梅里先生碑文

        梅里(ばいり)先生碑陰ならびに銘
                徳川光圀
         

  先生は常州(つねしゅう)水戸の産なり、其の伯(はく)は疾(や)み其の仲(ちゅう)は夭(よう)す。先生、夙夜膝下(しゅくやしっか)に陪(ばい)して戰戰兢兢(せんせんきょうきょう)たり。其の人と為りや物に滯らず事に著せず。神儒を尊んで神儒を駁(ばく)し佛老を崇(あが)めて佛老を排す。常に賓客(ひんきゃく)を喜び殆んど門に市(いち)す。暇(いとま)有る毎に書を読む、必ずしも解することを求めず歓びて歓びを歓びとせず、憂ひて憂ひを憂ひとせず。月の夕(ゆうべ)花の朝(あした)酒を斟(く)みて意に適すれば、詩を吟じ情を放(ほしいまま)にす。聲色飲食(せいしょくいんし)其の美を好まず弟宅器物(ていたくきぶつ)其の奇を要せず、有れば則ち有るに随つて樂胥(らくしょ)し、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり。蚤(はや)くより史を編(あ)むに志有り、然れども書の徴(ちょう)とすべきは罕(まれ)なり、爰(ここ)に搜(さぐ)り爰に購(あがな)ひ之を求めて之を得たり。微(すこ)しく遴(えら)むに稗官(はいかん)小説を以てし、實を摭(ひろ)ひ疑を闕(か)き皇統を正閏(せいじゅん)し人臣を是非し、輯(あつ)めて一家の言(げん)を成す、元禄庚午(げんろくこうじん)の冬、累(しき)りに骸骨(がいこつ)を乞ふて致仕(ちし)す。初め兄の子を養ふて嗣(し)と為し、遂に之を立てて以て封(ふう)を襲(つ)がしむ。先生の宿志(しゅくし)是に於てか足れり。既にして郷に還り、即日攸(ところ)を瑞龍山(ずいりゅうさん)先塋(せんえい)の側(かたわら)に相し、歴任の衣冠魚帯(いかんぎょたい)を瘞(うづ)め載(すなは)ち封じ載ち碑(ひ)し自ら題して梅里先生の墓と曰ふ。先生の霊永く此に在り。嗚呼骨肉は天命終る所の處(ところ)に委せ、水には則ち魚鼈(ぎょべつ)に施し山には則ち禽獣(きんじゅう)に飽かしめん。何(なん)ぞ劉伶(りゅうれい)の鍤(すき)を用ひんや。其の銘に曰ふ月は瑞龍の雲に隠ると雖(いえ)ども光は暫く西山の峯に留まる
 碑を建て銘を勒(ろく)する者は誰ぞ  源の光圀字(あざな)は子龍(しりょう)

【大意】
 私は、常陸の国水戸に生まれた。兄徳川頼重は故あって家臣の家に生まれ10余年間日陰の状態にあり、仲兄亀麿は早世した。私は、朝早くから夜遅くまで父母の膝下に付き従って、畏れ慎む気持ち(兄を越えて水戸家を継いだことの後ろめたさ)で努力してきた。ものに拘泥せず、ことに執着しない性格であった。神道、儒教、仏教、老子の尊ぶべきところは尊重し、捨てるべきところは顧みなかった。常に来客を喜び、多くの人が出入りした。時間があれば、書物を読み必ず理解することを欲しなかった。歓びや憂いも決して度を越すことはなかった。月や花を愛で、酒を酌んで心情を詩に表した。音楽、女色、飲物、食物の欲望はなく、家や器物にも執着しなかった。有れば有ったで楽しみ、なければないで不平を言わなかった。若い時から歴史を編纂する志があった。しかし、参考とする書物はあまりなかった。あちらこちらで探し求め購入し、民間の物語などを集めた古代の書物も詳細に比較して選択した。正しい事実を拾い取り疑わしいものを捨て去って、当時の史書に誤り伝えられている天皇の系統を正しく直し、過去の忠臣や婦人などについての誤謬を訂正するなどして大日本史編纂を行った。元禄3年(1690年)冬、官職の辞職を乞い願い辞職した。兄頼重(讃岐高松藩初代藩主)の子、綱条(つなえだ)を世子に立てた。そして、綱条に水戸藩を襲封させた。私の長い間の宿願が叶ったのである。郷里に帰り、瑞龍山にある先祖の墓の傍に、在任中使用した衣服や魚帯(唐時代に木または銅で魚の形に作り常に携えて官吏の身分を証したもの)を埋め封じ碑(いしぶみ)を建て、自ら題した「梅里先生墓」と刻させた。私の霊魂は永くここに止まるのである。人の命は、いつ尽き果てるとも知らない、水中で死ねば魚や亀に施し、山中で死ねば鳥や獣の腹を満たしてやろう。どうして、劉伶の鍤を用いる必要が有ろうか。銘して曰う、「月が瑞龍山の雲間に隠れても、光はしばらくの間、西山の峰にとどまるであろう。この碑を建て銘を刻させた者は源光圀、字は子龍である」と。
--------------------------------------------------------------------------------
※ ※『梅里先生碑陰ならびに銘』は、徳川光圀(水戸黄門)の一生を綴ったもので石碑になっている。光圀は、水戸家の初代徳川頼房(徳川家康の11子)の三男と生まれたが、その出生は数奇な運命に彩られている。頼房は正夫人をもたず、光圀は側室の子であった。頼房は、懐妊を知ると家老三木之次(ゆきつぐ)に「水にせよ」と命じたが、之次は密かに自分の子として5歳まで愛育した。その後、兄徳川頼重を越えて、水戸家の第二代当主になる。後年、光圀は之次の屋敷を訪れて「朽ち残る老木の梅もこの宿に春に再び会ふぞうれしき」と詠み、昔を懐かしんだ。光圀は、『大日本史』編纂(完成は明治時代になってから、水戸家はこの編纂に莫大な資金を費やした)により水戸学の基礎を築くなど多くの功績を残した。その人となりは、この文章に集約されている。
 「何ぞ劉伶(りゅうれい)の鍤(すき)を用ひんや。」という一文が心に迫る。劉怜は家来に鍤を持たせて、死んだらそれで穴を掘り埋葬しなさいと命じていた。しかし、光圀は、そのようなことは必要ない、死んだら魚に獣に与えよと言っている。また、「有れば則ち有るに随つて樂胥し、無ければ則ち無きに任せて晏如たり。」と、あれば楽しみ無ければ無いこともよしとしている。権力にしがみついて晩節を汚すのが人間の常なのに、物事に執着しない生き方に共感を覚える。まさに、人生の指針となるべき名文である。
 京都龍安寺にある「つくばい」は、光圀が寄贈したとされていて、その思想をよく表している。「つくばい」は、「吾(われ)唯(ただ)足(たる)を知る」と読める。光圀が晩年を過ごした常陸太田市の「西山荘」にも足を運び、その人となりを偲んでもらいたい。
 今回の掲載で3度目となる。人生の指針となる文章は何度でも掲載していくつもりだ。
          平成29年8月9日  記