『常静子剣談(じょうせいしけんだん)』
『常静子剣談』
松浦 静山
晴眼の太刀のあんばいは、我気の、太刀の鍔(つば)本(もと)より太刀の随を通りて鋒(きっさき)までとどき、此気鋒より発して敵に当ると心得べし、太刀は太刀、勝つべき心は太刀の外なりと思ひては其能少し。
【大意】
晴眼の構えの太刀は、自分の気が太刀の鍔から刀身の切っ先まで達し、敵に当ると考えなければならない。太刀は太刀、勝負に勝つのは太刀以外のところにあると考えては、その成果は小さいものになってしまう。(文責 山崎)
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※自分の気力が、竹刀の切っ先から迸(ほとばし)るような構えでありたい。そうすれば、相手を威圧し竹刀も自分の手の延長となることだろう。もちろん、最終的には心の有り様が重要ではあるが、修行の段階では決して忘れてはならないことである。
令和3年6月28日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
剣術には人の動作を視て其伎(ぎ)の達するを知るべし、其故は、常に物に頭を衝(う)ち、立廻に後なる物に臀(しり)を撞 (つ)き、或いは据置きたる物に躓(つまず)き、泥途にてすべり抔(など)する者は、皆此伎に於ても精心ならざる人也、因(より)て剣術には常に人の動作を視置きて其人の分際(ぶんざい)を知るべし。
【大意】
剣術では人の動作を見て、その人の技量を判断できると心得ているべきである。その理由は、常に物に頭を打ち付け、立ち回りの際に尻餅をつき、あるいは置いてある物に躓き、泥道で滑ったりする者は、その技量は細部にまで心が行き届いていないと考えられるからである。よって、剣術では他人の動作をよく見て、その人の技量の程度を判断するべきである。 (文責 山崎)
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※千利休に茶の湯の秘伝について尋ねたところ、「そんなものはあろうはずはないが、強いて言えば、 侘数寄常住、茶之湯肝要(わびすきじょうじゅう、ちゃのゆかんよう)」と答えたという。四六時中、常住坐臥、茶の湯のことだけを考えて生活しろということである。その話は、上記の文章につながるような気がする。
令和元年10月28日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
剣術は刀のわざなれども、空手にても気のききたる方が、刀を持ても油断多き者より遙かにまされり。此處さへ心得て平生を養ひ、事に臨んでも違はずんば実に奥義なるべし。
【大意】
剣術は刀を使う武道ではあるが、(刀を保持していない)空手であっても気が充実しているほうが、刀を持っていても油断が多い者よりも遙かに勝っている。この点を心得て普段から気を養い、事に臨んでその気が発揮できれば、まさに極意に達しているとするべきである。(文責 山崎)
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※剣道だからといって、竹刀を握っている時だけが修行ではない。普段から心の有り様が大切だと言っている。精神性をいかに鍛えるかが課題だ。
令和元年10月17日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
孔子の御言に「君子は言を以って人を挙げず。人を以って言を廃せず」と有るは、剣術までにも其の事通ぜり。常智子の口伝書にも、事理不偏と専一(せんいつ)に説けり。事とはわざにて手足心体の働なり、理とはすぢにて其の行きやうの筋なり。行きやうの筋とは、是(これ)はかくならねばならぬ、此(これ)は是非かふなると云ふことなり。夫(そ)れ故(ゆえ)剣術者も、口に言ふ事の手に出来ず、手に出来る事の口に言はれざる事は、得道(とくどう)の人にあらず。
【大意】
孔子の言葉に「言うことが立派だからといって、(すぐにその)人を登用することはしない。(また)それを言ったのがよくない人だからといって、(すぐにその)言葉を捨てるようなこともしない」とある。それは剣術にも通ずることである。常智子先生の口伝書も「事理不偏」と第一に説いている。事とは技を繰り出すうえでの心身の働きのことであり、理とはその理論である。理論とは、このような時はこのようにならなくてはならない、このような場合は必ずこうなるという説明である。だから、自分が言っていることが出来なかったり、出来ていることを理論的に説明出来なかったりする剣術者は、道を極めた人ではない。(文責 山崎)
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※剣道に携わる者として、しっかり頭に叩き込んでおかなければならない内容だ。ただ、竹刀を振っているだけでは運動になってしまう。もちろん、これはどの競技にも通ずることである。先達の言葉は重い。
令和元年10月16日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
奥に達するに三路、一は心形刀、一は形刀心、一は刀形心。
【大意】
剣術の奥義に達するには三路ある。心(気)を磨くこと、姿や動きを磨くこと、刀法を磨くこと。(それらは剣術三要として一致して働くのが大切ではあるが、その順番はあくまでも、心、形、刀である)(文責 山崎)
