。そして、明治35年9月19日に終焉を迎える。清冽な文章の美しさは、読み手に惻々と迫り、珠玉の感動を与える。
        平成29年11月18日 記



        「仰臥漫録(ぎょうがまんろく)」
                      正岡子規

 錐(きり)デ心臓ニ穴ヲアケテモ死ヌルニ違ヒナイガ長ク苦シンデハ困ルカラ穴ヲ三ツカ四ツカアケタラ直ニ死ヌルデアロウカト色々ニ考ヘテ見ルガ実ハ恐ロシサガ勝ツノデソレト決心スルコトモ出来ヌ。死ハ恐ロシクハナイノデアルガ苦(くるしみ)ガ恐ロシイノダ。病苦デサヘ堪(こら)ヘキレヌニ此上(このうえ)死ニソコナフテハト思フノガ恐ロシイ。ソレバカリデハナイ、矢張刃物ヲ見ルト底の方カラ恐ロシサガ湧イテ出ルヤウナ心持モスル。
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※脊椎カリエスに冒された正岡子規は、ただ仰向けに寝ている以外になかった。骨は次第に溶けてゆき、体のいたる所に穴があき、そこから絶え間なく膿が出て、包帯を変えるたびにガーゼとともに皮膚がはがれ、穴は空洞のように広がる惨状であった。この苦痛を解消してくれるのは、死以外になかった。枕元の原稿用紙をとじるための千枚通しで心臓を突けば、この激痛から解放されると考えるのであるが、その死すら思いのままにならない。このような苦しさの中で、子規は俳句や短歌の仕事を続けていった。その強靱な精神力に、ただただ頭が下がるだけである。これを書いた翌年の明治35年9月19日、死がようやく苦痛から解放してくれた。
    いちはつの花咲きいでて我目には今年ばかりの春行かんとす  子規
         平成29年11月17日 記



          「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」  
                  正岡子規

 病牀六尺、これが我が世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広すぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れることはあるが、蒲団の外まで足を延ばして体をくつろぐことも出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けないことがある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪るはかなさ、それでも生きていればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪しゃくにさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして。
             明治35年5月5日
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※「病牀六尺」は、明治35年5月5日から9月17日までの127回の日記である。最終回から2日後に35歳の生涯を閉じていく。脊椎カリエスに冒された体は、自由を奪われ、病床から見える所だけが、子規の世界になっていく。起きあがれればいいと思うようになった時には、起きあがることもできなくなっていた。寝返りができればいいと思うようになった時は、寝返りもできなくなっていた。子規は、なんと希望が小さくなったことかと書いている。最後は、口述のやむなきに至る。
    糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな
    痰一斗(たんいっと)糸瓜の水も間にあわず
    をととひのへちまの水も取らざりき
 その病床にありながら、子規は短歌や俳句の改革を行っている。その精神力の強さに驚愕せざるをえない。いま、帯状疱疹で苦しんでいるが、それは子規からみたら取るに足らないことだろう。
          平成28年6月18日 記



          「墨汁一滴」
                     正岡子規

 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、昔より伝へられたる数十百の歌集の中にて最もっとも善き歌を多く集めたるは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と答へん者賀茂真淵(かものまぶち)を始め三、四人もあるべきか。その三、四人の中には余り世人に知られぬ平賀元義(ひらがもとよし)といふ人も必ず加はり居るなり。次にこれら歌人に向ひて、しからば我々の歌を作る手本として学ぶべきは何の集ぞ、と問はん時、そは『万葉集』なり、と躊躇(ちゅうちょ)なく答へん者は平賀元義一人なるべし。万葉以後一千年の久しき間に万葉の真価を認めて万葉を模倣し万葉調の歌を世に残したる者、実に備前の歌人平賀元義一人のみ。真淵の如きはただ万葉の皮相を見たるに過ぎざるなり。世に羲之(ぎし)を尊敬せざる書家なく、杜甫を尊敬せざる詩家なく、芭蕉を尊敬せざる俳家なし。しかも羲之に似たる書、杜甫に似たる詩、芭蕉に似たる俳句に至りては幾百千年の間絶無にして稀有(けう)なり。歌人の万葉におけるはこれに似てこれよりも更に甚(はなは)だしき者あり。彼らは万葉を尊敬し人丸(ひとまろ)を歌聖とする事において全く一致しながらも毫(ごう)も万葉調の歌を作らんとはせざりしなり。この間においてただ一人の平賀元義なる者出でて万葉調の歌を作りしはむしろ不思議には非(あらざ)るか。彼に万葉調の歌を作れと教へし先輩あるに非ず、彼の万葉調の歌を歓迎したる後進あるに非ず、しかも彼は卓然(たくぜん)として世俗の外に立ち独り喜んで万葉調の歌を作り少しも他を顧ざりしはけだし心に大おおいに信ずる所なくんばあらざるなり。
                明治35年2月14日
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※この文章を読むと、正岡子規がいかに『万葉集』に心酔していたか分かる。ウィキペディア(フリー百科事典)には、「彼の著作のうち短歌にもっとも大きな影響を与えた『歌よみに与ふる書』がそれである。『歌よみに与ふる書』における歌論は俳句のそれと同様、写生・写実による現実密着型の生活詠の重視と『万葉集』の称揚・『古今集』の否定に重点が置かれている。」とある。病床の中で多くの価値ある仕事をしたのである。
             平成26年12月16日 記



         「墨汁一滴」
                      正岡子規

 人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀(びょうしょう)における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(あるき)得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望(のぞみ)かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時間なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早(もはや)我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃(ねはん)といひ耶蘇(やそ)はこれを救ひとやいふらん。
            明治34年1月31日
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※病に伏した正岡子規の希望は、次第に小さくなっていく。庭を歩きたいと思った時には歩けなくなっていたし、起きあがれればと願った時には起きあがれなくなっていた。「人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。」と書いているが、まさにそのとおりである。子規の心情を察するにあまりある。
             平成26年12月14日 記