高野佐三郎『剣道』
『剣道』
高野佐三郎
思念工夫の要
剣道においては理論を先に教うべきか、技術の練習を先にすべきかにつき、多少の異論あるがごとし。しかれどもこは両々相俟(あいま)ちて始めて効を為すものにして一方に偏すべきことにあらず。実際剣を揮(ふる)いて練習の効を重ねるにあらざれば上達することなし。理論をいかに精密に究むるも、同時に練習の伴うなくんば畢竟(ひっきょう)空論のみ。しかれどもただ手足を働かすのみにして理論のこれを導くなければ、いたずらに労苦するも進歩向上する事は覚束(おぼつか)なからん。ゆえに常に練習を怠らざると同時に仕合するごとに自己の習癖に注意し、先輩につきて己れの欠点を質(ただ)し、他人の稽古試合にもよく意を留め、姿勢・動作・間合い・気合・気位などをよく究め、常に思いを凝らし工夫を積み、思いつくことあればこれを実地に試み、もって研鑽(けんさん)するを怠るべからず。
剣道は広大無窮にして、上達するに従いますます妙味を覚え、その深遠なるを感ず。これを終身究むるもおそらくは究極するところ無からん。古人も術に終期なし、死をもってこれが終わりとなすといえり。ゆえに漫然練習を為すとも、一定の程度以上に進むことは難し。常に思念工夫し実施の練習と相俟ちて薀奥(うんおう)にいたらことを心懸けざるべからず。
畢竟・・・・・つまるところ
覚束ない・・・物事の成り行きが疑わしい
薀奥・・・・・学問・技芸などの最も奥深いところ
【大意】
剣道において理論を先に教えるか技術の訓練を先にするべきか、については異論のあるところである。しかし、その両方が作用し合って効果を発揮するものであり、一方に偏ってはならない。実際に剣を振るって稽古を重ねなければ、上達することはあり得ない。理論をどのように極めても、同時に稽古を積まなければ、ついには空論に終わってしまう。ただ手足を動かすだけで理論が伴っていなければ、無駄に苦労するだけで進歩向上は望めない。だから、常に稽古を怠らないと同時に試合する度に自分の癖に注意し、先輩の助言で自分の欠点を直し、他人の試合や稽古にも心を留めて姿勢・動作・間合い・気合・気位などもよく研究し、常に心を砕いて工夫を重ね、思いつくことがあれば実際に試みる、そのように常に努力を怠ってはならない。
剣道は大きく到着点がなく、上達するにしたがって益々妙味を感じその深さも感じるものである。剣道を一生をかけて求めても、おそらく極めることは出来ないだろう。先人も「術に終わりはなく、死をもって終わる」と言っている。だから漫然と稽古をしていたら、一定のレベル以上に向上することは難しい。常に考え工夫して実際の稽古に生かし、剣道の奥義に達することを心懸けるべきである。 文責 山崎
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※ 事理一致、技の説明と示範が出来るこれが大切だと水田先生は常に主張している。
「剣道は広大無窮にして、上達するに従いますます妙味を覚え、その深遠なるを感ず。これを終身究むるもおそらくは究極するところ無からん」と常に発展途上であることを力説する。これは、『論語』の「會子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざる可(べ)からず。任重くして道遠し。仁を以て己が任と為(な)す。亦(また)重からずや。死して後に已(や)む。亦遠からずや」と同じである。剣道の究極を求める姿と人として自分を磨き続ける姿とは終わりがないことで合致する。高野佐三郎の筆致は深く、そして重い。
令和3年7月16日 記
『剣道』
高野佐三郎
剣道と至誠
世に処し事に当りては常に至誠をもって一貫するを要す。心誠なれば世に懼(おそ)るべきものなし。剣道もまたこの根底に立ちて始めて不動の精神精妙の技術に達するべし。剣道はその形に現わるる技術以外無形なる精神の作用に俟(ま)つところはなはだ大なるものあり。古来著名なる剣道家にして禅家の所説に啓発せられて斯道の薀奥(うんおう)を極めたるもの少なからず。けだし剣と禅とその究極の境界に至りては一有って二なく、ここに至らざれば真に剣道の堂奥(どうおう)に達せるものというべからず。一旦この境に達すれば心は明鏡止水のごとく彼我(ひが)もなく生死も無く、万機に応接して霊活自在、よく一人の敵に勝ち百人の敵に勝ち、天下敵なきに至らん。おそらくは諸道の極致皆ここにあり。剣道もまた大いなる道なりというべし。されどかくのごときは多年の修練を経て始めて得らるべきものにして一朝一夕に達せらるべきにあらず。しかれども半年の鍛錬には半年の効果あり、一年の修行には一年の進境あり、怠らず勉(はげ)むれば必ずこれに相当したる鍛錬の効を収むるを得べし。要するに剣道の主眼は技術又は勝敗の末にあらずして、技術の錬磨によりて心身を鍛練するに在ることを忘るべからず。
