榎本(宝井)其角

        榎本(宝井)其角

   鐘ひとつ売れぬ日はなし江戸の春
   ところうり声大原の里びたり
   傀儡師(かいらいし)阿波の鳴門と小歌かな
   本町やむかひあはせて店おろし
   白魚をふるひ寄せたる四つ手かな
   渡し舟武士は唯のる彼岸哉
   麦飯や母にたかせて仏生会
   饅頭で人をたづねよ山ざくら
   涼しさや帆に船頭のちらしがみ
   身にからむ単(ひとえ)羽織もうき世哉
   夕すずみよくぞ男に生れけり
   松原に田舎祭や昼休み
   かたつぶり酒の肴に這はせけり
   名月や畳の上に松の影
   あれきけと時雨来る夜の鐘の声
   霜の鶴土にふとんも被(かぶ)されず
-------------------------------------------------------------------------------
※ 元禄15年(1703年)12月14日、赤穂浪士が吉良上野介邸に討ち入った。その一人大高源吾と出会った其角は、はなむけに「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるる その宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたと伝説的な逸話が残る。作風は平易であるが奥が深い。「夕すずみよくぞ男に生れけり」実にいい。
 今日の讀賣新聞に、「霜の鶴土にふとんも被(かぶ)されず」が掲載されている。これは、娘を亡くした其角の悲しみを詠ったとする。新潟で起きた小学二年生殺害の事件は残虐極まりない。突然平穏な日常を奪われた家族の悲しみは、いかばかりであろうか。其角の俳句が表すように、時代は変わろうと親の気持ちは変わらないはずだ。悲しい事件が繰り返される。
  『ウィキペディア』より
 浪士のうち赤穂(播磨国赤穂郡)出身者は大石良雄を含めて半数程度で、次いで多いのが常陸国の真壁(真壁郡)や笠間(茨城郡)の出身者である。赤穂浅野氏の家臣団の中心は、正保2年(1645年)に浅野長直(長矩の祖父)が赤穂に転封される以前の真壁藩・笠間藩時代に形成されているためである。吉田兼亮(吉田忠衛門)・小野寺秀和(小野寺十内)・堀部金丸(堀部弥兵衛)など高齢者の浪士はここの生まれが多い。そのため同地には現在も浪士の出身家系の旧家が残り、浪士の遺品も多く伝わっている。
          平成30年5月16日 記