萩原朔太郎

    
        帰郷
               萩原 朔太郎

    わが故郷に帰れる日
    汽車は烈風の中を突き行けり。
    ひとり車窓に目醒むれば
    汽笛は闇に吠え叫び
    焔(ほのお)は平野を明るくせり。
    まだ上州の山は見えずや。
    夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
    母なき子供等は眠り泣き
    ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
    嗚呼(ああ)また都を逃れ来て
    何所(いずこ)の家郷に行かむとするぞ。
    過去は寂寥の谷に連なり
    未来は絶望の岸に向かへり。
    砂礫(されき)のごとき人生かな!
    われ既に勇気おとろへ
    暗澹(あんたん)として長(とこし)なへに生きるに倦(う)みたり。
    いかんぞ故郷に独り帰り
    さびしくまた利根川の岸に立たんや。
    汽車は曠野を走り行き
    自然の荒寥たる意志の彼岸に
    人の憤怒(いきどおり)を烈しくせり。
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※萩原朔太郎は、「郷土!いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ、人々は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱(ちょうじょく)し、私の背後(うしろ)から唾をかけた。『あすこに白痴(ばか)が歩いて行く』さう言つて人々が舌を出した。」と「郷土望景詩」の序文に自虐的に書いている。
朔太郎にとって、故郷は忌まわしいものであった。この詩を高校2年生の時から読み続けている。将来に対する不安で、その当時の自分の心も暗澹としていたのであろう。
       平成29年11月14日 記



         郵便局」
                     萩原 朔太郎

郵便局といふものは、港や停車場やと同じく、人生の遠い旅情を思はすところの、悲しいのすたるぢゃの存在である。局員はあわただしげにスタンプを捺し、人々は窓口に群がってゐる。わけても貧しい女工の群が、日給の貯金通帳を手にしながら、窓口に列をつくって押し合ってゐる。或る人々は為替を組み入れ、或る人々は遠国への、かなしい電報を打たうとしてゐる。いつも急がしく、あわただしく、群衆によってもまれてゐる、不思議な物悲しい郵便局よ。私はそこに来て人生の郷愁を見るのが好きだ。田舎の粗野な老婦が居て、側の人にたのみ、手紙の代筆を懇願してゐる。彼女の貧しい村の郷里で、孤独に暮らしてゐる娘の許へ、秋の袷や襦袢やを、小包で送ったといふ通知である。郵便局!私はその郷愁を見るのが好きだ。生活のさまざまな悲哀を抱きながら、そこの薄暗い壁の隅で、故郷への手紙を書いている若い女よ!鉛筆の心も折れ、文字も涙によごれて乱れてゐる。何をこの人生から、若い娘たちが苦しむだろう。我々もまた君等と同じく、絶望のすり切れた靴をはいて、生活の港々を漂泊してゐる。永遠に、永遠に、我々の家なき魂は凍えてゐるのだ。
郵便局といふものは、港や停車場やと同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢゃだ。
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※もの悲しい散文詩ではあるが、心を揺さぶられる。「郵便局といふものは、港や停車場やと同じやうに、人生の遠い旅情を思はすところの、魂の永遠ののすたるぢゃだ。」この一文が、心を掴んで離さない。
         平成27年3月7日 記


     
   中学の校庭

               萩原 朔太郎

    われの中学にありたる日は
    艶(なま)めく情熱になやみたり
    いかりて書物をなげすて
    ひとり校庭の草に寝ころび居しが
    なにものの哀傷ぞ
    はるかに青きを飛びさり
    天日直射して熱く帽子に照りぬ
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※明治33年4月、朔太郎は、前橋中学校へ入学した。その中学校生活について「私の中学にいた日は悲しかった。落第。忠告。鉄拳制裁。絶えまなき教師の叱責。父母の嗟嘆。」と書いている。上記の詩とはかなり乖離(かいり)のある生活である。だからこそ、心は自由に動いていたのであろうか。
          平成27年3月6日 記
  