俟つ・・・・待つに同じ
薀奥・・・・学問・技芸などの最も奥深いところ
堂奥・・・・学問・技芸の奥義
彼我・・・・相手と自分
【大意】
世の中の出来事に対しては、常に誠をもって貫くことが大切だ。そうすれば懼れるものは何もない。剣道も誠を根底にして修行すれば、不動の優れた心を獲得することが出来るだろう。剣道は形に現われる技術以外に形に現われない心の作用に依拠することが、非常に大きい。昔から非常に有名な剣道家も、禅の考えに影響を受けて剣道の奥義に達した者も多い。ただし、剣と禅の究極の世界はただ一つのものであり、この境地に達しなければ剣道の奥義を極めたとは言えない。一旦この境地に達すれば、明鏡止水、相手と自分の区別もなく、生死も無く、全ての物事に活気は旺盛で一人の敵にも百人の敵にも勝ち天下に敵がいなくなってしまう。多分、諸道の至極はここにある。剣道もまた遙かな道のりを歩む一つの「道」というべきである。しかし、このような境地は長い間の修錬を経て初めて得られるもので、一朝一夕に到達できるものではない。しかしながら、半年の鍛錬には半年の成果があり、一年の修行には一年の到達した境地がある。怠らず励めば、必ずこれに相当した鍛錬の効果を収めること必定だ。要するに剣道の主眼は技術や勝敗ではなく、技術の錬磨によって心身を鍛錬することだということを忘れてはいけない。(文責 山崎)
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※高野佐三郎の剣道に対する姿勢は、この文章につきるのではないか。「剣道はその形に現わるる技術以外無形なる精神の作用に俟つところはなはだ大なるものあり」、この言葉、実に重い。何事も極致は、形而上的(けいじじょうてき)なものになる。
令和3年7月13日 記
『剣道』
高野佐三郎
無念無想
無念無想のいかなるものなるかはよく説明する能(あた)わず。ただ多年鍛錬の結果ついにその心境に達して自得すべきのみ。心を明鏡止水のごとくせよというも心を止むるなかれというも、胆力を養えというも、みなこれ無念無想得たれというほかならず。禅と剣道との関係はこの点に存す。これ実に斯道(しどう)の極致にして精神この境に達して技術もまた神髄を得、光輝を発するに至る。斯道の名家が神仏に祈りて夢想を得、奥旨(おうし)を悟れるもの多きは熱心の致すところ、仏神により実際霊妙なる境涯に触れたるものにして宗教的経験とその趣を一にするものなるべし。
無念無想のいかなるものなるかは筆舌に尽くす能わざれども、そのいかなる妙用を有するかは概説するの要あるべし。無念無想の妙用およそ三あり。我が心身の働き無碍自在(むげじざい)を極むるに至ることその一なり。敵の動静の鏡に照らすごとく明らかに見ゆることその二なり。我が動作の起こりを敵の窺(うかが)い知る能わざるその三なり。
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※「妙用およそ三あり」とあるが、それを会得するにはどれほどの時間が必要なのだろうか。否、どれほどの時間を掛けても会得できないかもしれない。
令和元年11月20日 記
『剣道』
高野佐三郎
一刀流聞書き
真剣の勝負にあたりては我が身を殺されにいくと思うべし。さすれば鋭く丈夫なものに相成り候。真剣には我が身を殺されにいくと思わねば勝つ事でき申さず候。ここのところ意味深し。
【大意】
真剣の勝負では、殺されにいくぐらいの気持ちで臨むべきである。そうすれば、鋭く確かな戦いが出来る。真剣の勝負では、殺されにいくぐらいの覚悟がなければ、勝つことは出来ない。このことの意味するものは深い。(文責 山崎)
