吉野弘

    祝婚歌  
            吉野  弘

     二人が睦まじくいるためには
     愚かでいるほうがいい
     立派すぎないほうがいい
     立派すぎることは
     長持ちしないことだと気付いているほうがいい
     完璧をめざさないほうがいい
     完璧なんて不自然なことだと
     うそぶいているほうがいい
     二人のうちどちらかが
     ふざけているほうがいい
     ずっこけているほうがいい
     互いに非難することがあっても
     非難できる資格が自分にあったかどうか
     あとで
     疑わしくなるほうがいい
     正しいことを言うときは
     少しひかえめにするほうがいい
     正しいことを言うときは
     相手を傷つけやすいものだと
     気付いているほうがいい
     立派でありたいとか
     正しくありたいとかいう
     無理な緊張には
     色目を使わず
     ゆったり ゆたかに
     光を浴びているほうがいい
     健康で 風に吹かれながら
     生きていることのなつかしさに
     ふと 胸が熱くなる
     そんな日があってもいい
     そして
     なぜ胸が熱くなるのか
     黙っていても
     二人にはわかるのであってほしい
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※この詩は、結婚生活を完結させるための要諦である。離婚率が上がっている。そのため、貧困家庭が児童生徒の6分の一にものぼるという。もっとも被害を受けているのは、子どもたちである。大人の身勝手や我が儘で、子どもたちを追い込んではならない。
         平成28年4月25日 記 



     漢字喜遊曲
          吉野弘

  母は
  舟の一族だろうか。
  こころもち傾いているのは
  どんな荷物を
  積みすぎているせいか。

  幸いの中の人知れぬ辛さ
  そして時に
  辛さを忘れてもいる幸い。
  何が満たされて幸いになり
  何が足らなくて辛いのか。

  舞という字は
  無に似ている。
  無の織りなすくさぐさの仮象
  刻々 無のなかに流れ去り
  しかし 幻を置いてゆく。

  ――かさねて
  舞という字は
  無に似ている。
  舞の姿の多様な変幻
  その内側に保たれる軽やかな無心
  舞と同じ動きの。

  器の中の
  哭。
  割れる器の嘆声か
  人という名の器のもろさを
  哭く声か。
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※視点を変えれば、様々なことが見えてくる。何事も多面的に見ることが大切だ。漢字一つでも、このような見方ができる。「無心」か、永遠の課題だ。
 この詩の一節が、昨日の読売新聞「編集手帳」の中で取り上げられていた。
         平成28年4月20日 記 



        夕焼け
             吉野弘

       いつものことだが
       電車は満員だった。
       そして
       いつものことだが
       若者と娘が腰をおろし
       としよりが立っていた。
       うつむいていた娘が立って
       としよりに席をゆずった。
       そそくさととしよりが坐った。
       礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
       娘は坐った。
       別のとしよりが娘の前に
       横あいから押されてきた。
       娘はうつむいた。
       しかし
       又立って
       席を
       そのとしよりにゆずった。
       としよりは次の駅で礼を言って降りた。
       娘は坐った。
       二度あることは と言う通り
       別のとしよりが娘の前に
       押し出された。
       可哀想に
       娘はうつむいて
       そして今度は席を立たなかった。
       次の駅も
       次の駅も
       下唇をキュッと噛んで
       身体をこわばらせて――。
       僕は電車を降りた。
       固くなってうつむいて
       娘はどこまで行ったろう。
       やさしい心の持主は
       いつでもどこでも
       われにもあらず受難者となる。
       何故って
       やさしい心の持主は
       他人のつらさを自分のつらさのように
       感じるから。
       やさしい心に責められながら
       娘はどこまでゆけるだろう。
       下唇を噛んで
       つらい気持ちで
       美しい夕焼けも見ないで。
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※日常的な一場面を切り取ったこの詩には、心優しい女性が描かれている。おそらく作者も心根の優しい人なのだろう。感性を高めれば、何の変哲もない生活からも詩は生まれるものだ。
         平成28年4月15日 記 



          生命(いのち)は
                吉野弘

      生命は
      自分自身だけでは完結できないように
      つくられているらしい
      花も
      めしべとおしべが揃っているだけでは
      不充分で
      虫や風が訪れて
      めしべとおしべを仲立ちする
      生命は
      その中に欠如を抱き
      それを他者から満たしてもらうのだ

      世界は多分
      他者の総和
      しかし
      互いに
      欠如を満たすなどとは
      知りもせず
      知らされもせず
      ばらまかれている者同士
      無関心でいられる間柄
      ときに
      うとましく思うことさえも許されている間柄
      そのように
      世界がゆるやかに構成されているのは
      なぜ?

      花が咲いている
      すぐ近くまで
      虻の姿をした他者が
      光をまとって飛んできている

      私も あるとき
      誰かのための虻だったろう

      あなたも あるとき
      私のための風だったかもしれない
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※寄り添って生きるから人なのだ。それを忘れてはならない。この作品は、中学三年生の国語の教科書に取り上げられている。
         平成28年4月10日 記