剣道のしおり


     剣道のしおり
                  警視庁剣道連盟


     袴のはなし
 袴を前から見ると、5本のひだがあり、裏側には1本のひだが通っています。このひだは先人が袴を使用するにあたり、人として日常の心掛けに結びつけて作ったもので、5つのひだは、五倫、五常の道を訓えたものであるといわれています。即ち、君臣(忠)、父子(孝)、夫婦(和)、長幼(愛)、朋友(信)、また、仁、義、礼、智、信を表し、1本のひだは、二心のない誠の道を示したものであるとされています。従って、私たちは袴をはく度にその意義を心に刻み使用したいものです。
 (中略)
 袴には腰板があり、これは一部腰椎を後方から圧抵して腰椎前彎(ぜんわん)を強要し、正しい姿勢の基盤をつくり、ひいては下腹部を突き出すことになり腰をもたせることに役立っています。さらに前紐は長く、胴を三廻り、後紐は一廻りあって夫々の紐を締めることによって下腹部に力が入り、武道で最も重視される丹田力を養うことができます。このように、精神的、肉体的、行動的にも好結果をもたらし、また、美的価値すらも具現する日本の文化遺産ともいうべき袴を私たちは愛し、常に清潔な折り目正しい袴で、稽古に励みたいものです。
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※この書物で、初めて袴のひだの意味することを知った。剣道は荒々しい、だからこそ五倫や五常という言葉で戒めたのであろう。剣道は、「剣の理法の修練による人間形成の道」と謳(うた)っている。その一筋の道を歩く輩(ともがら)として袴を身に付け日々の稽古に励みたいものだ。
 源実朝の歌に次のようなものがある。
  「山はさけ海はあせなむ世なりとも君に二心わがあらめやも」
「1本のひだは、二心のない誠の道を示したもの」と本文にあるが、源実朝の歌にも「二心」の二文字が見える。短歌は31音なので、ここでは「ふたごころ」と読む。
           平成30年4月29日 記




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   竹刀の選び方
1 良質の竹は、寒竹の真竹で目が詰み、腰が強く、節高でないもの。
2 切先の穴が四角で歪んでいない、然(しか)も、虫食い、横裂等の疵がな
  いもの。
3 五節のもの。竹刀の五節は、五常(仁、義、礼、智、信)を説き、刃部の
  三つの節は、天、地、人を表すものといわれている。天の節は、5、6寸
  位にあたるのがバランスが良い。
4 重さは、古来から軽い竹刀は重く、重い竹刀は軽く使えといわれるが、自
  己の力に相応したものが良い。
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※剣道を志す者として、竹刀の「五節」と刀部の「三節」の表す意味についてしっかりと身に付けておきたい。案外、分かっているようで分かっていないことだ。また、竹刀の使い方についてはよく耳にするが、奥が深く哲学的である。
           平成30年4月28日 記




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      竹刀のはなし
 竹刀という文字は、日本書紀にも見られ、余程古い時代から使われていたようである。しかし、これは剣道の用具の竹刀とは全く違った別のもので、竹刀をアヲヒエと称え、臍の緒を切る用具であったといわれている。
 剣道の竹刀は、上泉伊勢守信綱が竹を16~32本位に細かく割ったものに皮の袋をかぶせた袋撓(ふくろしない)を創作し、慶長以前からシナエ、またはシナイという言葉で使用されていたようである。現在のような4枚の竹を結束した竹刀は、徳川中期頃、一刀流の中西忠蔵や直心影流の長沼四郎左右衛門等によって剣道防具と共に完成したといわれている。当時の竹刀の長さは、木刀や刃引と同じ位の長さ3尺2、3寸~6寸位が常寸であった。天保時代、柳川藩の大石進という剣客が、5尺余の竹刀を提げて全国各地の道場を破竹の勢を以て破り、ついに江戸の三傑(位は鏡心明智流の桃井春蔵、技は北辰一刀流の千葉周作、力は神道無念流の齊藤弥九郎)の一人千葉周作と剣を交え、大石5尺余の長竹刀に対して、千葉は四斗樽の蓋を鍔として、これに応じ、云々という全く滑稽な話がある。大石の出現で、以来、各剣客が挙(こぞ)って4尺~6尺の長竹刀使用が流行し、ついには遊技的な剣術になった。
 これを憂いて、時の講武所師範「男谷精一郎信友」は、講武所規則覚書に、「撓は柄共総長曲尺にて、3尺8寸より長きは不相成、云々」と決め、これが現在の竹刀の長さの基準となっているようである。
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※そのような事があったのかと、改めて知った。一つのことが決まるまでには、何事も紆余曲折はつきものだ。歴史的な背景を知るのも面白い。
           平成30年4月24日 記