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※捨てきって打てということだろう。自分だけ打って相手には打たせないでは得るものがないかもしれない。捨てきる覚悟があるかどうかが試される。
令和元年11月18日 記
『剣道』
高野佐三郎
剣を踏むということ
敵の撃ち出す後を撃てば相撃ちとなり敵の働きに引き廻さるれば先を取らる。ゆえに敵の打出す太刀を足にて踏み附くる心得にて咄嗟(とっさ)に打ち返して先を取り、敵に二度目の太刀を撃ち得ざるようにすべし。これを剣を踏むという。踏むというは足にて踏むに限らず、身体をもって踏み附け心をもって踏み附け、我が太刀にても踏み附る心得にて敵をして再び撃ち出すを得ざらしむべし。これもまた敵を挫くの一法なり。
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※「心をもって踏み附け」とあるが、まさに相手を凌駕する横溢(おういつ)な気力が不可欠だ。
令和元年11月13日 記
『剣道』
高野佐三郎
合気を外す事
敵強く荒々しく懸かりきたるに、我も強く荒々しく立ち向かえば、実に対するに実をもってし、よき勝ちを得る事難(かた)し。敵弱く攻めきたる時、我弱く対するもまた同じ。
あたかも石と石とを打ち合わせ、綿と綿とを衝(つ)き合うごとく、相撃ちとなりて勝ちを得る能(あた)わざるべし。敵強くきたれば弱く応じ、弱く出ずれば強く対し、晴眼にきたれば下段にして拳(こぶし)の下より攻め、下段にてきたれば晴眼にて上より太刀を押えるというように、合気を外して闘うを肝要とす。
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※実に深い。考えさせられる
令和元年11月13日 記
『剣道』
高野佐三郎
一刀流聞書き
一刀流聞書きは著者の祖父高野苗正(みつまさ)が、一刀流の名家中西忠兵衛子正(たねまさ)の門に入り剣道修行中、師より聞きたるところを記しおけるものなり。
(中略)
能の面のたとえ
能の面に、歓(よろこ)ぶ時の面、悲しき時の面とて二つはなし。歓ぶ時も悲しき時も一つの面にて狂言を致すなり。上手は悲しき時は見物を泣かせ候(そうろう)。すなわち心なり以心伝心のところなり。
【大意】
能の面に、喜びを現わすものと悲しみを現わす面として二つはない。喜びや悲しみを表現する内容にもかかわらず、一つの面で舞っている。熟練者は悲しい場面では来場者を泣かせてしまう。つまり、能楽師の心が来場者に伝わるのである。(文責 山崎)
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※能の世界では、笑うを「照る」と称して少し顔を上げ、泣くを「曇る」と称して少し顔を落す仕草を取る。「能の面のたとえ」では、そのことを例に出し、最終的に心の問題だとしている。至極(しごく)は、どの道も同じである。何事も奥が深い。
令和元年11月12日 記
『剣道』
高野佐三郎
心気力の一致
心気力の一致というは古来大切なる教えなり。ここに心というは精神活動の静的方面をいう。知覚し判断し思慮分別するは心なり。気というは動的方面をいう。心の判断に従い意志と活動となりて外部の動作に現るる時、または精神集注し強き勢力となり現わるるとき気力強し。心は気を率い、気は心の命令に従いて活動す。心は智なり。気は意志なり。力は身体の力なり。これが現われて技術となる。心気力の一致とは目に視、耳に聴くところ、ただちに精神の働きとなり、精神の働きに応じて咄嗟(とっさ)に技に現われ、その間円滑迅速にしてなんら扞格(かんかく)するところなきをいう。
(中略)
初心の者は立合いの初めに当たりあらかじめ敵の得意および技癖を知り、これに対して攻撃防御の方法を講ず。かくのごとき機智もまた必要なりといえども、故意に計画すればこれがために心を惹(ひ)かれて一事に心止まり敗(ま)けを招くに至る。眼と心と体とよく一致して働くこと必要なり。心形刀(しんぎょうとう)の一致といい、一眼二心三足といい、剣術三要と称して心と眼と四肢(しし)との一致して働くべきを教えたる皆同じ意になり。
扞格・・・・意見などが食い違うこと
