有島武郎

         「小さき者へ」
               有島武郎

 お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日に死が殺到した。死が総てを圧倒した。そして死が総てを救った。
 お前たちの母親の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。もしこの書き物を読む時があったら、同時に母親の遺書も読んでみるがいい。母親は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を翻さなかった。それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。またお前たちを見ることによって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くすることを恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残すことを恐れたのだ。幼児に死を知らせることは無益であるばかりでなく有害だ。葬式の時は、女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。そうお前たちの母上は書いている。
「子を思う親の心は日の光世を照る大きさに似て」
とも詠じている。
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※ 妻を失って三人の子どもを抱えた作家のある夜の感想が、惻々と述べられている。肺結核に罹患し、子どもへの伝染を恐れた母親は、会わないと決心する。それが、どれほどの苦痛と苦悩を伴うものであったことか。慟哭と子どもへの愛情が切ないほどに伝わってくる作品だ。子どもを虐待して、死に至らしめる鬼畜のような親とは対極にある。愛妻と厳父を前後して失ったその翌年から、堰を切ったように力作を発表した時期の作品である。
         平成28日5月12日 記



       「一房の葡萄」
                        有島武郎

 僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。僕の通っていた学校は横浜の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、僕の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりにはいつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、檣(ほばしら)から檣へ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。僕はよく岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覚えているだけを出来るだけ美しく絵に描いて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海の藍色と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色(ようこうしょく)とは、僕の持っている絵具ではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。
 ふと僕は学校の友達の持っている西洋絵具を思い出しました。その友達は矢張(やはり)西洋人で、しかも僕より二つ位齢が上でしたから、身長(せい)は見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に、十二種いろの絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは喫驚(びっくり)するほど美しいものでした。ジムは僕より身長が高いくせに、絵はずっと下手でした。それでもその絵具をぬると、下手な絵さえがなんだか見ちがえるように美しく見えるのです。僕はいつでもそれを羨ましいと思っていました。あんな絵具さえあれば僕だって海の景色を本当に海に見えるように描かいて見せるのになあと、自分の悪い絵具を恨みながら考えました。そうしたら、その日からジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなりました。けれども僕はなんだか臆病になってパパにもママにも買って下さいと願う気になれないので、毎日々々その絵具のことを心の中で思いつづけるばかりで幾日か日がたちました。
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※ジムの絵の具が羨ましかった「僕」は、それを盗んでしまう。担任のそれに対する対応は、愛情と思いやりに溢れたものであった。
        平成27日9月20日 記



         「生まれ出づる悩み」
                           有島武郎

 私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろうとする自分の心をひっぱたいて、できるだけ伸び伸びしたまっすぐな明るい世界に出て、そこに自分の芸術の宮殿を築き上げようともがいていた。それは私にとってどれほど喜ばしい事だったろう。と同時にどれほど苦しい事だったろう。私の心の奥底には確かに――すべての人の心の奥底にあるのと同様な――火が燃えてはいたけれども、その火を燻(いぶ)らそうとする塵芥(ちりあくた)の堆積(たいせき)はまたひどいものだった。かきのけてもかきのけても容易に火の燃え立って来ないような瞬間には私はみじめだった。私は、机の向こうに開かれた窓から、冬が来て雪にうずもれて行く一面の畑を見渡しながら、滞りがちな筆をしかりつけしかりつけ運ばそうとしていた。
 寒い。原稿紙の手ざわりは氷のようだった。
 陽はずんずん暮れて行くのだった。灰色からねずみ色に、ねずみ色から墨色にぼかされた大きな紙を目の前にかけて、上から下へと一気に視線を落として行く時に感ずるような速さで、昼の光は夜の闇(やみ)に変わって行こうとしていた。午後になったと思うまもなく、どんどん暮れかかる北海道の冬を知らないものには、日がいち早く蝕(むしば)まれるこの気味悪いさびしさは想像がつくまい。ニセコアンの丘陵の裂け目からまっしぐらにこの高原の畑地を目がけて吹きおろして来る風は、割合に粒の大きい軽(かろ)やかな初冬の雪片をあおり立てあおり立て横ざまに舞い飛ばした。雪片は暮れ残った光の迷子のように、ちかちかした印象を見る人の目に与えながら、いたずら者らしくさんざん飛び回った元気にも似ず、降りたまった積雪の上に落ちるや否や、寒い薄紫の死を死んでしまう。ただ窓に来てあたる雪片だけがさらさらさらさらとささやかに音を立てるばかりで、他のすべてのやつらは残らず唖(おし)だ。快活らしい白い唖の群れの舞踏――それは見る人を涙ぐませる。
 私はさびしさのあまり筆をとめて窓の外をながめてみた。そして君の事を思った。
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※この作品は、最も創作意欲が、旺盛でかつ作家としての名声が上がってきた時期に書かれたものである。
        平成27日9月9日 記