三好達治

      蝉
       三好達治

   蝉は鳴く 神さまが竜頭(ねじ)をお捲(ま)きになっただけ
   蝉は忙しいのだ 夏が行ってしまわないうちに
   ぜんまいがすっかりほどけるように
   蝉が鳴いている 私はそれを聞きながら
   つぎつぎに昔のことを思い出す
   それもおおかたは悲しいこと ああ これではいけない!
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※独り春の古刹の桜樹の下を歩み去る詩人、利根川のほとりを杖曳く詩人。その後ろ姿は旅に生きて旅に死んだ詩人たちに酷似している。三好達治の文学的生涯は、旅人の歌であった。
      平成28年4月12日 記


  
           三好達治
  蟻が
  蝶の羽をひいて行く
  ああ
  ヨットのやうだ
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※日常の変哲もない世界が、大海原に変わっていく。イメージはとめどもなく広がる。三好達治の詩は、どの作品も言葉が洗練され格調が高い。
          平成28年3月24日 記   


    甃(いし)のうへ
              三好達治

  あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ
  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音空にながれ
  をりふしに瞳をあげて
  翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺のいらか甍みどりにうるほひ
  廂々(ひさしひさし)に
  風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば
  ひとりなる
  わが身の影をあゆまする甃のうへ
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※高校1年の教科書に掲載された作品である。国語の先生が読まれたとき、体に電流が走るような感動を覚え、暗唱した。46年も前のことである。作品は、少しも色褪せることなく今も私の掌上にある。
          平成27年3月1日 記   


     
                  三好達治  

  太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む
  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む

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※日本全土にしんしんと雪の降る様子を表している。今、全国各地の雪国に展開されている。これ以上の表現はない、まさに才、ここに極まれりである。ところで、太郎、次郎といえば、古来より使用された名前である。「八幡太郎義家」「熊谷次郎直実」などが挙げられるまた、「板東太郎」は利根川の異称である。
      
    平成27年2月24日 記


    草千里浜
                 三好達治

  われ嘗(かつ)てこの国を旅せしことあり
  明け方のこの山上に われ嘗て立ちしことあり
  肥の国の大阿蘇の山
  裾野には青草しげり
  尾上には煙なびかふ 山の姿は
  そのかみの日にもかはらず
  環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は
  今日もかも
  思い出の藍にかげらふ
  うつつなき眺めなるかな
  しかはあれ
  若き日のわれの希望(のぞみ)と
  二十年(はたとせ)の月日と友と
  われをおきていづちゆきけむ
  そのかみの思われ人と
  ゆく春もこの曇り日や
  われひとり齢(よはい)かたむき
  はるばると旅をまた来つ
  杖により四方(よも)をし眺む
  肥の国の大阿蘇の山
  駒あそぶ高原の牧
  名もかなし草千里浜 
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※格調の高い詩である。読むたびに心が洗われるのは、私だけであろうか。実際に見た草千里浜は、まさに詩のとおりであった。一度は行きたい場所である。
          平成27年2月1日 記
 


      大阿蘇
                       三好達治

  雨の中に 馬がたつてゐる
  一頭二頭仔馬をまじへた馬の群れが 雨の中にたつてゐる
  雨は蕭蕭(しょうしょう)と降つてゐる
  馬は草を食べてゐる
  尻尾も背中も鬣(たてがみ)も ぐつしよりと濡れそぼつて
  彼らは草を食べてゐる
  草を食べてゐる
  あるものはまた草もたべずに きよとんとしてうなじを垂れてたつてゐる
  雨は降つてゐる 蕭蕭と降つてゐる
  山は煙をあげてゐる
  中岳の頂きから うすら黄ろい 重つ苦しい噴煙が濛濛とあがつてゐる
  空いちめんの雨雲と
  やがてそれはけぢめもなしにつづいてゐる
  馬は草をたべてゐる
  艸千里浜(くさせんりはま)のとある丘の
  雨に洗はれた青草を 彼らはいつしんにたべてゐる
  たべてゐる
  彼らはそこにみんな静かにたつてゐる
  ぐつしよりと雨に濡れて いつまでもひとつところに彼らは静かに集つてゐる
  もしも百年が この一瞬の間にたつたとしても 何の不思議もないだらう
  雨が降つてゐる 雨が降つてゐる
  雨は蕭蕭と降つてゐる
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※遠景と近景、雄大な阿蘇と放牧されている馬たち、心静かになる光景である。この場所に実際に行くと、この詩のままの光景が広がっていた。時間が止まっているような錯覚にも陥った。外輪山に抱かれた広大なカルデラ地形は、悠久の自然を感じさせるが、この姿さえ永遠ではない。この世にある全てのものが、止まることをしらない。
         平成26年10月23日 記


       乳母車     
             三好達治

  母よ── 
  淡くかなしきもののふるなり
  紫陽花いろのもののふるなり
  はてしなき並樹のかげを
  そうそうと風のふくなり

  時はたそがれ
  母よ 私の乳母車を押せ
  泣きぬれる夕陽にむかつて
  りんりんと私の乳母車を押せ

  赤い総ある天鵞絨の帽子を
  つめたき額にかむらせよ
  旅いそぐ鳥の列にも
  季節は空を渡るなり

  淡くかなしきもののふる 
  紫陽花いろのもののふる道
  母よ 私は知ってゐる
  この道は遠く遠くはてしない道
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※三好達治は、「『紫陽花いろのもののふるなり』は何を指すのであるか、とよく質問されるが、これにも作者は答へにくい。現実に何を指すのでもなく、さういふ色合をただ言葉の上でなすつておく、それで、夢のやうな乳母車が登場する。幻覚めいた場景に、なにほどか支えへが準備されるのである、と位に答へる外はないが、こんな説明を加へたのでは、たいへん味気ないのを覚える。もうそこから、詩ははじまつてゐるのであるから、それが、ただ前置きであつては、やはりどこやらそれではつまらないのである。無条件に、言葉を言葉のまま、感覚的対象として受けとつてもらひたい
」と書いている。詩の鑑賞において、言葉を詳細に分析してあれこれと解釈するのは、愚昧な行為だ。詩は、感性で読みたいものだ。
         平成26年10月17日  記

晴耕雨読