島崎 藤村

    初恋
        島崎藤村

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ      
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※島崎藤村の思い出が迸る詩である。明治という新しい風さえ感じる。
                平成27年7月2日 記
 



   小諸なる古城のほとり
         島崎 藤村

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
緑なすはこべは萌えず
若草も藉くによしなし
しろがねの衾の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたたかき光はあれど
野に満つる香も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わずかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
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※島崎藤村は、松尾芭蕉の影響を色濃く受け、「私は少年時代から芭蕉が好きであった。(中略)あの『奥の細道』『笈の小文』や『幻住庵の記』なぞは少年の昔から何度愛読したか知れない。私は又、芭蕉が好きだといふ丈のことには満足しないで、芭蕉が求めたものを求めようと志して行つた。そんな風にして次第に西行の『山家集』『選集抄』を読むやうになり、李白や杜甫の詩集などをも愛読するやうな青年になつた。」と「文学に志した頃」に書いている。その芭蕉への傾倒が旅人としての意識を高め、「 雲白く遊子悲しむ 」と漂泊意識を表す言葉につながることになる。五七調のリズムは、日本人の魂を揺さぶる。最初に感動したのは、50年も昔のことであった。
                平成27年3月19日 記