古今著聞集(ここんちょもんじゅう)
   
        古今著聞集 「衣のたてはほころびにけり」 
         
         伊予守 源頼義の朝臣、貞任(さだとう)・宗任を攻むる間、陸奥に十二年の春秋を送りけり。鎮守府を立ちて、秋田の城に移りけるに、雪、はだれに降りて、
        軍の男どもの鎧みな白妙になりにけり。 衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、筏を組みて攻め戦ふに貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男八幡太郎義家、衣川に追ひ たて攻め伏せて、 
         「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」 
        と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、 
         「衣のたてはほころびにけり」 
        と言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、 
         「年を経し糸の乱れの苦しさに」 
        と付けたりけり。その時義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。  
         
        【口語訳】 
         伊予の守源頼義が阿倍貞任や宗任らを攻めるうちに、陸奥で十二年の年月が流れた。鎮守府を出発して秋田の城に移れば、雪ははらはらと降って、軍の武士たちの鎧(よろい)がすっかり白くなってしまった。衣川の館は、川岸が高かったので、楯を頭の上に乗せて兜に重ね、筏を組んで攻めると、貞任らは堪えられなくて、遂に城の後ろから逃げ出したのを、源義家が衣川に追いつめて攻撃をして、 
         「卑怯にも、後ろ姿を見せることだなあ。ちょっと引き返せ。言いたいことがある」と声を掛けた。すると、貞任が振り返ったので、義家は、 
         「衣のたてはほころびにけり」 
        と言った。貞任は馬のくつわを緩め、かぶとを振り向けて、 
         「年を経し糸の乱れの苦しさに」 
        と付けた。その時、義家は弓につがえていた矢をはずして帰ってしまった。あれほどの戦闘の中で風流であったことだよ。 
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        ※  「衣のたてはほころびにけり」と義朝は、逃げる貞任に下の句を投げかけた。「たて」は掛詞、縦糸の縦とやかたの館を掛ける。衣の縦糸はほころんでしまった。(衣川の館は陥落してしまった)となる。すると、貞任は間髪(かんはつ)を入れず上の句、「年を経し糸の乱れの苦しさに」を付ける。「いと」は掛詞、意図と糸を掛ける。何年も経った糸の傷みが激しいので(長期にわたる作戦の乱れが甚だしいので)となる。激しい戦闘の中でも、武士としての意地や誇りを忘れず、恥をさらすことを忌避した武士の姿がある。ここに武士道の系譜の一端がある。 
                  令和元年10月31日 記 
       
       
       
    
      
         古今著聞集 (能因法師と白河の関) 
 
 能因法師は、いたれるすきものにてありければ、 
「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 
とよめるを、都にありながらこの歌をいださむことを念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色をくろく日にあたりなして後、 
「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」 
とぞ披露し侍りける。 
 
        【口語訳】 
    能因法師は、とても風流人で、 
 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 
        と詠んだのを、都にいてこの歌を披露することは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当たって肌を焼いてから 
「みちのくに修行したついでに歌を詠みました。」と披露した。 
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        ※実際には、奥州行脚の折りに詠まれたということである。現代と違い当時は、都を春に立っても秋に着くのであるから、まさしく「みちのおく」である。 
         福島県には、奥州三関の一つである「勿来の関」もある。源義家はここで、「吹く風をなこその関と思へども道もせにちる山桜かな」(『千載和歌集』)と詠んでいる。日本人の自然を畏敬する念が感じ取れる。 
              平成30年1月10日 記  
       
       
       
      
     古今著聞集「小式部内侍(こしきぶのないし)よみける」 
         
         和泉式部、保昌(やすまさ)が妻にて丹後に下りけるほどに、京に歌合ありけるに小式部内侍歌よみにとられてよみけるを、定頼の中納言、たはぶれに小式部内侍に、 
        「丹後へつかはしける人は参りにたるや。」 
        と言ひ入れて、局(つぼね)の前を過ぎられけるを、小式部内侍、御簾(みす)よりなかば出でて、直衣(のうし)の袖をひかへて、 
          大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立 
        とよみかけけり。思はずにあさましくて 
        「こはいかに」 
        とばかり言ひて、 返しにも及ばず、袖をひきはなちて逃げられにけり。小式部、これより歌よみの世おぼえ出で来にけり。 
         
