河東碧梧桐

     河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)

菜の花に汐さし上る小川かな
春寒し水田の上の根なし雲
強力(ごうりき)の清水濁して去りにけり
木枯らしや谷中の道を塔の下
から松は淋しき木なり赤蜻蛉
曳かれる牛が辻でずっと見回した秋空だ
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※正岡子規によって俳句に開眼した河東碧梧桐は、子規亡き後、高浜虚子と離れて独自の道を歩み出した。その道は、決して平坦ではなく、むしろ苦渋に満ちたものであったが、そこからおのずと「新傾向」の句が生まれてくる。碧梧桐の句は、やがて、自由自在に定型から脱皮していき、より自由に、より対象に迫り、研ぎ澄まされた実感を求めていくことになる。それは、虚子と対極をなすものであった。
 碧梧桐の芸術家としての厳しい姿勢は、他人に対しても遠慮会釈がなかったという。その作品批評の辛辣さには定評があった。ある人が、初めて碧梧桐を自宅に招いて句会を開いた。迎えの車から銘酒や御馳走に至るまで、碧梧桐の俳句の指導に対して歓待のかぎりを尽くした。面前で何とか褒めてもらいたいとの一心からである。しかし、結果は、案に相違した。「こんなものは、詩でもなく俳句でもない、どうしてこんな下らないものを作るのか、とても見込みはないから、俳句など止めてしまえ。」と罵倒に近い批評をしたのである。その人は、情けないないやら恥ずかしいやら、ただ平身低頭するばかりであったという。こんなふうであったから、俳句を志す人が、碧梧桐のもとから離反していくことになる。反面、是を是とし非を非とする男らしい態度に、惚れ込んで精進を続ける俳人も多くいた。その厳しさは、自分にも向けられ還暦祝賀会の席上で「優退の辞」を発表し、俳壇引退の挨拶をすることになる。自らの処し方も潔かった。
  晩節を汚して、権力に固執する者が多い昨今、その生き方は、なんと清々しいことか。「四時の序、功を成す者は去る。」(『史記』司馬遷)とあるように、最後はかくありたいものだ。      
          平成27年4月11日 記