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   一筋に打ち込むための身の処し方
 更に世阿弥は、語を継いで「好色、博奕(ばくえき)、大酒、三つの重戒、是れ古人の掟也」と、つまり飲む、打つ、買うは身を滅ぼすものと古来つたえられているわけです。何事にてもあれこの三重戒は、厳しく教えられるところです。特に激しい稽古に「摂制」が大切です。
 そして彼は、「稽古は強かれ、情識はなかれと也」と述べています。 稽古はあくまでも強くやれ!しかし自分勝手なやり方はだめだ!というわけです。「稽古に神変あり」という言葉がありますが、一事に熱心に打ち込み、稽古に稽古を重ねる結果、人間の能力以上と思われる高い境地に達することができるものと思います。しかし、自我流ではいけません。剣道ばかりでなく、日本の伝統芸道というものは、初めに「型」を習わせます。これは、法則や規範に随順した稽古の法が、確かに立派で速やかに上達するという古来の通念があります。また大森曹玄老師は、「心眼」の中で「現実の自己を否定するために一定の型を習わせます。そして完全に型にはまって無になった自己、古来伝統の型と一体となった自己を肯定する」と日本の伝統芸道にとって型稽古の大切さを説いています。
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※まず形から入る。これは理屈ではなく芸道の基本だ。何事も自己流では駄目である。これだという師に付き、しっかり基本を習うこと、それが上達の道だ。
         平成30年4月23日 記




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    一筋に打ち込む
 世阿弥は、『花伝書』の序で「此の道に至らん者は、非道を行(ぎょう)ずべからず」と即ち道を極めんとする者は、自分の志す道以外のことに、あれやこれやと心を移してはいけないというわけです。このことを、一刀流では、「無他心通(むたしんつう)」といい「他の事に心を置くことなく、一意誠心一刀流の学習に努めよ。他の事を何も考えず流祖以来伝わった一刀流の師の教えに熱中し、先人の域に達しようと精励して止まなければ、必ず立派にその目的が達せられる」と教えています。
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※一筋の道を歩む、ここに人間の美学がある。世事に惑わされることなく、常住坐臥、剣の道に精進しなければならない。斎藤茂吉の歌にも、「あかあかと一本の道とほりたり たまきはるわが命なりけり 」とある。
           平成30年4月22日 記




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     構えについて-心構え
 そこで剣道に於ける心構えを、先人の著述を繙(ひもと)きながら考えてみたいと思います。「夫剣術は敵を殺伐する事也。其殺伐の念書を驀直(まくじき)端的に敵心へ透徹するを以て最要とするぞ」これは近藤重蔵、間宮林蔵と共に「蝦夷の三蔵」と呼ばれた幕末の奇傑平山行蔵の「剣説」の劈頭(へきとう)の言葉です。
 即ち剣術とは生死を決し、勝敗を明める武道であって、そこには妥協など微塵もなく、ただ身を挺して打倒するだけである。と恐ろしいばかりの気魄をもって剣の道を説いています。 
(中略)
 剣道で良く「守、破、離」という修行の順序を教えられますが、私たち守(修練期)の段階にある者は、このような全力投球の姿勢が大切でしょう。勿論(むろん)いつまでもこのような心構えでいろ、といことではありませんが、宮本武蔵が好んで揮毫(きごう)したという白楽天の「江楼宴別」の一節「寒流帯月澄如鏡」といった何ものにもとらわれない澄んだ、しかも冴えた心境に到るには、張って、張って張り抜いた気構えを経なければ到底、行きつくことはできないでしょう。
 剣を志す諸兄、剣道の心構え、即日日常生活に直結するものと銘記し、日頃の稽古には大勇猛心をもって励んでいただきたい。
  驀直・・・脇目もふらずまっしぐらに行くこと
  劈頭・・・物事のいちばん初め。冒頭 
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※「冴えた心境に到るには、張って、張って張り抜いた気構えを経なければ到底、行きつくことはできない」、この気迫を実践したいものだ。
           平成30年4月18日 記