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※剣道の修行上、ともすれば竹刀の操作が先行しがちであるが、実際は気をどのように練るかが肝要なのだろう。だから、この流派は「心形刀流」と称する。このことは、先人も多く指摘するところである。島田虎之助も「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学ぶべし」と言っている。
令和元年10月10日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
剣術を学ぶとき声をかくること、声に虚声実声あり。虚声は悪く実声は善きこと無論なり。其声いかがにても能(よ)しと心得る、宜(よろ)しからずなり。故につとめて実声を旨(むね)として、虚声発(はっす)ること有るべからず。此虚実の声、耳にも心にも分(わから)ざる者は、剣術の意志は未(いま)だ悟らざると知るべし。
【大意】
剣術の発声に虚声と実声がある。虚声は悪く実声は善いのは言うまでもない。発声はどうでもよいと考えることは、決してよいことではない。だから、極力実声を本来のものとして、虚声を出さないようにしなければならない。この虚声と実声の違いが理解できない者は、剣術の本質を分からないと判断せざるを得ない。(文責 山崎)
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※相手を威圧するだけではなく、自分自身も鼓舞するために発声は非常に大切である。地を揺るがすような発声をしたい。
令和元年10月8日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
予(よ)曰(いは)く。勝(かち)に不思議の勝あり。負(まけ)に不思議の負なし。問、如何(いか)なれば不思議の勝と云う。曰く、道を遵(とおと)び術を守ときは、其(その)心(こころ)必(かならず)勇ならずと雖(いへ)ども勝ち得る。是(この)心を顧(かへりみ)るときは則(すなはち)不思議とす。故に曰ふ。又問、如何なれば不思議の負なしと云ふ。曰、道に背き術に違(たが)へれば、然るときは其負疑ひ無し、故に爾(なんじ)に云(いふ)、客(きゃく)乃(の)伏す。
【大意】
私は、「勝ちには不思議の勝ちがあり、負けには不思議の負けがない」と客に答えた。そうすると客は「どのようなことを不思議の勝ちと言うのですか」と質問をしてきた。私は「本来の道を尊重し教えを守って戦うときは、心が勇気に満ちあふれていなくても勝つものだ。この心の有り様(よう)を振り返ってみて、不思議と考えている。だから、言ったのだ」と返答した。そうすると客は、「どうして不思議の負けはないと言うのですか」とまた質問してきた。そこで、私は「教えの本道から外れた間違った手法を取れば、負けに至るのは必定である。だから、貴方に言ったのだ」と答えた。客は恐れ入って平伏した。(文責 山崎)
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※「勝に不思議の勝あり。負に不思議の負なし」。なんと奥の深い言葉ではないか。負ける時は、その理由は明白だとする。心に刻みたい言葉だ。
令和元年10月4日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
剣術は手のわざなることは無論ながら、其(その)要(よう)と為る所は足にあり、此(この)所に心着く者は其法を得ると知るべし。夫故(それゆえ)人の能不能を観(み)るには、手より足を心づけて視(み)るべし、足(あし)協(かな)ふ者は必ず勝身(かちみ)あり。
【大意】
剣術は手を使う武道であるが、その大切なところは足にある。その道理を理解し実践できている者は、本質を身に付けていると言ってよい。だから、他の人がどれくらいのレベルか判断するには、手の使い方より足の使い方をよく見るべきである。足使いの上手な者は、必ずと言っていいほど相手を凌駕する。(文責 山崎)
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※松浦静山は平戸藩九代藩士、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の使い手だった。この『常静子剣談』は、『五輪書』と並び称される武術書である。常住座臥、水田先生はこのこと(足使い)を強調している。
◎ 再び『常静子剣談』を掲載することで、先達の考え方に触れたいと思う。なお、【大意】は私の独断と偏見で記載したもので、誤解や飛躍があるかもしれない。ご容赦を。
令和元年10月2日 記
『常静子剣談』
松浦 静山
仕合をするには、高慢らしく有るは宜(よろ)しからず。夫(それ)とて遜恭(そんきょう)なるは宜しからず。唯(ただ)平心にして勝負の處(ところ)を得と胸に思て為すべし。
【大意】
仕合をする時、不遜な態度はよくない。だからといって相手に対して恭(うやうや)しくしていてるのもよくない。ただ、平常心で勝負に勝つと思って仕合をするべきである。(文責 山崎)
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※平常心、これが難しい。永遠の課題だ。
平成31年2月8日 記
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