        【口語訳】 
         和泉式部が藤原保昌の妻として丹後の国へ下っていた時に、都で歌合があり、小式部内侍が歌人として選出されて歌を詠んだのだが、定頼の中納言がからかって小式部内侍に、 
        「丹後へお遣りになった使者は戻って参りましたか」 
        と言って局の前を過ぎて行かれたので、小式部内侍は御簾から半分外に出て、(定頼の)袖をつかんで、 
            大江山いくのの道の遠ければまだふみもみず天橋立 
            (大江山を越えて生野へ行く道は遠いので、いまだ天橋立を踏ん 
            だこともなければ、母からの手紙を見たこともありません〕 
          ※ 掛詞  
             「いくの」・・・「行のく」と「生野」 
             「ふみ」・・・・「文」と「踏み」 
        と詠んだ。思いもよらず驚いて 
        「これは何としたことか」 
        とだけ言って、返歌もできず、つかまれた袖を振り払ってお逃げになった。小式部内侍はこれによって歌人としての世の評判が出てきたという。 
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        ※ 和泉式部は、小式部内侍の母親である。小式部内侍の父親は橘道貞、和泉式部は彼と離婚後、藤原保昌と再婚している。小式部内侍は26歳(異説あり)で亡くなってしまう。和泉式部の悲しみは計り知れず、下記のような哀切な挽歌を詠んでいる。
         
         「もろともに苔の下には朽ちずしてうづもれぬ名を見るぞ悲しき 」 
         「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり」 
         この文章は、藤原定頼が小式部内侍をからかおうとして(和泉式部から添削した短歌が届いたかと揶揄した)、反対にやり込められたことを書いたものである。小式部内侍は、母親の才能を引き継いでいたのである。  
               平成29年7月22日 記 
         
       
       
       
 
      
      古今著聞集(小式部内侍のわずらい) 
             
         同じ式部がむすめ小式部の内侍、この世ならずわづらひけり。限りになりて、人の顔なども見知らぬほどになりて臥したりければ、和泉式部かたわらにそひゐて、ひたひたおさへて泣きけるに目をはつかに見あげて、母が顔をつくづくと見て、いきのしたに、 
           「いかにせむ行くべきかたもおもほえず親にさきだつ道を知らねば」 
        と弱りはてたるこゑにていひければ、天井のうへにあくびそしてやあらんとおぼゆるこゑにて、「あらあはれ」といひてけり。さて、身のあたたかさもさめて、よろしくなりにけり。 
         
         【口語訳】 
          和泉式部の娘小式部内侍が、大変重い病になった。もはやこれまでという状態になって、人の顔なども見分けられないほどになって臥せていた。和泉式部が傍らにいて額を押さえて泣いていると、目をわずかに見上げて和泉式部をつくづくと見て、息の下で 
           「いかにせむ行くべきかたもおもほえず親にさきだつ道を知らねば」 
          (私はもはや生きられそうにありません。親に先立って死ぬ不幸を思うと、どうした  らよいか途方にくれるばかりです。) 
         と弱った声で歌を詠んだ。すると、天井からあくびをかみ殺したような奇妙な声で 
         「あらかわいそうに」 
         という声が聞こえた。すると、熱もなくなって病が治ってしまった。 
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        ※ 歌徳説話である。歌が神仏に奉納されて、慈雨を降らせ重病が治り、所有が安堵されるなど様々な功徳が与えられた。ここにも和泉式部が娘の病を落胆し悲しむ母親の姿がある。 
         娘、小式部内侍は、和泉式部と共に一条天皇の中宮・彰子に出仕した。そのため、和泉式部と区別するために、「小式部」という女房名で呼ばれるようになった。和泉式部により先に亡くなってしまう。彼女は、その悲しみを歌に残している。 
         「もろともに苔の下には朽ちずして埋もれぬ名を見るぞかなしき」 
                  平成27年5月14日 記 
       
       
       
  
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