鴨長明

     『方丈記 (元暦の大地震)
               鴨長明      

 また、同じころかとよ。おびただしき大地震(おおなゐ)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。都の邊(ほとり)には、在々所々、堂舍塔廟(どうしゃとうびょう)、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛りなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽(たちま)ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲に乗らむ。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震(なゐ)なりけりとこそ覺え侍りしか。
 其の中に、或る武者のひとり子の六つ七つばかりに侍りしが、築地(ついぢ)のおほひの下に、小家を作りて、はかなげなるあとなしごとをして、遊び侍りしが、俄かにくづれ、埋められて、跡かたなく、平にうちひさがれて、二つの目など一寸ばかりづつうち出だされたるを、父母かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、哀れに、かなしく見侍りしか。子の悲しみには、猛きものも恥を忘れけりと覚えて、いとほしくことわりかなとぞ見侍りし。
 かくおびただしくふる事は、暫(しば)しにて、止みにしかども、その餘波(なごり)しばしは絶えず。世の常、驚くほどの地震、ニ・三十度ふらぬ日はなし。十日・二十日過ぎにしかば、やうやう間遠(まどう)になりて、或は四・五度、ニ・三度、もしは一日交ぜ(ひとひまぜ)、ニ・三日に一度など、大方その餘波、三月許りや侍りけむ。
 四大種(しだいしゅ)のなかに、水・火・風は常に害をなせど、大地に至りては異なる変をなさず。昔、斉衡(さいかう)のころとか、大地震ふりて、東大寺の仏の御首(みくし)落ちなど、いみじきことども侍りけれど、なほこの度(たび)にはしかずとぞ。すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて云ひ出づる人だになし。 

  【口語訳】
 また、元暦2年(1185年)激しい大地震があった。その様子は、普通のものではない。津波により山は崩れて川を埋め尽くし、海は傾いて陸地を水浸しに した。地面は裂けて水を吹きだし、岩は割れて谷まで転がり込んでいる。渚の船は波間に漂い、道行く馬は足元が定まらない。都の内外では、至る所一切の建物が壊れてしまている。ある建物は崩れあるものは倒れてしまっていた。塵埃(じんあい)が立ち上り、まるでもうもうとした煙のようである。地面の動き、家の壊れる音、雷と違わなかった。家の中にいたらたちまち押しつぶされそうになる。外に走り出したら地面は割れ裂けていく。羽がないので、空を飛ぶこともできない。もし、龍であったなら雲にも乗れるのにそれもできない。もっとも恐ろしいのは、実に地震であったかと思った。
 そんな惨状の中に、ある武士のたった一人の子で、六~七才ぐらいの子が、土塀の瓦葺きの屋根の下を家に見立てて、たあいもない遊びをしていたのが、いきなり崩落して下敷きになり、跡形もないほど押しつぶされて、眼球が両方とも眼窩(がんか)から大きく押し出されてしまった無惨な姿を、その父と母が抱きかかえて声を惜しまず悲しみ合っていた様子を見て、かわいそうに、と同情させられる場面があった。 我が子の悲しみの前には、勇猛果敢な武士と言えども、人目を恥じることもなくなるものと見えて、気の毒に、無理もないことだと思ったものだ。
 このように激しく震動することはちょつとの間でやんだけれど、その余震は、しばらく収まらなかった。普通でも驚くほどの地震が、日に20回から30回もあった。10日から20日過ぎになると、次第に間遠くなり、一日に4回から5回に、2回から3回に、あるいは1日おきに、2日3日に一度というようになった、そのようなことが3ケ月ばかり 四大種(地・水・火・風)の中で、水と火と風は常に害をなすものだが、大地の場合はふつうには異変を起こさない。昔、斉衡のころとかに、大地震が起きて、東大寺の大仏のお首が落ちたりして大変だったらしいが、それでもやはり今度の地震には及ばないとか。その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。
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※今日3月11日は、平成23年3月11日の東日本大震災から9年目を迎えた。平成29年の熊本地震、平成30年の西日本の豪雨と北海道の地震、想像を絶するような猛暑、そして昨年の台風などによる洪水の被害。もはや、日本のどの地域でも大災害が起きると言っても過言ではない。「平成」という時代は、「平らかに成る」だったはずなのに、「大災害」ばかりが記憶に残ることになった。昨年の台風の被害が「令和」の先駆けにならないことを望むばかりである。
 1185年(元暦2年)の大地震(京都で起きた地震)が、『方丈記』にも記録されている。ちょうど鎌倉幕府成立の年になる。大地震の様子は、現在の大災害と何ら変わることがない。改めて自然災害の恐ろしさを感ずる。しかし、「すなはちは、人皆あぢきなきことを述べて、いささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて云ひ出づる人だになし。」とあるように繰り返しあったであろう大地震も、時が経つと人々の記憶から忘れ去られていく。悲惨な状況を経験した人たちが伝承することが出来るのは、三代(本人・子・孫)までだと言われている。
 以前NHKで宮城県気仙沼の高台にある「これより下に家を作るべからず」との石碑を紹介していたが、それよりも遙か下に民家が密集し、東日本大震災ですべてが飲み込まれ多くの人が亡くなった。深く文字が刻まれた碑(いしぶみ)は、禍根を断つための物であったろうに、それを忘れ去ろうとする人間の浅ましさも見て取れる。また、今回の地震でも液状化による被害が多く出た。本来開発してはならない場所(かつて沼や谷だった所)だったかもしれない。被害者の精神的、物理的な衝撃は想像してあまりある。
 大きな災害を「想定外」などと言っている場合ではない。その悲惨さをしっかり心に刻み、過去の叡智を忘れず、新たな対策を模索する必要がある。
 