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※「心は気を率い、気は心の命令に従いて活動す。心は智なり。気は意志なり。力は身体の力なり」とある。言葉に一分の隙もない。松浦静山も『常静子剣談』で「奥に達するに三路、一は心形刀、一は形刀心、一は刀形心」と述べている。
令和元年10月25日 記
『剣道』
高野佐三郎
形に負けて心に勝つ
形に負けて心に勝つというのは、我が心の中に負けざるよう専念し、いずれより撃ちきたり、いかに攻めきたるも心を動かさず、心を広く大きく持ち、恐怖の情を去りて向かえば、いかなる強敵に会うも驚くことなし。形を敵に渡し、己れは心にて我が身を守り敵を撃つをいうなり。
人は生まれつき一様ならず、非力なる者あり、体格の弱小なるものあり。かくのごとき人は外形においては何人にも勝つを得ざれど、心にては何人にも勝つを得べし。心て勝てばいかなる大敵に対しても勝利を期し得るものとす。これを身を捨てて心に勝つともいう(丈勝れて高き者と戦う時は、敵少しく反り身になる時は届かぬものなり。かくのごとき時はわが切先常よりも五六寸短きものと心得て戦えば届かぬことなく強く当たるものなり)。
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※「心」の練度が高ければ、体力も竹刀の長さも凌駕する。究極は「心」に行き着く、しかもそれは見えない。「道」とは、そうしたものなのだろう。
令和元年10月22日 記
『剣道』
高野佐三郎
形
剣道の形は剣道の技術中もっとも基本的なるものを選みて組み立てるものにして、これによりて姿勢を正確にし、眼を明らかにし、技癖を去り、太刀筋を正しくし、動作を機敏軽捷にし、刺撃を正確にし、間合いを知り、気位を高め、気合を練るなどはなはだ重要なるものなり。初めより道具を着け互格の試合を試み勝負を争う時は、姿勢・動作を乱し気合間合いを測らず刺撃も正確ならずして多く悪癖を生じ、上達また遅し。ゆえに昔は必ずまず形より入りて試合に至るを順序となせり。ゆえに基本動作に習熟するに至れば適宜に形を交えて教授するを可とす。
形を演ずるに当たりては充分に真剣対敵の気合を込め、寸毫の油断なく、一呼吸といえどもいやしくもせず、剣道の法則に従い確実に演練すべし。形に重んずるべきは単にその動作のみならず、実にその精神にして、気合充実せず精神慎重を欠かばいかに軽妙にこれを演ずるとも一(ひとつ)の舞踊・体操に過ぎざるのみ。
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※水田道場では、水曜日は必ず形の稽古から始まる。もちろん、上記した内容に迫るためである。「気合充実せず精神慎重を欠かばいかに軽妙にこれを演ずるとも一の舞踊・体操に過ぎざるのみ」、しっかり念頭に置きたい。
令和元年10月18日 記
『剣道』
高野佐三郎
気位
気位は気合と同じく微妙なる精神の働きにして筆紙をもって明瞭に説き示すこと難し。
簡単にこれが定義を下せば気位は自信より発する威力なりというべきか。不撓不屈(ふとうふくつ)不疑不惑の精神ありておのずから尊厳の威風備わり、我は高きに在りて敵を瞰下(かんか)し、敵の精神技術を機先に洞察し、敵をして畏怖(いふ)の情、疑懼(ぎく)の念を生じて畏縮せざるを得ざらしむるものなり。これを我より見れば敵に臨むことあたかも高山に登りて俯瞰(ふかん)すれば丘陵山川ことごとく指呼(しこ)の裡(うち)にあるがごとく、悠然たる心の中に敵の動静ことごとく心に映じ敵を押うるも挫(くじ)くも撃つも突くも心のままなるべし。これより敵を見れば底知れぬ深淵(しんえん)を探るがごとく、あるいは高山に登るがごとく、怖れ惑い手足の運動も萎縮し精神の活動敏活ならず、呼吸切迫し意気地なき敗を取るに至るものとす。
気位は技術に円熟し、精神の鍛錬を極めて後自然に備わるものにして、故意に模倣せんとすればかえって破れを生ずるものなり。また上のごとき自信と、自負心あるいは慢心とは大いに異なるものにして後者は斯道(しどう)において最も忌(い)むべきものとす。一度慢心の生ずるや進歩たちまちに止み諸多の禍根(かこん)を生ずるに至る。
畏縮・・・・・畏れかしこまって小さくなること
俯瞰・・・・・高い所から見下ろし眺めること