        旅  上      
                   萩原 朔太郎

      ふらんすへ行きたしと思へども
     ふらんすはあまりに遠し
     せめては新しき背広をきて
     きままなる旅にいでてみん。
     汽車が山道をゆくとき
      みづいろの窓によりかかりて
     われひとりうれしきことをおもはむ
     五月の朝のしののめ
     うら若草のもえいづる心まかせに。
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※「旅上」は、大正2年(1913年)5月の雑誌「朱欒(ざんぼあ)」(北原白秋主宰)に発表されたものである。朔太郎の詩が、中央詩壇に初めて登場した時であった。その時のことを妹は、「兄はその時、とくいになって私たちにみせてくれました。車夫や看護婦などにも、北原白秋に認められたことを話していました。東京の雑誌に載ったことが、どれほど嬉しかったのか、私たちにも兄の気持ちがよくわかりました。」と述べている。
 朔太郎も「当時の詩壇では、この白秋の『ザンボア』と三木露風の『未来』とが並行する権威があつて、一度この雑誌に作を載せれば、直に詩人として認められるほどの権威を持つて居た。それほどの雑誌であるからいくら投書したつて容易に載せられるものではなく、たいてい没書にきまつて居る。僕も没書を覚悟で出したが幸ひにして採用され、その上白秋氏から賞讃の言葉まで頂戴した。詩の投書といふことは、僕としてはこれが初めての経験だつたが、うまくパスして嬉しかつた。」とその喜びを語っている。
 5月の爽やかな季節と明るさ、それに対峙するかのような朔太郎の内なる世界、どのように忖度すればいいのだろうか。

             平成27年3月3日 記 


    
          萩原朔太郎

    光る地面に竹が生え、
    青竹が生え、
    地下には竹の根が生え、
    根がしだいにほそらみ、
    根の先より繊毛(わたげ)が生え、
    かすかにけぶる繊毛が生え、
    かすかにふるえ。

    かたき地面に竹が生え、
    地上にするどく竹が生え、
    まつしぐらに竹が生え、
    凍れる節節りんりんと、
    青空のもとに竹が生え、
    竹、竹、竹が生え。
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※娘の萩原洋子は、「父はとても臆病で自分の書いたものを悪口などいわれるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりでそのたびに、すっかりやつれが目立つのだった。こんなに父をいじめる人はずいぶんひどいと、私は思わずにいられなかった。家にぜんぜん知らない方が見える時など、父はかなりの怯えかたをするが、わかってしまえば、とてもあけすけに明るく応対したのである。」と書いている。かなり病的な感じがする。
 萩原朔太郎は『月に吠える』で、「君の気稟は又譬へば地面に直角に立つ一本の竹である。その細い幹は鮮かな青緑で、その葉は華奢きやしやでこまかに動く。たつた一本の竹、竹は天を直観する。而も此竹の感情は凡てその根に沈潜して行くのである。根の根のこまかな繊毛のその岐れの殆ど有るか無きかの毛のさきのイルミネエション、それがセンチメンタリズムの極致とすれば、その毛の尖端にかじりついて泣く男、それは病気の朔太郎である。それは君も認めてゐる。」と自らを評している。近代の病める魂を詩に具現化したのは、まぎれもなく朔太郎であ。
        平成27年2月27日 記



      珈琲店酔月

               萩原朔太郎

   坂を登らんとして渇きに耐えず
  踉(そうろう)として酔月の扉(どあ)を開けば
  狼藉(ろうぜき)たる店の中より
  破れしレコードは鳴り響き
  場末の煤ぼけたる電気の影に
  貧しき酒瓶の列を立てたり。
  ああ この暗愁も久しいかな!
  我れまさに年老いて家郷なく
  妻子離散して孤独なり
  いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
  女等群がりて卓を囲み
  我れの酔態を見て憫(あわれ)みしが
  たちまち罵(ののし)りて財布を奪い
  残りなく銭を数えて盗み去れり
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※詩人高村光太郎は、「近代日本に天成の詩人があるか、近代日本に純粋と称し得る詩人があるか、近代日本に性情そのものに根ざす詩人らしい尖鋭の詩人があるかと人にきかれたら、即座に萩原朔太郎があると答へよう。この詩人ほど存在そのものが既に詩であつた人は少なく、--少なくといふのは北原白秋氏があるからである、--この詩人ほど俗念に遠く、俗事にうとく、詩の本質とその表現とに生涯を埋めた人はなく、又この詩人ほど生理的にまで言葉そのもののいのちを把握し、その作用を鋭く裏の裏まで自家のものとした人はいない。」と述べている。高村光太郎の萩原朔太郎に対する敬愛と深い理解に満ちあふれた批評は、ともに才能豊かな詩人であったればこそのものだろう。しかし、その素質においては対蹠的(たいせきてき)であった。
 「帰郷」にもあるように、朔太郎は、屈折的な感情を抱く人であり、社会人家庭人としては失格者であった。しかし、その才能はまぎれもない。
         平成27年2月26日 記



       利根川のほとり
                萩原朔太郎

  きのふまた身を投げんと思ひて
  利根川のほとりをさまよひしが
  水の流れはやくして
  わがなげきせきとむるすべもなければ
  おめおめと生きながらへて
  今日もまた河原に來り石投げてあそびくらしつ。
  きのふけふ
  ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
  たれかは殺すとするものぞ
  抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。
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自分自身を憐れみ慈しむ姿が痛ましいほど伝わってくる詩である。
         平成27年2月25日 記





晴耕雨読