宮本 武蔵

          五輪書(水の巻 敵をうつに、一拍子の打の事)
                     宮本武蔵

一 敵をうつに、一拍子の打の事。
 敵を打拍子に、一拍子と云て、敵我あたるほどの位を得て、敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心もつけず、いかにも早く、直にうつ拍子也。敵の、太刀ひかん、はづさん、うたん、とおもふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也。此拍子、よくならひ得て、間の拍子をはやく打事、鍛錬すべし。

【口語訳】
一 敵を打つに、一拍子の打ちの事
 敵を打つ拍子に、一拍子というものがあ。敵と自分が打ち合えるほどの位置をしめて、敵の心の準備ができないのを見抜き、こちらは体も動かさず、心もそのままに、すばやく一気に打つ拍子である。敵が、太刀を引こう、外そう、打とうなどと心が決まらない内に、打つ拍子が一拍子である。この拍子をよく習得して、きわめて速く打つことを鍛練すべきである。
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※一拍子で打つことは、剣道の本質である。「敵の、太刀ひかん、はづさん、うたん、とおもふ心のなきうちを」とあるが、これもまだ難しい。しかし、このことを知って修行するのと知らないで修行するのでは、結果は自ずから違ってくる。その上で、水田先生のおっしゃるように「考え工夫すること」が大切だ。そうしなければ、単なる運動になってしまう。

               平成31年3月4日 記



         五輪書(地の巻)
                 宮本武蔵
  
 大形(おおかた)武士の思ふ心をはかるに、武士は只死ぬると云道を嗜(たしなむ)事と覚ゆるほどの儀也。死する道におゐては、武士計(ばかり)にかぎらず、出家にても、女にても、百姓巳下(いか)に至る迄、義理をしり恥をおもひ、死する所を思ひきる事は、其の差別なきもの也。武士の兵法をおこなふ道は、何事におゐても人にすぐるる所を本とし、或は一身の切合にかち、或は数人の戦に勝、主君の為、我身の為、名をあげ身をたてんと思ふ。是兵法の徳をもつてなり。

 【口語訳】
 普通武士の信念はというと、ひたすら死を覚悟することだという程度に理解されている。だが、死を覚悟するという点では、武士ばかりでなく、出家にあっても、女性にあっても、百姓以下に至るまで、義理を知り、恥を思い、死を覚悟するということはなんら変わりがないのである。武士が他の者と違うのは、兵法の心得があるということなのだ。すなわち、何をするについても、人に勝つとうことを基本とし、あるいは個々の戦闘に勝ち、主君のため、自分自身のため、名誉をとどろかし、身を立てようと思うのだが、これは兵法の道理によって可能となるのである。
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※この本を読むたびに発見がある。死について、一般人も武士と何ら変わりがないと武蔵が考えていたとは、不思議な感じすらする。
        平成30年3月14日 記



         五輪書(序の巻)
                 宮本武蔵
  
 兵法の道、二天一流と号し、数年鍛練之事、始て書物に顕さんと思、時寛永二十年十月上旬の比(ころ)、九州肥後の地岩戸山に上り、天を拜し、觀音を礼し、佛前にむかひ、生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十。
 われ若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三歳にして初而勝負をす。其あひて、新當流有馬喜兵衛と云(いふ)兵法者に打勝、十六歳にして但馬國秋山と云強力の兵法者に打勝、二十一歳にして都へ上り、天下の兵法者にあひ、数度の勝負をけつすといへども、勝利を得ざるといふ事なし。
 其後、國々に至り、諸流の兵法者に行合、六十餘度迄勝負をすといへども、一度も其利をうしなはず。

