岳陽樓記   

          岳陽樓記(がくようろうき)
                 范仲淹(はんちゅうえん)

 嗟夫(ああ)、予(よ)嘗(かつ)て古の仁人の心を求むるに、或は二者の爲(しわざ)に異なるは何ぞや。物を以て喜ばず、己を以て悲しまず。
 廟堂(びょうどう)の高きに居りては、則ち其の民を憂ひ、江湖(こうこ)の遠きに処りては、則ち其の君を憂ふ。是進むも亦憂ひ、退くも亦た憂ふるなり。然らば、則ち何れの時にして樂しまんや。其れ必ず、天下の憂ひに先んじて憂ひ、天下の樂に後れて樂しむと曰(い)はんか。噫、斯(そ)人微(な)かりせば、吾誰にか歸せんや。    

【口語訳】
 ああ、私はかつて古代の仁者の心を探り求めた。岳陽樓から見たもの悲しい光景を好む者と春の穏やかな景色を楽しむ者と二者が異なるように、古の仁者と現在の人が異なるのはなぜだろうか。仁者は、外からの影響では喜ばず、己のことで悲しまないからである。 
 高い位にある時は国や民衆を思い、官位を離れた時は君主の政治を考える。つまり政治の中心にいても民間にいても、国や民衆を考えているのが為政者である。とすれば、為政者は、いつ楽しむのだろか。必ず「天下の人の憂いに先立って憂い、天下の人の楽しみに後(おく)れて楽しむ」と言うであろう。このような為政者がいなければ、私は、いった誰に従えばよいのか。
 
---------------------------------------------------------------------
※ 范仲淹の「岳陽樓記」は、いわゆる「先憂後楽(せんゆうこうらく)」の、政治家としての守るべき態度を述べた文章としてよく知られている。水戸徳川家江戸上屋敷内の庭園「後楽園」(東京ドームの側にある。以前の後楽園球場も之による。)の名も、この文章から光圀(水戸黄門)が命名したものである。この庭園は、初代藩主頼房(徳川家康の11男子)が、1629年に造営に着手し、2代光圀の代に完成した。「後楽園」を「小石川後楽園」という名前にしたのは、1923(大正12)年のことで、岡山の後楽園と区別するためであった。
 「天下の憂ひに先んじて憂ひ、天下の樂に後れて樂しむ」という政治理念が確立している政治家に国の政をしてもらいたい。己の保身ばかり考えている政治家が、なんと多いことか。我々が誠の政治家を選出しなければ、国家の存亡に関わる。
           平成29年8月7日 記