高村光太郎

   冬が来た
              高村光太郎

  きっぱりと冬が来た
  八つ手の白い花も消え
  公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった
 
  きりきりともみ込むような冬が来た
  人にいやがられる冬
  草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た

  冬よ
  僕に来い、僕に来い
  僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
  しみ透れ、つきぬけ
  火事を出せ、雪で埋めろ
  刃物のような冬が来た

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※智恵子の死後、戦意高揚のため戦争協力詩を多く発表した。その反省に立って岩手県花巻で7年間の独居生活を送る。この力強い詩は、戦争協力という誤った方向に進むような萌芽を感ずる。
 この時季、柿の搬入でつくば市まで毎日のように行く、そうすると紅葉した銀杏並木が実に美しい。歩道に落ちた銀杏の葉も風情がある。その光景を見るたびに、この詩を思い出す。

                令和3年11月22日 記


     梅 酒

            高村 光太郎

  死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は
  十年の重みにどんより澱(よど)んで光を保み、
  いま琥珀(こはく)の杯に凝って玉のやうだ。
  ひとりで早春の夜ふけの寒いとき
  これをあがって下さいと、
  おのれの死後に遺していった人を思ふ。
  おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
  もうぢき駄目になると思ふ悲に
  智恵子は身のまわりの始末をした。
  七年の狂気は死んで終わった。
  厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
  わたしはしづかにしづかに味わふ。
  狂瀾怒涛(きょうらんどとう)の世界の叫も
  この一瞬を犯しがたい。
  あはれな一個の生命を正視する時、
  世界はただこれを遠巻きにする。
  夜風も絶えた。
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※狂気の中で、高村光太郎のために梅酒を残す智恵子、それが哀れである。智恵子を失った光太郎は、その悲しみを見詰めながら美しい言葉を紡ぎ出し、詩とした。何度読んでも心に響く詩である。梅の収穫の時季になると、いつもこの詩を思い出す。残念ながら今年は不作のため、梅酒を作ることが出来ない。
           令和2年6月3日 記



      レモン哀歌
               高村光太郎

  そんなにもあなたはレモンを待っていた
  かなしく白くあかるい死の床で
  わたしの手からとった一つのレモンを
  あなたのきれいな歯ががりりとかんだ
  トパアズいろの香気(こうき)が立つ
  その数滴の天のものなるレモンの汁は
  ぱっとあなたの意識を正常にした
  あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
  わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
  あなたの咽喉(のど)に嵐はあるが
  こういう命のせとぎわに
  智恵子はもとの智恵子となり
  生涯の愛を一瞬にかたむけた
  それからひと時
  昔山巓(さんてん)でしたような深呼吸を一つして
  あなたの機関はそれなり止まった
  写真の前に挿した桜の花かげに
  すずしく光るレモンを今日も置こう
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※ 高村光太郎作品の中でも、もっとも優れた作品である。特に最後の二行は、圧巻である。智恵子臨終の場面、呼吸が弱くなる。その時、高村光太郎は医者に「もう、お注射はお止めください。」と言う。間もなく「レモン哀歌」のような死を迎えることになる。光太郎は、大きな背中を向けて小刻みに振るわせていたという。その時の医者が、「あのような荘厳な死を経験したことがなかった」と後に述懐している。
 「あなたの機関はそれなり止まった」までが、その荘厳な死の場面を表している。「写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置こう」は、遺影になった智恵子を思い出す表現である。「すずしく光る」、なんという素晴らしい言葉ではないか、他の追随を許さない。
           平成29年11月15日 記
  