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    道場とは
 一般に「道場」というと、「武道」を修練するところと考えられがちですが、そもそも「道場」とは、元来仏道を修め、仏教を説くところで、寺院の別名であります。
 僧肇(そうじょう)の註語(ちゅうご)に「閑宴(かんえん)修道の処これを道場という」とあります。察するに中印度の鬱蒼(うっそう)たる樹陰で、仏教を修行したところをいったものと思われます。また、道場という文字は、維摩経菩薩品(ゆいまきょうぼさつほん)に「直心是道場」とあるのが最古のものとされており、道場という言葉が日本に伝わったのは、今から1300年前ごろで、仏儒の修行する場、すなわち法堂、講堂、僧堂の総称であったようです。
 室町時代になって、武芸が宗教の影響を受け、このころから武芸を修行するところを、道場と呼ぶようになりました。このころの道場は、庭、野原などに区画を設け、四方に注連縄(しめなわ)をめぐらした程度のもので(この注連縄が神棚の原形になっているようです)現在の建造物になったのは、徳川三代将軍家光のころといわれています。
 どこの道場にも必ず神棚が設けられており、天照皇大神を初めとして、香取明神、鹿島明神、また、流祖の武神を祭祀(さいし)してあります。道場の出入り、試合、稽古の前後ににも必ず神前に拝礼を行っているのは、いろいろな意味があることでしょうが、常に神の御前にあるという厳粛な気分をもつということもその一つで、神に恥じない公明正大な精神を失いたくないためです。また、古来の考え方からいえば剣道は神人合一の境地に到る修行であり、理想の具現たる神を目標として、自分を高めるよう心掛けたのではないでしょうか。
    僧肇・・・中国,東晋時代の僧
    維摩経菩薩品・・・維摩経の教典の一つ     
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※何事にも意味があり積み重ねた歴史がある。そして、今があることを忘れてはならない。歴史をたどり物事の本質を見極めることは、今の自分を考えるひとつの手立てだ。
          平成30年4月15日 記




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       剣道を志す人のために
 昔から剣道や柔道などの武道ばかりでなく、日本伝統の芸道では、練習のことを「稽古」と呼んでいます。この言葉の出所は、書経(しょきょう)の堯典に「曰く若(ここに)古の帝堯(ていぎょう)を稽(なら)ふ」とあることからです。そして、「稽」は“かんがえる”“くらべる”“はかる”等の意味があり、「稽古」というのは、「古道」に順(したが)い「古の道を考える」ということですが、室町時代になって、単に古の道を学習するということではなく、鍛錬・錬磨、即ち困難な道を克服して学習するという意味になり、更に人間的な修行という意味に変わってきたといわれています。つまり、「稽古」とは、心を正し、先人が心血を注いで築きあげた常道にのっとり、己を空しゅうしてこれを守り、一筋に習練しその真義を極めようといった意味が含まれているものと思います。
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※古人の意思と叡智を考えながら、しっかり「稽古」をしたい。この本は、昭和58年8月、警視庁剣道連盟会長 小沼宏至先生が、それまで記載したものをまとめ上梓(じょうし)したものである。約40年前、中野警察署で稽古をしていた時、小沼先生には稽古をいただいたことがある。陰りつつある遠き日のことだ。
           平成30年4月14日 記




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     「構え」について(身構え)
 剣道に於ける身構えとは、上体と頭、足の踏み方(姿勢)、刀の握り方及び呼吸等を包含し、然(しか)も機に臨み変に応じて素直に静から動へ移行できる体勢をいいますが、今回は剣道において基本ともいうべき姿勢に焦点を合わせて語りたいと思います。
(中略)
 剣道では、姿勢について厳しく教えられて又多くの文書が見られます。宮本武蔵の『五輪書』が一番詳しく述べているようですので、暫く、原文を眺めてみたいと思います。
 「一、兵法の身なりの事、身のなり、顔はうつむかず、あふのかず、かたむかず、ひずまず、目をみださず、顔にしわをよせず、眉間にしわをよせ、目の玉の動かざるやうにして、またたきせぬやうに思ひて、目を少しすくめる様にして、うらやかに見ゆる顔、鼻すじ直にして、すこしおとがひを出す心也。首はうしろのすぢを直に、うなじに力を入れて、肩より総身ひとしく覚え、両の肩さげ背すじを陸(まっすぐ)に、尻を出さず、ひざより足先まで力を入れて、腰のかがまざる様に腹をはり、くさびをしむると云ひて、脇差のさやに腹をもたせて、帯のくつろがざる様に、くさびをしむると云ふ教あり。総て兵法の身に於て、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり、能々(よくよく)吟味すべし」と至れり尽せりの解説です。これを読み乍(なが)らその通りの姿勢を調(ととの)えると、正しい兵法の身のかかりなるものはどういうものかが良くわかります。
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※「常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり」、かくありたいものだ。事に臨んで「常の身」ができれば、何事も成就するであろう。心の問題だ。
           平成30年4月13日 記