弘道館記

          「弘道館記」

 弘道とは何ぞ。人能(よ)く道を弘むるなり。道とは何ぞ。天地の大經(たいけい)にして、生民(せいみん)の須臾(しゅゆ)も離るべからざるものなり。弘道の館は、何の爲に設くるや。恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに、上古、神聖、極を立て統を垂れたまひ、天地位(くらい)し、萬物育す。其の六合(りくごう)に照臨し、宇内(うだい)を統御したまふ所以のもの、未だ嘗て斯の道に由らずんばあらざるなり。寶祚(ほうそ)、之を以て窮無く、國體、之を以て尊嚴、蒼生(そうせい)、之を以て安寧、蠻夷戎狄(ばんいじゅうてき)、之を以て率服(そっぷく)す。而うして聖子神孫、尚ほ肯(あ)へて自ら足れりとせず、人に取りて以て善を爲すを樂しみたまふ。乃ち、西土(せいど)唐虞(とうぐ)三代の治敎(ちきょう)の若き、資(と)りて以て皇猷(こうゆう)を賛(たす)けたまふ。是に於て、斯の道兪(いよいよ)大いに、兪明らかにして、復た尚(くわ)ふるなし。中世以降、異端邪説、民を誣(し)ひ世を惑はし、俗儒曲學、此を舎(す)てて彼に從ひ、皇化陵夷(りょうい)し、禍亂相踵(あいつ)ぎ、大道の世に明らかならざるや、蓋(けだ)し亦久し。我が東照宮、撥亂反正(はつらんはんせい)、尊王攘夷、允(まこと)に武、允に文、以て太平の基を開く。吾が祖威公(いこう)、實に封(ほう)を東土に受け、夙(つと)に日本武尊の爲人(ひととなり)を慕ひ、神道を尊び、武備を繕(おさ)む。義公、繼述(けいじゅつ)し、嘗て感を夷齊(いせい)に發し、更に儒敎を崇び、明倫正名(めいりんせいめい)、以て國家に藩屏(はんぺい)たり

    【大意】
 弘道とは道を広めることであり、其の道とは人が人として持ち合わせるべき真理である。弘道館を建てた理由は以下のとおりである。我国は天孫の国であり、天孫の道により国を維持してきたが、更に儒教の道を取り入れ磐石の道にした。しかしながら中世以降に色々な思想が入り込み、本来の道が廃れ、国風が衰退し、世が乱れたが、東照宮、徳川家康が乱を鎮め、尊王攘夷を行い、文武を盛んにし、太平の基礎を作った。水戸の祖、威公はこの地に封され、日本武尊命の人となりを慕い、神道を尊び、武備を盛んにした。義公はこれを継ぎ、更に儒教にも力を入れ国家の藩屏となってきた
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※天保12年(1841年)7月に完成した水戸藩の藩校「弘道館」は、第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られ、多くの俊英を排出している。その建てた理由を述べたのが、この「弘道館記」である。この草稿を練った藤田東湖は、その後、「弘道館述義」を書いている。郷土の誇りである「弘道館」について理解することは、とても重要である。合わせて威公、義公、烈公、立原翠軒、藤田幽谷、会沢安などの人物も学習するべきである。
             平成29年10月3日 記