 【口語訳】
 兵法の道を二天一流と名付けて、長年にわたって鍛錬してきたことを、初めて書物に表そうと思い、時に寛永二十年(1643)十月上旬、九州肥後の地にある岩戸山に登って、天を拝し、観音を礼拝し、仏前に向った。播磨の国の武士、新免武蔵守藤原玄信、年齢は積み重なってもう六十歳。
 私は、若年の昔より兵法の道に志し、十三歳の時、初めて勝負をした。その相手は新当流有馬喜兵衛という兵法者で打ち勝ち、十六歳にして但馬国の秋山という強力な兵法者に打勝ち、二十一歳にして都へ上り天下の兵法者に出会い何度も決闘勝負を行なったが、勝利を得ないということがなかった。
 その後、諸国各地へ行って、様々な流派の兵法者と遭遇し、六十数回まで勝負を行なっが、一度もその勝利を得ないということがなかった
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※『五輪書』を著す顛末を綴ったのが「序の巻」である。自分の一生を端的な言葉で表し、揺るぎない自信を表出している。我々武道に志す者に、多くの示唆を与えてくれる書物である。
        平成30年3月9日 記



             五輪書(序の巻)
                     宮本武蔵
 
 我三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず、をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か、又は他流の兵法不足ある所にや、其後なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の此也。
 其より以来は尋入べき道なくして光陰を送る。兵法の利にまかせて、諸芸諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし。今此書を作るといへども、仏法儒道の古語をもからず、軍記軍法の古きことももちいず、此一流の見たて実の心を顕す事、天道と観世音を鏡として、十月十日之夜寅の一てんに筆をとつて書初るもの也。
【口語訳】
 しかし、三十歳を越して、その跡を振り返ってみると、自分が勝ったのは決して兵法を極めたためではなく、自然の才能があって天の理に即していたためか、それとも相手の兵法が不充分であったためか、いずれにしても未熟であることを痛感した。そこで、その後なおも深い道理を得ようと、朝夕鍛錬を続けた結果、おのずと兵法の道に叶うことができるようになったのは五十歳の頃である。
 その時からは、とくに究めるべき道もなく歳月を送っていた。自分は兵法の道理に従って、これを様々な武芸の道としているから、あらゆることに師匠はない。すべて自から悟り得たものである。いまこの書を作るに当たっても、仏法や儒道の教えにもよらず、軍記や軍法の故事をも用いず、天の道と観世音を鏡として、わが二天一流の見解、本当の意味を書き表そうと思っている。十月十日の夜、午前四時、筆を取って書き始めるものである。
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※求道者に行き着くところはない。遙かな道をたどるばかりだ。宮本武蔵は「六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず。其程十三より廿十八九迄の事也。」とも述べている。佐々木小次郎との決戦を最後に、その足跡はあまり明らかになっていない。松尾芭蕉は「菰(こも)をきてたれ人ゐます花の春」と詠んでいる。まさに俳句の芸術性を高め、風雅に生きようとする覚悟が表れている句である。達人、名人の覚悟は凡人と違う。
             平成30年3月8日 記



             五輪書(火の巻 三つの先と云事)
                     宮本武蔵
 
一 三つの先と云事。
 三つの先、一つは我方より敵へかゝる先、けんの先と云也。また一つは、敵より我方へかゝる時の先、是はたいの先と云也。又一つは、我もかゝり、敵もかゝりあふ時の先、躰々(たいたい)の先と云。これ三つの先也。
 何(いづれ)の戦初めにも、此三つの先より外はなし。先の次第をもつて、はや勝事を得ものなれば、先と云事、兵法の第一也。此先の子細(しさい)、様々ありといへども、其時の理を先とし、敵の心を見、我兵法の智恵をもつて勝事なれば、こまやかに書分る事にあらず。

【口語訳】
一 三つの先という事
 先手を取るに三つの先がある。一つは我方から敵へかかっていく先、これを「懸(けん)の先」という。また一つは、敵の方から我方へかかってくる時の先、これは「待(たい)の先」という。もう一つは、こちらもかかっていき、敵もかかってくる仕懸け合いの時の先、これを「躰々の先」という。
  どんな戦いでも、最初はこの三つの先より外はない。先の状況次第で、すでに勝つことを得るものだから、先ということが、兵法の第一である。この先の子細には、様々あるとはいえ、その時々の事情により有利なように決めるものであり、敵の心を見抜き、我が兵法の智恵をもって勝つことであるから、細かく説明することはしない。
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※「先の次第をもつて、はや勝事を得ものなれば、先と云事、兵法の第一也」とあるように、先をかけることは非常に大切である。そのためには、気力を充実させて十分に攻めを利かせたい。
                  平成28年10月31日 記



