能面を打つ

      『能面を打つ』
              北澤三次郎

 「面を打つ」という言い方には、面の姿を木の中から打ち出すという、精神的な響きがある。ただ彫るのとは違うのである。〃打つ〃とは、もっと緊張感の漲(みなぎ)ることである。つまり心を籠(こ)めると言ったらよいであろうか。面打ちは技術だけではどうにもならない。心が素材を借りて面を表現することなのである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・。(中略)
 面は有形であるが、面の本質は無形であることに注意しなければならない。面の表情は、心理という無形の働きかけを造形化することの形容なのである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・。(中略)
 大きな木材を切るのに、電気鋸を使うことは、便利で早く、たやすいことであろうが、どうもあっさり切ってしまうことに、痛みを感じて抵抗がある。だから、未だに原始的な手鋸で、木をいたわりつつ挽いているのである。木を素材として面を表現する立場から言うと、機械的な道具を使うことで、時間的・肉体的に楽になる反面、思考にまで楽を求めるようなことがあるように思えてならないからである。このことは、近代的な道具を否定しているのではなく、私個人の仕事に対する執着である。時間に追われ、すぐに結果を求めるような時代の流れに逆らいながら、無駄と思われるような多くの時間を要し、背後に時代錯誤的な心情を背負いつつ、道具を我が分身とも思い、仕事をしている。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・。(中略)
 「一面出来上がるのに、どれ位かかりますか?」という質問が実に多い。簡単に何ヶ月ですと答えられる性質の仕事ではないので、その質問を向けられると、いつも一瞬答えに窮してしまう。仕事にかかる時間の長さで、仕事の重みを計ろうとする、ある種の信頼感みたいものが蔓延しているのだろう。ことに私の仕事に関しては、どの分野でも数字は縁遠いものである。
 要は日数の長短ではなく、面の出来の問題である。
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※私は、何事にも哲学的な思考のないものは、一流ではないと考えている。その点からすると、作者、北澤三次郎には、作成する面はもちろんではあるが面作りに対する哲学がある。面を打つ姿勢に、いつも共感を覚え感動する。「面は有形であるが、面の本質は無形である」、まさに至言(しげん)というほかに言葉はない。
 ちなみに、面は、「めん」と読まず、「おもて」と読む。面を使用するのは基本的にシテ(主人公)だけで、その他のワキやシテツレは使用しない。しかし、その素顔も面と考え、直面(ひためん)と称する。
 『法隆寺を支えた木』の中で、西岡常一は、電気鉋を使うと表面が、ざらざらとしていて、やがて、そこから雨がしみこみ黒く変色し腐っていくと述べていた。何か、 北澤三次郎と通底しているものがあると感じずにはいられない。
        平成31年3月6日 記