   
        「智恵子の半生」
                           高村光太郎

  妻智恵子が南品川ゼームス坂病院の十五号室で精神分裂症患者として栗粒性肺結核で死んでから旬日で満二年になる。私はこの世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の廃退生活から救い出されることができた経歴をもっており、私の精神は一にかかって彼女の存在そのもの の上にあったので、智恵子の死による精神的打撃は実に烈しく、一時は自己の芸術的製作さえその目標を失ったような空虚感にとりつかれた幾ケ月かを過ごした。彼女の生前、私は自分の製作した彫刻を何びとよりもさきに彼女に見せた。一日の製作の終わりにもそれを彼女といっしょに検討することがこの上もない喜びであった。また彼女はそれを全幅的に受け入れ、理解し、熱愛した。私の作った木彫小品を彼女は懐に入れて街を歩いてまで愛撫した。彼女のいないこの世で誰が私の彫刻をそのように子どものように受け入れるであろうか。
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※昨夜、NHKの「歴史秘話ヒストリア」で高村光太郎と智恵子を取り上げていた。数々の詩を紹介し、二人の軌跡を放映していた。紡ぎ出された言葉は、珠玉の作品となった。
 戦意高揚のため戦争協力詩を多く発表した光太郎は、戦後、その反省から花巻郊外に粗末な小屋を建てて移り住み、7年間独居生活を送った。その間、一時も智恵子のことを忘れなかったという。十和田湖畔に佇む「乙女の像」は、智恵子の面影を写したものであった。
          平成27年2月12日 記


      山麓の二人

               高村 光太郎

  二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
  険しく八月の頭上の空に目をみはり
  裾野とほく靡(なび)いて波うち
  芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
  半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
  わたくしの手に重くもたれて
  泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する
    ――― わたしもうぢき駄目になる
  意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
  のがれる途(みち)無き魂との別離
  その不可抗の予感
    ―――  わたしもうぢき駄目になる
  涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
  わたくしは黙って妻の姿に見入る
  意識の境から最後にふり返って
  わたくしに縋(すが)る
  この妻をとりもどすすべが今は世に無い
  わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
  闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになった。
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※ 高村光太郎は、智恵子の病状が、少しでも良くなればと東北旅行計画する。しかし、良くなることはなく悪化の一途をたどる。駄目になっていく妻、智恵子をどうすることもできない無力感。哀しいまでに研ぎ澄まされた世界が披瀝されている。
          平成27年2月1日 記



   樹下の二人
                  高村光太郎

――みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ――

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈川。

  かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、
  うつとりねむるやうな頭の中に、
  ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。
  この大きな冬のはじめの野山の中に、
  あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
  下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。

  あなたは不思議な仙丹を魂の壺にくゆらせて、
  ああ、何といふ幽妙な愛の海ぞこに人を誘ふことか、
  ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、
  ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。
  無限の境に烟るものこそ、
  こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、
  こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、
  むしろ魔もののやうに捉へがたい
  妙に変幻するものですね。

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈川。

  ここはあなたの生れたふるさと、
  あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
  それでは足をのびのびと投げ出して、
  このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。
  あなたそのもののやうなこのひいやりと快い、
  すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。
  私は又あした遠く去る、
  あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、
  私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。
  ここはあなたの生れたふるさと、
  この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。
  まだ松風が吹いてゐます、
  もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈 
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※光太郎は、智恵子によって清浄にされたと言っている。しかし、その智恵子は、7年間の闘病生活後、生をまっとうする。郷里の空気に触れないと生活できなかった智恵子は、たびたび帰省した。「あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫」とある生家は、やがて没落していく。それも智恵子が精神を病む一つの要因であった。 
           平成26年10月6日 記  



     道程
          高村光太郎

  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

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※剣道、居合道、能面づくりなど、全てが道半ばである。どこまでも道は続く。『論語』の中に「
 會子曰く、士は以て弘毅(こうき)ならざる可(べ)からず。任重くして道遠し。仁を以て己が任と為(な)す。亦(また)重からずや。死して後に已(や)む。亦遠からずや。」とある。まさにこの一節、「死して後に已(や)む。亦遠からずや。」の心境である。
 『論語』の一節の口語訳は、このホームページ「漢文」に掲載してある。参考まで。
        平成26年10月4日 記


    あどけない話
              高村 光太郎

  智恵子は東京に空がないといふ、
  ほんとうの空が見たいといふ。
  私は驚いて空を見る。
  桜若葉の間に在るのは、
  切っても切れない
  むかしなじみのきれいな空だ。
  どんよりけむる地平のぼかしは
  うすもも色の朝のしめりだ。
  智恵子は遠くを見ながら言ふ。
  阿多多羅山の山の上に
  毎日出てゐる青い空が
  智恵子のほんとうの空だといふ。
  あどけない空の話である。
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※「智恵子抄」は心に迫る作品である。「樹下の二人」「あどけない話」「山麓の二人」「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」、その一編一編の詩が、心を揺さぶる。
        平成26年10月4日 記
    

晴耕雨読