 ※鎌倉幕府の成立について(1192年から変更になっているのでご注意を)
 1185年、平氏の滅亡後、頼朝の権力の強大化を恐れた法皇が義経に頼朝追討を命じると、頼朝は軍勢を京都におくって法皇にせまり、諸国に守護を、荘園や公領には地頭を任命する権利や1段(いったん)当り5升の兵粮米(ひょうろうまい)を徴収する権利、さらに諸国の国衙(こくが)の実権を握る在庁官人を支配する権利を獲得した。こうして東国を中心にした頼朝の支配権は、西国も及ぶこととなり、武家政権としての鎌倉幕府が成立した。  
 『詳説 日本史B』(山川出版社)
          令和2年3月11日 記



      『 発心集(ほっしんしゅう)』
                          鴨長明

 ある山寺に、徳高く聞こゆる聖ありけり。年ごろ、堂を建て、仏造り、さまざまな功徳を営み、尊く行ひけるが、終わり目出たくてありければ、弟子も辺りの人も、疑ひなき往生人と信じて過ぎけるに程に、ある人にかの聖の霊付きて、心得ぬさまのことども言ふ。
 聞けば、早、天狗になりたりけり。弟子ども主思ひの外なる心地して、いみじく口惜しく思へども力なく覚束なきことなど問ひければ、不思議のことども言ふ中に、「わが在世の間、深く名聞に住して、無き徳を称じて、人を誑かして作りし仏なれば、かかる身となりて後は、この寺を人の拝み尊ぶ日に、我が苦患まさるなり」とこそ言ひけれ。
 いみじき功徳を作るとも、心調はずは、甲斐なかるべし。「今のことなれば、名は確かなれど、殊更顕さず」とぞ、ある人語り侍りし。

