無門関

          「無門関」
             趙州(じょうしゅう)狗子(くし)

(評唱)
 箇の熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相い似て、吐けども又吐け出さず。従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)して、久々に純熟して自然(じねん)に内外(ないげ)打成(だじょう)一片ならば、唖子(あし)の夢を得るが如く、只だ自知することを許す。
 驀然(まくねん)として打発(だはつ)せば、天を驚かし地を動ぜん。関将軍の大刀を奪い得て手に入るるが如く、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死(しょうじ)岸頭(がんとう)に於いて大自在を得、六道四生(ろくどうししょう)の中に向って遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい)ならん。

【口語訳】
 あたかも一箇の真っ赤に燃える鉄の塊を呑んだようなもので、吐き出そうとしても吐き出せず、そのうちに今までの悪知悪覚が洗い落とされて、時間をかけていくうちに、だんだんと純熟し、自然と自分の区別がつかなくなって一つになるだろう。これはあたかも唖(おし)の人が夢を見たようなもので、ただ自分一人で体験し、噛みしめるよりほかないのだ。
 ひとたびそういう状態が驀然(まくねん)として打ち破られると、驚天動地の働きが現われるだろう。それは、まるで関羽の大刀を奪い取ったようなもので、仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺すという勢いだ。この生死の真っ只中で大自在を得、迷いと苦しみの中でも遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになるだろう。
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※ 「一切衆生皆仏性有り」(いっさいしゅうじょうみなぶっしょうあり)を念頭に、ある僧が「犬(狗子)にも仏性が有りますか」と質問すると、 趙州和尚は「無」と答える。そのような問答の「評唱」を無門慧開が書いた。それが、禅宗の本「無門関」である。「有」が「無」であり、「無」が「有」とする。作者は、「この無を決して虚無だとか有無だとかいうようなことと理解してはならない。」と言っている。この難問を解くためには3年かかるという。すべての執着から解き放たれれば、「迷いと苦しみの中でも遊戯三昧の毎日を楽しむようなことになる」とする。この心境は、剣道にも言えることだ。
          平成29年3月4日 記