多田 富雄 

        「脳の中の能舞台」 
                      多田 富雄 
 
 日本の文化を特徴づけるものとして、「間」というものがある。「間」は、「間が抜ける」、「間違い」、「間が悪い」、「間のび」など、日常生活から芸術活動にいたるまで主要な規範となっている。それは、単にタイミングとか規則性などという瑣末(さまつ)なことではなく、人間関係をも左右する本質的な規範である。日本音楽においては、芸術的な大半はこの「間」のとり方によって決まってしまうと言ってもいい。
 ことに日本文化を「異文化」として客観的に見直そうとするときも、最もやっかいな概念のひとつは、この「間」である。「間」とは何か、「間」の起源は、そして「間」は何のためにあるのかを考えることは、日本文化を理解するためにどうしても必要なことであろう。
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※この文章は、とても大切なことを言っている。落語でも野球でも、さらに人間関係においても「間」は、重要なことである。お客が笑っているとき、落語家は言葉を発しないという。野球でも「ため」という「間」があることが、ヒットを打つ要諦である。自分とあわない人とは希薄に、あう人とは濃厚に付き合うことも、人間関係の「間」である。さらに剣道の「間」ということを考えれば、その重要さが明白になる。「近間」「遠間」「一足一刀の間」、これらは、相手との間合いを表す言葉である。自分には近く相手には遠い間合いこそ、剣道の最も重要な一つとなっている。
           平成28年3月4日 記  
  



        「脳の中の能舞台」 
                      多田 富雄  
 死者を主要な登場人物とする、世界に類例を見ない演劇「能」は、こういう時代的
背景で生まれた。
 朝(あした)には紅顔を誇った美少年が夕べには骸(むくろ)となり、やがては白骨
に化すというのが現実だとすれば、人生は仮のものにすぎない。死者の魂はどこか
に行ってひそかに生きているに違いない、と中世の人は考えた。それでは死者はど
こに行くのか。
 当時の仏教の考えによれば、死者の霊魂は、陽の部分の魂と陰の部分の魄に
分かれて、一方はあの世、つまり西方十万億土の浄土に行くが、他方は心を残した
この世、あるいは輪廻(りんね)の中間にある三界にとどまって苦しむとされた。「魂
は善所に赴けども魄は修羅道に残ってしばし苦しみを受くるなり」(「朝長」)
 度重なる戦乱を間近に見てきた人々は、平曲や説経節に語り継がれる死者の満
たされぬ魂が、ごくごく身近に編満していることを感じていた。その話をしみじみと聞く
ことで身近の者の死を悼み、自らの生を実感し、さらにはいつ来るとも知れぬ死の慰
めとした。このようにして、非業(ひごう)の死をとげた英雄や伝説上の美女、さらに
身近の死者たちがひしめく巨大な「死者の世界」とでもいうべき精神世界を作り上げ
共有していたのである。
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※作者、多田富雄は、有名な免疫学者で能にも造詣が深かった。一流の人は専門
以外に違った世界をもっているのが常である。独自の視点で「能」を論じている興味
深い珠玉の一冊である。 

                平成27年12月27日 記