【口語訳】
 ある山寺に、徳が高いといわれる僧がいた。長い間、お堂を建てたり、仏像を作ったり、様々な功徳を積んで、尊く勤行したところ、臨終の様子が立派だったので、弟子も近くの人々も、疑いなく極楽往生した人だと信じて日々を過ごしていると、ある人にその聖人の霊がとりついて、腑に落ちないことを言っているという。
 聞けば、もう天狗になってしまったという。弟子たちは、師が意外なことになったという気がして、たいそう残念に思ったが仕方なく、不審な点などを(聖人の霊に)尋ねたところ、不思議なことを言う中に、「わたしが生きていた間、強く名声を求めて、無い徳をあるように称して、人をだまして作った仏像なので、このような身の上になってしまっては、この寺を人が拝んで尊ぶたびに、わたしの苦しみが増えるのだ」と言った。
 たいそうな徳を積んだといっても、それに心が伴っていなければ甲斐のないことだ。「最近のことなので、その聖人の名前も知っているが、あえて明らかにしない」とある人が語った。
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※ 鎌倉時代に成立した仏教説話集。僧の発心の由来や極楽を願う往生譚(おうじょうたん)などを収録したもの。仏教的色彩が濃く、当時の人々の真の姿が描かれている。天狗は妖怪の一つで、驕慢(きょうまん)の僧などが死後これになると空想されていた。
 何事も心が備わっていないと、何の役にも立たない。だからこそ、剣道も人間形成を最終目標にしているのであろう。
         平成30年8月29日 記



           『方丈記 (わが生涯)』
                        鴨長明

 我が身、父方の祖母の家を傳へて、久しく彼(か)の處に住む。その後、縁かけて、身おとろへ、しのぶ方々しげかりしかど、遂に跡とむることを得ず。三十(みそじ)餘りにして、更に我が心と一つの庵を結ぶ。
 これをありしすまひにならぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまへて、はかばかしく屋をつくるに及ばず。わづかに築地をつけりといへども、門たつるたづきなし。竹を柱として、車をやどせり。雪ふり風吹くごとに、危うからずしもあらず。處、河原近ければ、水の難も深く、白波の恐れもさわがし。
 すべて、あられぬ世を念じ過しつゝ、心をなやませること、三十餘年なり。その間、折々のたがひめに、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十(いそじ)の春をむかへて家を出で、世をそむけり。もとより、妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官祿あらず。何につけてか、執をとどめむ。空しく大原山の雲に伏して、また五かへりの春秋をなん經にける。

【口語訳】
 わたし自身は、父方の祖母の家を受け継いで、しばらくはそこに住んでいた。その後、血縁が切れて、立場が悪くなり思い出の多い家ではあったが、ついに屋敷をとどめることは適わず、三十歳(みそじ)あまりになって、自分の判断で一つの庵を得ることとなった。 これは、かつての屋敷に比べると、十分が一に過ぎない。ただ、寝起きする建物だけを作って、はなばなしく別棟を作るまでには至らなかった。わづかに築地(ついじ)を築くとは言っても、立派な門を立てる手段はない。竹を柱として車宿りを作った。雪が降り、風が吹くくらいでも、危険がないわけではなかった。場所は賀茂の河原に近いので、水の難も深刻で、盗賊の恐れさえあった。
 おおよそ、住みにくい世の中だと堪えしのぎながら、心を悩ませること、三十年あまり。そのあいだ、折々に出会う不本意に、自らの不運を悟った。そうしてついに、五十歳(いそじ)の春を迎えたとき、出家して遁世した。もともと妻子もなければ、捨てられない身寄りなどいない。この身には官禄(かんろく)さえないのだ、何に対して執着を留めようか。ただいたずらに、大原山の雲に隠れるように暮らすうち、5年の歳月が経った。
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※ 自分の人生に対する恨みつらみを書き綴っている。遁世するのは本意ではないが、そうせざる得ないとする鴨長明の気持ちがよく分かる。「ああ」なんてため息が漏れてきそうで、実に人間的である。
          平成27年1月20日 記



