千すじの黒髪
田辺聖子
私はそれによって晶子の歌を更に知ろうとした。
そうして、彼女の歌集をみつけて手に入れたのであるが、それは女学校の図書室ではなかった気がする。当時もう図書室は、救急訓練か何かの課外活動にあてられていて、戦時下の女学生として包帯の巻きかたや止血法、人工呼吸、副木(そえぎ)の当てかたなどの講習をうける場所であった気もする。のちには全校生徒が烈日炎天下の校庭で一せいに実地訓練し、担架を担いで走ったりしていた。そんなわけで、すでに図書室は机も椅子も取り払われ、蔵書も見なかったように思う。多分、家の近くの古本屋で買い求めたにちがいない。なにげなくひらいた私は、あまりにも教科書の歌とはちがう歌にとまどった。
彼女の第一歌集「みだれ髪」は、元来、かなり難解なものである。おそらく女学生の私には読み下しても意味の通ぜぬ歌が多くて、読みとばした作品が多かったであろう。しかしそれでも、私はたちまち青春と恋と大胆放恣(ほうし)な官能の息吹に眩惑され、歌の中に引きこまれた。
あまりにもけざやかな色彩と音がそこにあった。臙脂(えんじ)、紫と、心をそそる魔性の色である。草花はことごとく毒を持ち、鐘の音は傲岸不遜(ごうがんふそん)に鳴りひびき、恋の息吹きに血はしたたり、狂わせる女は哄笑(こうしょう)しどよめくのである。
なんという豊かな、おそろしい、拡がりゆく世界。なだれおちる言葉。なんでもない言葉が、晶子の唇から洩れると、たちまち狂気の炎ともえ、身をもんですすり泣くかなしみと化し、ねたみ、もだえ、苦悩の極限から、かぎりない歓喜へ昇華してしまう、なんという美しい変幻自在。
やは肌のあつき血潮にふれもみでさびしからずや道を説く君
乳ぶさおさへ神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅ぞ濃き
春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳を手にさぐらせぬ
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※抑圧された戦時下で与謝野晶子の「みだれ髪」に出会った戸惑い、罪悪感、驚きが、この本には貫かれている。晶子への飽くなき憧憬が感じられる。作者もあとがきに「わが魂の住人となって久しかった。」と書いている。
平成29年3月8日 記