指呼の裡・・・すぐそこであること
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※「一度慢心の生ずるや進歩たちまちに止み諸多の禍根を生ずるに至る」とあるように、求道者に完成形はない。この姿勢こそ肝要だ。剣道も一生続く修行だ。
令和元年10月3日 記
『剣道』
高野佐三郎
無念無想(敵の動静明らかに知らる)
見れども視(み)えず聞けども聴(きこ)えず食えどもその味を知らずといえるは、何事かに注意を惹(ひ)かれ心が止まりおるゆえ、そのほかの事柄に注意し得ざるをいう。一事に注意すればほかの何事にも十分の注意を払い得ざるは心理の原則なり。心に何物もなくして初めて何事にもよく注意するを得。いまだ色に現われず形に発せざる間によく敵の心を察し得るは、我が心の無念無想なるがゆえのみ。暗夜(あんや)に霜を聞くという教えあるは、かくのごとき心の妙境をいえるものなるべし。柳生宗矩は相対する者の心を知り得たりという。
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※高野佐三郎は、標題「残心」で「また心を残さず廃(す)たり廃たりて撃つことをも残心という。字義より見れば反対なるがごとくなれども実は同一のことを指すなり。心を残さず撃てば心よく残る」と書いている。それは、「心に何物もなくして初めて何事にもよく注意するを得」と同じである。つまり、「無いことが有ること、有ることが無いこと」だと言っているのである。この二律背反(にりつはいはん)を理解することが、剣道の本質でもある。
平成31年4月9日 記
『剣道』
高野佐三郎
間合い
間合いはなるべく遠く離れたるをよしとす。敵よりは遠く我よりは近く戦うべし。我が姿勢によりても間合いに遠近を生ずるものなり。仰ぐ者は撃間遠くなり、前に附し屈(かが)む者は撃間近し。敵を見下ろすと見上ぐるとは大いなる相違あり。
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※日々鍛錬と模索が続く。『論語』に「死して後に已(や)む。亦(また)遠からずや」とあるが、まさにそのとおりである。
平成31年3月19日 記
『剣道』
高野佐三郎
一刀流聞書き
間合いのこと
平日の稽古に間合いをよく気を附け修行致すべし。一人にても間合いはあり、太刀の長短にもよるべけれど間合いはあるものなり。間合いといえばわかり兼ね候えども、間合いはすなわち我が構えなり。その内へ入れば切るとも突くともなし得るなり。一本勝負に手間を取るは、勝負を大事に思い、間合いを正しく取り、容易に打たれ候間には入らず候故なり。
【大意】
平素の稽古で、間合いに気を付けて修行すべきである。太刀の長短にもよるが、自分の間合いというものがある。間合いというと分かりにくいが、間合いとは自分自身の構えである。(相手が)その間合いに入れば、切ることも突くことも容易にできる。一本勝負に時間がかかるのは、勝負を大切に考えて、間合いを正しく取り、簡単に打たれる間合いに入らないためである。 (文責 山崎)
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※「間合いはすなわち我が構えなり」心にずしりとくる言葉だ。よく間合いは「自分にとっては近く、相手にとっては遠く」と言われている。昨日の稽古で、水田先生から構えが小さくなっているとの指導をいただいた。それは取りも直さず、間合いが明らかになっていないことでもあった。
平成31年3月14日 記
『剣道』
高野佐三郎
一刀流聞書き
勝つところに負けあり
賽(さい)は四角なる物にて、一より六までなり。六は十分のところなり。十分の勝ちは裏が一にて一つの負けあり。五つ勝たんと思えば裏が二にて二つの負けあり。四つ勝たん思えば裏が三にて三つの負けあり。生死の場なり。
【大意】
(剣術の勝負を賽子の目で考えてみるよく分かる)賽子(さいころ)は四角で一から六までの目がある。六は最高の目である。しかし、よく考えてみると六の目は最高の勝ちではあるが、その裏は一で一つの負けがある。五つ勝とうと思えば、その裏は二で二つの負けがある。四つ勝とうと思えば、その裏は三で三つの負けがある。まさに生と死を分けるのと同じである。(文責 山崎)