           『方丈記 (方丈の庵)』
                    鴨長明

 おほかた、此の所に住み始めし時は、あからさまとおもひしかども、今すでに、五年(いつとせ)を經たり。假の庵も、やゝふるさととなりて、軒には朽葉(くちば)ふかく、土居(つちい)には苔むせり。おのづから、事の便りに、都を聞けば、この山にこもり居て後、やんごとなき人のかくれ給へるも、あまた聞ゆ。まして、その數ならぬたぐひ、盡してこれを知るべからず。たびたびの炎上にほろびたる家、またいくそばくぞ。たゞ假の庵のみ、のどけくして恐れなし。程(ほど)狹しといへども、夜 臥(ふ)す床(ゆか)あり、昼居(い)る座あり。一身をやどすに不足なし。寄居虫(かむな)は、小さき貝をこのむ。これ事知るによりてなり。みさごは、荒磯に居る。すなはち、人を恐るゝが故なり。我またかくの如し。身を知り、世を知れれば、願はず、わしらず。たゞ靜かなるを望みとし、愁へなきを樂しみとす。

【口語訳】
 おおよそ、このところに住み始めた時は、しばらくの間と思っていたが、今すでに五年あまりを過ごした。仮の庵(いおり)も、次第にややふるさとのようになって、軒には朽ち葉が深く積もり、家の土台には苔がむしている。たまたま、事のついでに都の噂を聞くと、この山に籠もってからのち、高貴な方々の亡くなられた話も、ずいぶん聞こえてくる。まして数え切れないほどの都人について、すべてを知り尽くすことなど出来ようか。たびたびの炎上(えんしょう)に焼け滅んだ家々は、どれほどにのぼるか分からない。ただ、この仮の庵だけが、のどかで恐れもない。家のほどは狭いと言っても、夜に寝るだけの床がある。昼に坐るだけの場所がある。この身を宿らせるのに不足はない。ヤドカリは、小さな貝を好む。それは、変事ある時の危険を知るからである。みさごは荒磯に住んでいる。それは人を恐れるからである。わたしの思いもそれに同じ。この身を宿らせるべき庵のことを知り、世の無常を知っているので、身の上を願うこともなく、あくせくすることもない。ただ静かであることを望みとして、憂いのないことを楽しみとするばかりである
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※ 「知足」こそ、心の安寧を確保するただ一つの方法である。それができないことにより、数々の軋轢を生む。徳川光圀が、「聲色飲食(せいしょくいんし)其の美を好まず弟宅器物(ていたくきぶつ)其の奇を要せず、有れば則ち有るに随つて樂胥(らくしょ)し、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり」と言っているが、蓋し名言である。
 松尾芭蕉が、故郷を後にして江戸に出て10年、常に故郷を忘れなかった。帰郷しなければならないことがあり、いざ出立という時、今の自分の故郷は江戸であると確認する俳句が、「秋十年(ととせ)かえって江戸を指す故郷」である。鴨長明も5年の歳月により、仮の宿が「ふるさと」になったきたのであろう。
          平成27年1月18日 記



        『方丈記(それ三界は)』
                         鴨長明

  それ三界は、たゞ心一つなり。心もし安からずば、象馬七珍(ぞうめしっちん)も由(よし)なく、宮殿・樓閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵、みづからこれを愛す。おのづから都に出でて、身の乞がいとなれることを恥づといへども、帰りてこゝに居る時は、他の俗塵(ぞくじん)に馳(は)する事をあはれむ。もし人、このいへることを疑はば、魚と鳥との有様(ありさま)を見よ。魚は水に飽かず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば、その心を知らず。閑居(かんきょ)の氣味もまた同じ。住まずして、誰か悟(さと)らん。
   