             五輪書(水の巻 無念無相の打と云事)
                     宮本武蔵

一 無念無相の打と云事。
 敵もうち出さんとし、我も打ださんと思ふとき、身も打身になり、心も打心になつて、
手はいつとなく空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也。此打、たびたび出合打也。能々(よくよく)ならひ得て、鍛錬有べき儀也。

【口語訳】
一 無念無相の打ちという事
 敵も打ち出そうとし、自分も打ち出そうと思う時、体も打つ態勢になり、心も打つことに集中し、手は自然に、加速をつけて強く打つのである。これが無念無相の打ちといって、最も重要な打ちであり、しばしば出会うものである。よくよく習得して、鍛練すべきことである。
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※無意識のうちに素晴らしい打突ができていることがある。その時は、打つべき好機をしっかり捕らえ、気迫も十二分に横溢(おういつ)しているはずだ。だからこそ、見ている人の心をつかむのであろう。
            平成28年10月26日 記



           五輪書(水の巻 打とあたると云事)
                   宮本武蔵

一 打とあたると云事。
 打と云事、あたると云事、二つ也。打と云こゝろは、何れの打にても、思ひうけて、たしかに打也。あたるは、行あたるほどの心にて、何と強くあたり、忽(たちまち)敵の死ぬるほどにても、これはあたる也。打とは心得て打所也。吟味すべし。
  敵の手にても足にてもあたると云は、先あたる也。あたりて後を強くうたんため也。あたるは、さはるほどの心、能(よく)ならひ得ては、各別の事也。工夫すべし。

【口語訳】
一 打つと当るという事
 打つということ、当るということ、全く違うことである。打つということは、どんな打ちでも、しっかりと心得て、確実に打つことである。当るというのは、たまたま行き当るという程度のことであり、たとえ非常に強く当って敵が即死してしまう程であっても、当たりは当たりである。
 打つというのは、心得て打つ場合である。この点をよくよく噛みしめなければならない。敵の手でも足でも当るというのは、まず、当った後を強く打つためのものであり、様子をみるという程のことである。よく習得すれば、全く別のことだと分かる。工夫するように。
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※「打つ」と「当たる」とは、まったく別のものである。しかし、この違いがなかなか理解できない。「打つ」は必然的な事由がある現象であり、いわば相手を引き出し打突したことがこれに相当する。「当たる」は偶発的な現象であり、たまたま打ったら捉えたぐらいだろう。最終的な結果が同じでも、まったく内容を異にするものである。剣道の本質に関わることだ。

              平成28年10月12日 記



             五輪書(水の巻 足つかひの事)
                     宮本武蔵

一 足つかひの事。
 足のはこび様の事、つまさきをすこしうけて、きびすをつよく踏べし。足つかひは、ことによりて、大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし。足に、飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足也。
 此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也。陰陽の足は、片足ばかりうごかさぬもの也。切とき、引とき、うくる時迄も、陰陽とて、右左/\と踏足也。返々(かえすがえす)片足踏事有べからず。能々吟味すべきもの也。

【口語訳】
一 足づかいの事
 足の運び方のことだが、爪先を少し浮かせて、踵〔かかと〕を強く踏むこと。足の使い方は、状況によって、大きい小さい、遅い速いはあっても、普段歩くのと同じようにする。足に、飛ぶような足、浮きあがった足、固く踏みつけるような足というのがあるが、この三つは、嫌う足である。
 足の使い方にあって、「陰陽の足」ということが肝心である。「陰陽の足」とは、片足だけ動かすものではなく、切る時、引く時、受ける時でさえも、右左、右左と運ぶのである。決して片足をだけを動かすことがないように十分注意するようにせよ。
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※「陰陽の足」は、日本剣道形でも大切なものである。先達から学ぶことのなんと多いことか。『論語』にも、「故(ふる)きを(たず)ねて新しきを知れば、もって師たるべしと」。とある。
           平成28年10月4日 記