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※どのような勝負でも、必ずその裏には「負け」が潜んでいる。油断せず、日々精進しろと言っているのだろう。松浦静山も『常静子剣談』の中で、「勝を貪(むさぼ)って還(かえ)って敗をとるなり、勝は生地なり敗は死地のみ」と述べている。
平成31年3月9日 記
『剣道』
高野佐三郎
一刀流聞書き
前もって穿鑿(せんさく)すべし
上手は近きを知りて遠きに苦しむ。下手は遠きを知りて近きを知らず。まず箱を指(さ)さんと欲せば、鋸(のこぎり)を立て鉋(かんな)を砥(と)ぎ、道具を揃(そろ)えて箱を拵(こしら)うる事にかかるものなり。それをせずして箱を拵えんとかかり候(そうら)えば、鋸切れず、鉋も切れず、箱を指し候ても役に立ち申さず候。剣術も人に勝たんと思い候わばよく前もって穿鑿致し後に勝つ事を知るべき事なり。
【大意】
熟練者は足元をしっかり確立してから、自分の目指すところを求めて修行をする。しかし、未熟な者は目指すところばかり見詰めて、足元をおろそかにしている。例えば、箱を作ろうと思えば、鋸の目を立て鉋を研ぐなどして道具をそろえてから、作業にかかるのが常道である。それをしないで箱を作ろうと思えば、鋸も鉋も切れないから、役に立たないものが出来てしまう。剣術においても人を凌駕(りょうが)しようと思うなら、前もってしっかり準備をして勝とうと思うことが肝要だ。(文責 山崎)
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※「近き」とは、姿勢、竹刀の保持、足さばき、呼吸法、心の有り様などを指しているものと考えられる。基本が出来ていないのに、最終地点ばかり探っても駄目だと諫(いさ)めているのだろう。
もちろん剣道に最終地点がないのは明白である。高野佐三郎も「一度慢心の生ずるや進歩たちまちに止み諸多の禍根(かこん)を生ずるに至る」と本書で言っている。
平成31年3月7日 記
『剣道』
高野佐三郎
攻撃あるのみ
剣道には攻むるありて受くるも防ぐもなきものなり。初心の者往々敵の撃つ太刀をば受留め受け流すをもってよく事了(おわ)れりとなすものあり。誤れるのはなはだしきものというべし。ともに命をかけて敵を斬らん斬らんと努むることなれば、できるだけの注意をもって敵の撃つ太刀、突く太刀をかわし、外し、切り落し、受け流さざれば危うし。しかれどもこれただ敵を撃ち突くの一段階のみ。先を取らんがための一手段のみ。かわすも、外すも、切り落すも、受くるも張るも、同時に切る太刀、突く太刀ならざるべからず。切り落すといいても敵の太刀を切り落して後勝つにあらず。石火の位とも、間髪(かんはつ)を容れずともいい、切り落すと同時にいつの間にか敵に当る。切り落すと撃つと一拍子なること肝要なり。受くるということなく撃つ太刀がとりも直さず受ける太刀となるよう心懸くべし。
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※「切り落すと撃つと一拍子なること肝要なり」、自分の剣道を反省してみると受けるだけになってしまい、これが出来ていない。常に心懸けたい一文だ。
平成31年3月4日 記
『剣道』
高野佐三郎
小太刀の心得
小太刀を持つ時には、右によく間を取りて体を伸ばし、深く入り込みて闘うべし。伸び入るほど早き事なし。我が頭をも敵の体に密接するほどに伸び入る時は安全なり。離るる時は危うきものとす。
すべて小太刀の時も長太刀の時も無刀の心得にて闘うこと肝要なり。この心得にて踏み込み踏み込み闘えば小太刀も長太刀と異なるなし。もし我小太刀なるために気怯(きおく)れする時は勝利を得べからず。無刀の心得ならざれば業も伸びざるべし。仕合にも真剣の心得にて戦い、小太刀持ちても無刀の心得にて鋭く闘うべきものとす。
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※「すべて小太刀の時も長太刀の時も無刀の心得にて闘うこと肝要なり」、無刀の心得は常に先生から指導されていることである。
平成31年2月28日 記
『剣道』
高野佐三郎
残心
