お能の見方
白洲正子
よほど前のことですが、西本願寺の舞台で、お能があったのを思い出します。私達は、こちら側の、秀吉が見物したという書院のほうから、およそ二十間近くもへだてて見ており、白洲の上には京都特有の時雨がときどき音を立てて降り注いでいました。ふと気がつくと、いつのまにか舞台の上に美しい女があらわれている。むろん顔なぞ見えるはずはなし、上手下手かもわからない。ただ、白い雨足を通して、水の上にぽっかり浮かぶ蜃気楼のような舞台の上で、軽やかに袖をひるがえしているのが、美しくて、目が放せないのでした。
今から思えば子供心に「幽玄」を感じたのでしょうが、能楽堂に閉じこめられて見るのと違い、ああいう広い景色の中では、きめの細かい名人芸なぞ空気のなかに発散してしまう。しめやかな情緒とか、微妙な表現なんてものも、面の動きや些細な仕草に求めるのは不可能で、舞台をふくめた全体の雰囲気に感じとるよりほかにない。
世阿弥は「遠見(えんけん)」といことを重んじ、「ゆくやかに、たぶたぶとあるべし」豊かに、たっぷりとするがよい、といいましたが、そういう風情は、このような舞台においてはじめて合点が行くことです。それは見物にとってもいえることで、環境が悪ければ悪いなりによけい小さなことに気をとられてはなるまい、まして、古典を勉強してお能を見るなんて邪道です。「美しければ、手の足らぬも苦しからぬなり。悪くて、手のこまやかなるは、中々悪く見ゆるなり」そういう芸を見わけるのに、知識の不足なぞ問題ではありません。なまじありすぎて邪魔になる場合は、多いのではないかと思います。
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※初めて(平成14年)矢来能楽堂で能「杜若」(シテ 金春流能楽師 山中一馬)を観た時も、ただ感性だけであった。白洲正子の独自の視点が面白い。
平成28年3月18日