             五輪書(水の巻 兵法の眼付と云事)
                     宮本武蔵

一 兵法の眼付と云事。
 目の付様は、大キに廣く付る目なり。觀見二ツの事、観の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀を知り、聊(いささかも)敵の太刀を見ずと云事、兵法の大事也。工夫有べし。此目付、ちいさき兵法にも、大キなる兵法にも、おなじ事也。
 目の玉うごかずして、両脇を見る事、肝要也。かやうの事、いそがしき時、俄(にはか)にはわきまへがたし。此書付を覚、常住此目付になりて、何事にも目付のかはらざる所、能々(よくよく)吟味有べきもの也。

【口語訳】
一 兵法の眼付けという事
 眼の付け方は、大きく広く付けることである。「観の目」、すなわち物事の本質を深く見極めるは目は強く、「見の目」、すなわち表面のあれこれの動きを見る目は弱くすることが大切である。遠い所を近く見、近い所を遠く見ること、これが兵法の第一とすべきことである。敵の太刀をよく知り、その表面の動きに惑わされないことが、兵法の大事である。これを工夫する必要がある。この目付けのことは、少数の戦いでも、大きな合戦でも、同じことである。
 目の玉は動かずに両脇を見ること、それが肝要である。このようなことは、急場になって、にわかに会得できるものではない。この文書に書いてあることを覚えて、常日頃、この眼付けになって、どのような場合にもそれが保持できるように、十分に研究しておくべきである。                      
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※「観の目」「見の目」の二つの目付は、とても納得できる。相手の心まで忖度(そんたく)できる「観の目」を強くもちたい。修行の行き着くところは、畢竟(ひっきょう)ここにある。
           平成28年10月1日 記



          五輪書(水の巻 太刀の持様の事)
                  宮本武蔵  

    一 太刀の持様の事。
 刀のとりやうは、大指、ひとさし指を浮くる心にもち、たけ高指しめずゆるまず、くすしゆび、小指をしむる心にして持也。手のうちにはくつろぎの有事悪し。
 敵をきるものなりとおもひて、太刀を取るべし。敵をきるときも、手の内にかはりなく、手のすくまざる様に持べし。若(もし)、敵の太刀を、はる事、うくる事、おさゆる事ありとも、大指、人さしゆびばかりを、すこしかゆる心にして、兎にも角にもきるとおもひて、太刀をとるべし。
 ためし物など切ときの手のうちも、兵法にしてきる時の手のうちも、人をきるといふ手のうちにかはる事なし。
 惣而(そうじて)、太刀にても手にても、いつくと云事を嫌ふ。いつくは、しぬる手也。いつかざるは、いきる手也。能々心得べきもの也。

 【口語訳】
一 太刀の持ち方の事
 太刀の握り方は、親指と人指し指は浮かせた感じで持ち、中指は締めず緩めず、薬指と小指を締める気持で持つのである。持った手の内に遊びがあるのはよくない。
 太刀を持つ時は、敵を切るのだと思って、持つべきである。敵を切る時も、手の内に変化はなく、手のすくむことがないように持つべきである。もし、敵の太刀を、張る、受ける、押さえるということがあっても、親指と人指し指だけを少し変える感じで、何が何でも切るのだと思って、太刀を取るべきである。
 試し斬りで切る時の手の内も、実戦で切る時の手の内も、人を切るという手の内に変ることはない。
 総じて、太刀でも手でも、居つくということを嫌う。居つくのは死んだ手である。居つかないのは生きた手である。よくよく心得ておくべきである。
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※この段は、剣道を修業する者には非常に大切な内容になっている。もう一度、自分の姿を見つめ直したい。昨日の稽古でも水田先生が強調していた。竹刀の握り方については、先生の常におっしゃっていることである。
           平成28年9月22日 記