残心というは、敵を打ち得たる時も、安心して心を緩(ゆる)め後を顧みざるがごときことなく、なお敵に心を残して、もし再び敵が業を施さんとするを見れば、ただちにこれを制し得るをいう。撃ちたる後も突きたる後も常に油断なき心を残すをいうなり。また心を残さず廃(す)たり廃たりて撃つことをも残心という。字義より見れば反対なるがごとくなれども実は同一のことを指すなり。心を残さず撃てば心よく残る。全心の気力を傾け尽くして、少しも心を残さず撃ち込めば、よく再生の力を生ず。心を残さず撃ちて、撃ちたる太刀はそのまま撃ち捨つれば、自然に敵に対し油断なき心が残るなり。心を残さんとする心ありて撃てば、すでにそこに心止まるがゆえに、かえって隙を生ず。打つ時に心を残して幾分にても疑いの心あらば腕も伸びず太刀に力なく、功を奏すること難し。間髪(かんはつ)を容るべからざる妙技を錬磨すること思いもよらざるなり。心を残さず廃たり廃たりて危うきところを勤め、負くるところを練習すればおのずから真の勝ちを会得し得べし。畢竟(ひっきょう)残心の要あるはいまだ達せざるものにして、達人にありては常に寸毫(すんごう)の隙なく、従って特に残心を云々するの要なし。
畢竟・・・・つまるところ
寸毫・・・・きわめてわずかなこと
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※残心をしなければならないと考えて打てば隙が生まれるが、捨てきって打てばそれが残心となるとする。残すと捨てるは同一とは、なんと深い言葉ではないか。
平成31年2月22日 記
『剣道』
高野佐三郎
精神の要
何事も問わず、精神を充分に錬磨するにあらざれば奥妙に至る能(あた)わず。剣道は知らぬ人よりは手足の業のごとく思わるれども、精神の関するところこれより深きは少なかるべし。数十年間道場に出入りするとも、その精神の鍛錬足らざれば到底名人の位に達するを得ず。身体四肢(しし)の動作軽妙自在にして、竹刀の操作巧妙を極むるとも、これらはいまだ末のみ。真に勝敗の係るところはその精神の運用にあり。
斯道(しどう)の奥義といい、秘伝というものは、実は技術の上よりもむしろ精神の消息にあり。複雑なりとも形の上の事ならば伝うるに難しからざれども、すでに捉え難き精神上のことなれば、これをいい表わし書き現わすことはなはだ難し。ことに斯道の極致はかの教外別伝不立文字の禅と相通ずるものあり、全く言説に絶し、ただその境界に達せるものに以心伝心これを伝え得るのみ。古来秘伝と称して容易に人に許さざりしは一は斯道を尊重するの意に出でたるも、一にこれを授くるともここに至らざるものには解する能わず。
(中略)
古人がこれを楠(くす)と杉檜とにたとえて教えたるは服膺(ふくよう)すべき教訓なり。杉および檜は成長速やかにして年を経ずして喬々(きょうきょう)たる大木になれども、その根の地中に入ること割合に深からざれば往々暴風に遇いて吹き仆(たお)さるることあり。楠は成長遅々たれども上に一尺伸ぶれば根にも一尺入り、根柢(こんてい)強固にして風雨のために仆るること稀なり。剣道にありては技術は枝葉にして精神は根柢なり。技術の進歩に相伴いて精神も錬磨せざるにあらざれば真の進歩というべからず。壮年体力強健なる間は可ならんも、老年に及び身体やや自由を欠くに至れば、多年修練せる技術もその用を為さざるに至る。精神の錬磨によりて初めてこの患を免れ得べし。また平時道場内にありては元気横溢(おういつ)していかにも達者らしく見ゆる者も、精神の根柢なきものは事に臨みて狼狽し失神し折角の技術も施し得ざるに至る。枝葉根幹完備して有用の良材たらん事を欲せば、よくその根に培うことを怠るべからず。
喬々・・・とても高いこと
服膺・・・心にとどめて忘れないこと
根柢・・・物事や考え方のおおもととなるところ。根底と同じ
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※『論語』に「盤根錯節(ばんこんさくせつ)に遭はずんば、何を以て利器を別かたんや」という言葉があるが、何事もしっかりと根を張ることが大切だ。しかも、それが見えないだけに。
平成31年2月20日 記
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