西行
惜しむとて惜しまれぬべきこの世かは身を捨ててこそ身をも助けめ
世の中を捨てて捨て得ぬここちして都はなれぬ我が身なりけり
身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜(さよ)の中山
道の辺の清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ
願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ
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※西行は、出家するまでの若き日、北面の武士であった。北面の武士とは、院の御所の北面を詰所として上皇の警備や御幸の供奉(ぐぶ)などに当たった武士のことである。院北面は、11世紀末の白河院政開始後にまもなく創設された院司(いんじ:上皇に仕えて、院中の庶務を掌る職員)の一つで、当初は雑多な近習(きんじゅ)・廷臣が雑事を奉仕していた。その後、その中で次第に武士の占める比重が大きくなっていった。やがて諸大夫以上の家柄の者から成る上北面と衛門尉(えもんのじょう)・兵衛尉(ひょうえのじょう)等を多く含む下北面との別ができるに至った。この下北面
に多くの武士が登用され、北面武士と呼ばれたのである。院中の警護機関としては既に御随身所・武者所があったが、北面はそれらの武力的要素を吸収して院の親衛隊としての性格を強めていく。
西行の生き方は、後年、多くの文学者の憧憬の的になった。その一人が松尾芭蕉であった。『奥の細道』で「道の辺の清水ながるる柳陰しばしとてこそ立ちどまりつれ」の詠まれた柳を訪れ、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」と俳句を作っている。
また、能楽にも「西行桜」という演目があり、西行を題材として作られている。
平成28年10月19日 記