       五輪書(火の巻 兵法の身なりの事)
                 宮本武蔵

一 兵法の身なりの事
 身のかかり、顔はうつむかず、仰(あお)のかず、ひずまず、目をみださず、額にしわをよせず、眉あいにしわをよせて目の玉動かざるやうにして、瞬きをせぬやうにおもひて、目を少しすくめるやうにして、うらやかに見るるかを、鼻すじ直にして、少しおとがいを出す心なり。首は後ろの筋を直に、うなじに力を入て、肩より惣身はひとしく覚え、両の肩をさげ、脊筋をろくに、尻をいださず、膝より足の先まで力を入て、腰のかがまざる様に腹をはり、楔(くさび)をしむるといひて、脇差の鞘に腹をもたせ、帯のくつろがざるやうに、楔をしむると云ふ教へあり。
 惣(そうじ)て兵法の身におゐて、常の身を兵法の身とし、兵法の身を常の身とすること肝要なり。能々(よくよく)吟味すべし。

【口語訳】
 体の構えは、顔はうつむかず、あおむかず、曲げず、目をきょろきょろさせず、顔を顰めず、眉の間にしわをよせ目玉を動かさず、瞬をしない気持ちで、目をややすばめるようにする。穏やかな顔つきで鼻筋は真っ直ぐに、少し顎あごを出す感じにする。首筋を伸ばし、うなじに力を入れ、肩から全身に気を回し、両肩は自然に垂らし、背筋をぴんとし、尻を突き出さずに、膝から下に力を充実させ、腰が屈まないように腹をはる。楔を絞めるといって脇差しの鞘に腹を押しつける感じで、帯が緩まないようにするという古来の教えある。
 全てに於いて、兵法をやるからにはこの身勢を常に保つことが大事だ。よく考えて工夫すべし。
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※高齢になると自然と姿勢が悪くなる、剣道に限らず普段の生活から心掛けたい。

                   平成27年7月20日 記



         五輪書(火の巻 敵になる云事)
                   宮本武蔵

 敵になるといふは、我身を敵になり替て思ふべきと云所也。世中をみるに、ぬすみなどして家の内へ取籠るやうなるものをも、敵をつよく思ひなすもの也。敵になりておもへば、世中の人を皆相手とし、にげこみてせんかたなき心なり。取籠るものは雉子(きじ)なり。打果しに入(いる)人は鷹也。能々(よくよく)工夫あるべし。
 大キなる兵法にしても、敵といへば、つよく思ひて、大事にかくるもの也。よき人数を持、兵法の道理を能知り、敵に勝と云所をよくうけては、気遣いすべき道にあらず。
 一分の兵法も、敵になりておもふべし。兵法よく心得て、道理つよく、其道達者なるものにあいては、必ずまくると思ふ所也。能々吟味あるべし。

【口語訳】
 敵になるというのは、わが身を敵の立場になって考えるというのである。世の中を見ると、例えば盗人などが、家の中に立て籠もった場合、非常に強いように思えてしまう。敵の身になっみいれば、逃げ込んで、世の中の人を皆敵とし、自分ではどうにもならなくなっている。進退極まった気持ちになっているのである。立て籠もっているのは、雉であり討ち取りに入り込んでいくものは鷹である。この状態をわきまえるべきだ。
 多人数の戦いにおいても、敵は強いものと思いこんで、大事をとって消極的になるものである。しかし良い人数を持ち、兵法の道理を知り、敵にうち勝つところをよく心得ていれば心配すべきことではない。
 一対一の勝負においても、敵の身になって思ってみよ。兵法をよく心得て、剣の理にも明るく、道理に優れているものにかかっていく場合、相手は、必ず負けると思っているものである。よくよく工夫すべきである。
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※このことは、よく経験することである。相手を過大に評価して、萎縮してしまう。それも心の迷いである。いくら相手が強いようでも、人間の能力、心の動きに大差はないはずだ。
             平成27年7月15日 記