【口語訳】
  そもそも、世界(生死流転する欲界・色界・無色界)は、ただ心の持ち方一つである。心がもし穏やかでないならば、象や馬、珍しい宝物も無益であり、宮殿や楼閣も欲しいとは思わない。いまひっそりとした住居、一間だけの庵、自分はこれを大切にしている。たまに都に出で、乞食のようになつていることを恥ずかしいと思うけれども、帰ってここにいる時は、他人が、俗世間のことに心を奪われているのを気の毒に思う。
 もし、人がこの言葉を疑うならば、魚と鳥の様子を見なさい。魚は、水に飽きることがない。魚でなければ、その気持ちは分からない。鳥は、林に住むことを願う。鳥でなければ、その気持ちは分からない。 閑居の生活もまた同じである。誰が理解できようか。
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※ この段は、底本にはなく、兼良本によって補われている。後人の増補という説と別案を後に挿入したとの説と二通りある。いずれにしても、格調が高く渾身の作であることに疑う余地はない。
 ただ、「乞食のように・・・」という言葉に、世を捨てきれない鴨長明の心の有り様が透けて見えてくる。人生の軌跡は、実に複雑である。紆余曲折の帰結なのかもしれない。一筋縄でいかないのが人間なのであろう。人間としての業を残しつつ、方丈の庵に身を沈潜した感懐を思えば、親しみも一段と湧くから不思議なものである。
          平成27年1月16日 記



         『方丈記(ゆく河の流れ)』
                             鴨長明

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)しなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
 たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き、卑しき、人のすまひは、世々経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家(おおいえ)滅びて小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水のあわにぞ似たりける。 
 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりていづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その、あるじとすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるいは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいは花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。

 【口語訳】
 流れ行く河の水は絶えることがなくて、それでいてもとの水ではない。よどみに浮かぶ泡は一方では消えて他方では生じて、長い間とどまっている例はない。世の中に生きている人とその住まいとは、またこのようである。
 玉を敷き詰めたように美しい都の中に、屋根を並べ建物の高さを競っている身分の高い人、低い人の住まいは、年月を経ても変わらないようであるが、これを本当かと調べてみると、昔あった家はまれである。あるものは、去年焼けて新たに今年作っている。あるものは、大きな家が没落して小さな家となっている。住む人もこれと同じである。場所も変わらず人も多いが、以前から見知っていた人は二、三十人の中にわずかに一人二人である。朝死ぬ人があるかと思うと、夕方には別の人が生まれるというこの世の姿は、まったく水の泡に似ている。
 私は、分からない、生まれる人死ぬ人はどこから来てどこへ去っていくのか。また、分からない、仮の宿を誰のために苦心して作り、どうして目を楽しませようとするのか。その主人と住まいとが、無常の運命を争うように滅び去っていく様は、いわば朝顔とその花に付いている露に異ならない。あるときは露が落ちて、花が残っている。残っているといっても、朝日によって枯れてしまう。あるときは花が先にしぼんで、露がそれでもなお消えずに残っている。消えないといっても夕方まで待つことはない。
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※ 枕草子の成立は1001年の頃、方丈記は1212年、徒然草は1331年頃となっている。枕草子は平安時代、方丈記と徒然草は鎌倉時代である。それぞれの作品には間隔はあるが、時代の人間模様や作者の人生観が忖度でき面白い。時代の風雪に耐えたものは価値がある。
 上記は、冒頭の部分であるが、それと並び称される作品に『平家物語』『奥の細道』が挙げられる。いずれも日本文学史上まれに見る名文である。
         平成27年1月15日 記



        『方丈記」(方丈の庵)』
                        鴨長明 

  こゝに、六十(むそじ)の露消えがたに及びて、更に末葉(すゑは)のやどりを結べる事あり。いはば、旅人の一夜の宿りを作り、老いたる蚕の繭を營むがごとし。これを中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また、百分が一に及ばず。とかく云いふほどに、齡(よはひ)は歳歳(としどし)に高く、栖は折々にせばし。その家のありさま、世の常にも似ず。広さは僅に方丈、高さは七尺が内なり。
 所をおもひ定めざるが故に、地を占めて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、継目ごとにかけがねをかけたり。もし、心にかなはぬことあらば、やすく外に移さむがためなり。その改め作ること、いくばくのわづらひかある。積むところ、わづかに二両、車の力をむくふ外には、更に他の用途いらず。

