宮沢賢治
永訣(えいけつ)の朝
宮沢賢治
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
うすあかくいっさう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちょびちょふってくる
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
青い蓴菜(じゅんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(とうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
蒼鉛(そうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいっしゃうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまっすぐにすすんでいくから
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
…ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
(うまれでくるたてこんどはこたに
わりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ
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※ 宮沢賢治の妹とし子は、24歳の若さで肺結核のためこの世を去っていく。賢治 の悲しみは、はかりしれなかったという。
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)、「みぞれを取ってきてください。賢治兄さん。」と言う妹。賢治は、死にゆく妹の願いを叶えようと、鉄砲玉のように外に飛び出していく。
「うまれでくるたてこんどはこたにわりやのごとばかりでくるしまなあよにうまれてくる」(今度生まれてくるときは、こんなに自分のことばかりに苦しまず、人の
ために苦しむ人間に生まれてきたい。) と言うけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられない。賢治が耳元で「南無妙法蓮華経」と唱えると、とし子は大きく二回頷いて息を引き取ったという。賢治は、押入に頭を入れて大きな声で泣く。切々と心に迫ってくる詩で、その感動を表す言葉をもたない。
今日の讀賣新聞の朝刊に、「賢治妹が見た『永訣』」と題する記事が載っていた。賢治の妹、岩田シゲ(とし子の妹)が賢治や宮沢家にまつわる出来事を綴った回想録(親族だけに配付)が存在することが分かった、と報道している。「永訣の朝」に綴られたとし子の臨終の様子も詳細に描いていて、貴重な資料だとしている。「シゲの父や祖父が『女性は前に出るな、ものを書くな』という考えをもっていたそうで、表だって書くことは控えていたようだ」との学芸員の話も掲載している。
平成29年12月1日 記
俳句一句
五輪塔のかなたは大野みぞれせり
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※道場のKさんからお借りした本の中に掲載されていた一句である。宮沢賢治が俳句まで作っていたかと驚いたが、よく考えてみれば何の不思議もないはずだ。この俳句が目に留まったのは、私も「五輪塔」を詠んだことがあるからである。五輪塔とは、下方から地・水・火・風・空を表し、宇宙の五大要素を象ったものである。
「五輪塔幾たび巡る薄暑(はくしょ)かな」 (山崎淳一)
勤務した小学校の近くには、二カ所に五輪塔がある。「太子五輪塔」には1605年、「山本五輪塔」には1545年と刻まれている。長い間佇(ただず)み、どれほどの人間の営みを見てきたのであろうか。
ところで、宮沢賢治は、「五輪峠」(春と修羅 第二集)に下記のように書いている。
がらんと暗いみぞれのそらの右側に
松が幾本生えてゐる
藪が陰気にこもってゐる
なかにしょんぼり立つものは
まさしく古い五輪の塔だ
苔に蒸された花崗岩(みかげ)の古い五輪の塔だ
この詩からも、強い関心をもって五輪塔を見詰めていたことが分かる。賢治の死後作った墓も五輪塔であることを考えると感慨深い。
平成29年2月14日 記
無声慟哭 (どうこく)
宮沢賢治
こんなにみんなにみまもられながら
おまへはまだここでくるしまなければならないか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちいさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまへはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進(しょうじん)のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりどこへ行かうとするのだ
(おら、おかないふうしてらべ)
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちいさな表情も
けつして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に訊(き)くのだ
(うんにや ずゐぶん立派だぢやい
けふはほんとに立派だぢやい)
ほんたうにさうだ
髪だつていつさうくろいし
まるでこどもの苹果(へいか)の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
《それでもからだくさえがべ?》
《うんにや いつかう》
ほんたうにそんなことはない
かへつてここはなつののはらの
ちいさな白い花の匂でいつぱいだから
ただわたくしはそれをいま言へないのだ
(わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない
【参考】
(おら、おかないふうしてらべ) - 私恐い顔をしているでしょう
《それでもからだくさえがべ?》-それでも体、悪い臭いでしょう
苹果(へいか)-リンゴ
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※宮沢賢治の妹とし子の死は、賢治にはかりしれない悲しみを与えた。その悲しみから、賢治は多くの詩を紡み出していくのである。「永訣の朝」やこの詩を読むと、高村光太郎の「レモン哀歌」等一連の詩を連想するのは私だけであろうか。
平成29年2月8日 記
絶筆二首
方(ほう)十里稗貫(ひえぬき)のみかも稲熟れて
み祭三日そらはれわたる
病(いたつき)のゆゑにもくちんいのちなり
みのりに棄てばうれしからまし
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※ 宮沢賢治は、昭和8年9月21日、肺の病で亡くなった。その前日に半紙に書いたのが上記の二首である。自然を愛し、土を愛し、農民を愛し、数々の作品を残した一生であった。それらは、私たちの胸に刻まれていった。「稗貫」は当時の地名で、現在では花巻市になる。
平成29年2月4日 記
雨ニモマケズ 宮沢 賢治
雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ 欲ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ イツモシズカニ笑ッテイヰ(い)ル
一日ニ玄米四合(よんごう)ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ蔭(かげ)ノ 小サナ萱(かや)ブキノ小屋ニヰ(い)テ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニ喧嘩(けんか)ヤ訴訟ガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ -----------------------------------------------------------------------
※宮沢賢治の死後、彼の手帳から発見された詩である。誰もが諳んじられるようにしてもらいたい。
平成27年3月17日 記
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