【口語訳】
 さて、六十歳の露のようにはかなく命が消えようとするころになって、新たに晩年を過ごす住まいを構えることとなった。たとえて言うなら、旅人が一晩の宿を作り、老いた蚕が繭をつくるようなものだ。この庵は、壮年のころの住まいに比べると、百分の一にも及ばない。あれこれ言っているうちに、歳を一年一年重ね、住まいは転居のたびにだんだん狭くなる。新たに作ったその家のようすは、世間一般のものとは少しも似ていない。広さはやっと一丈四方で、高さは七尺にも満たない。
 場所がどこでないといけないとは決めないので、土地を所有して作りはしない。土台を組み、簡単な屋根を葺いて、材木の継ぎ目継ぎ目に掛け金を掛けてある。もし気に入らないことがあれば、容易に他の場所へ移そうとするためだ。その建物の建て直しに、どれほどの手数がかかろうか。車に積んでもたった二台に過ぎず、車の手間賃のほかには、少しも費用がかからない。    
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※人間本来無一物、鴨長明が書き記すように、晩年は身軽になるに越したことはない。そのためにも身の回りを整理することだ。

                平成27年1月13日 記



        『方丈記 (養和の飢饉)』
                     鴨長明 

     
 また養和のころとか、久しくなりて覺えず、二年(ふたとせ)が間、世の中飢渇(けかつ)して、あさましきこと侍りき。或は春・夏日でり、或は秋、大風、洪水などよからぬ事どもうちつゞきて、五穀ことごとくならず。むなしく、春かへし、夏植うるいとなみありて、秋刈り冬收むるぞめきはなし。
 これによりて、國々の民、或は地を棄てて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行はるれども、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけてもみなもとは田舍をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操も作りあへん。念じわびつつ、さまざまの財物(たからもの)、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人もなし。たまたま換ふるものは、金(こがね)を軽くし、粟を重くす。乞食(こつじき)道のほとりに多く、うれへ悲しむ聲耳に満てり。
 前(さき)の年、かくの如くかろうじて暮れぬ。明くる年は立ちなほるべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘(えきれい)うちそひて、まさまさに、あとかたなし。
 世人みな飢(け)ゑ死ぬれば、日を經つつきはまり行くさま、少水の魚のたとへに叶へり。

【口語訳】
 また、養和(ようわ)[1181年-1182年]の頃だろうか、遠い時代なので覚えていない。二年ものあいだ、世のなかは飢饉(ききん)に見舞われ、筆舌に尽くしがたい有り様となった。あるいは春や夏にひでり、あるいは秋には台風や洪水など、良くないことばかりうち続いて、五穀はことごとく実らなかった。ただむなしく、春に耕し、夏に植える営みだけがあって、秋に刈り取り、冬に穀物を治める時のあのにぎわいはなかったのである。
 これによって国々の民、あるいは土地を捨てて国境を逃れ、あるいは家を忘れたように、山に住み始める。さまざまな祈りの行事も行われ、並々ならない修法(しゅほう)さえ行われたが、まるでその効果は得られなかった。京人の日常は、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま物々交換に応じる者は、黄金の価値を軽く見積もり、穀物の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、耳に響き渡った。
 前の年、このようにして辛うじて暮れていった。次の年は立ち直るべきだと思っていると、飢饉のうえに疫癘(えきれい)まで加わって、人の営みなど跡形もなくなってしまった。世の人はみな飢えてゆくので、日ごとに生活の極まっていくさま、小水(しょうすい)にあえぐ魚のたとえにさえ思えてくる。
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※今、私たちは多くの物に囲まれて豊かな暮らしをしている。しかし、過去を見てみると、悲惨な事実も多くあった。この暮らしが、未来永劫続くと思ったら大きな勘違いかもしれない。戦後(敗戦という人もいる)70年、平和で安定した生活をしているのは、この時代だけではないのか。

                  平成27年1月8日 記