             五輪書(火の巻 四手をはなすと云事)
                          宮本武蔵

一 四手(よつで)をはなすと云事。
 四手をはなすとは、敵も我も、同じ心に、はりよう心になつては、戦のはかゆかざるもの也。はりよう心になるとおもはヾ、其まゝ心を捨て、別の利にて勝事をしる也。
 大分の兵法にしても、四手の心にあれば、はかゆかず、人の損ずる事也。はやく心を捨て、敵のおもはざる利にて勝事専也。
 亦、一分の兵法にても、四手になるとおもはヾ、其まゝ心をかへて、敵の位を得て、各別かはりたる利を以て、勝をわきまゆる事肝要也。能々分別すべし。

  【口語訳】
一 四手を放すという事
 四つ手を放すとは、敵もこちらも同じ心になって張り合うと戦いの決着がつかなくなるので、そう思ったらそれまでの狙いを捨て去って、別の手段で勝つことを知れということである。
 大勢の合戦でも、四つに張り合う状態では、決着がつかず兵員を多く失うことになる。その場合は、その狙いを早く捨てて、敵の予想もしない手段で勝つことが、最も良い方法である。
 また、一対一の勝負でも、四つになったと思えば、ただちに狙いを変えて、敵の態勢を把握して、それに応じた様々な手段で勝利を得ることが大切である。よくよく分別すべし。                    
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※宮本武蔵の合理的な考えが示されている段である。膠着した状態を解消するには、思い切った発想が活路を見出すと言っている。何事も多面的に見ることが肝要である。
            平成27年7月3日 記



             五輪書(水の巻 後書き)
                     宮本武蔵
 
 ゆるゆると思ひ、此法をおこなふ事、武士の役なりと心得て、今日は昨日の我に勝、あすは下手に勝、後は上手に勝と思ひ、此書物のごとくにして、少もわきの道へ心のゆかざる様に思ふべし。
  たとへ何ほどの敵に打勝ても、習にそむく事におゐては、實の道に有べからず。此利、心にうかびては、一身をもつて、数十人にも勝(かつ)心のわきまへ有べし。然上(しかるうへ)は、剣術の智力にて、大分一分の兵法をも得道(とくどう)すべし。千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす。能々(よくよく)吟味有べきもの也。

【口語訳】
 武芸の道を極めていくことは武士のつとめと心得、気長に取り組み、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下の者に勝ち、後には上手の者に勝つというように、この書物のとおり鍛錬を積み、少しも脇道に気が行かないように心掛けることである。たとえ、いかほどの敵に打ち勝っても、原則の習熟によったものでなければ、それは決して真実の道ではありえない。ここに記した勝利の道を会得することができるならば、一人で数十人にも勝つ心得を身に付けることができよう。そうなれば、あとは剣術の理論、知識によって、合戦上のことも、一人対一人の戦いのことも体得することができるであろう。千日の稽古を鍛〔たん〕、万日の稽古を練〔れん〕と言う。よくよく検討すべきである。
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※ 「たとへ何ほどの敵に打勝ても、習にそむく事におゐては、實の道に有べからず。」原則の習熟でなければ、真実の道ではないとする。重い言葉だ。また、「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」、とある。心にずしりとくる言葉である。
            平成27年6月23日 記



             五輪書(地の巻 此兵法の書、五卷に仕立事)
                          宮本武蔵

一 此兵法の書、五卷に仕立事。
 五ツの道をわかち、一まき/\にして、其利をしらしめん為に、地水火風空として、五巻に書顕すなり。
 地之巻におゐては、兵法の道の大躰、我一流の見立。劔術一通りにしては、まことの道を得がたし。大きなる所より、ちいさき所を知り、淺より深きに至る。直なる道の地形を引ならすによつて、初を地之巻と名付る也。
 第二、水之巻。水を本として、心を水になす也。水は、方円の器に随ひ、一てきとなり、さうかいとなる。水に碧潭(へきたん)の色あり。清き所をもちひて、一流の事を此巻に書顕也。劔術一通の理、さだかに見分け、一人の敵に自由に勝時は、世界の人に皆勝所也。人に勝といふ心は、千万の敵にも同意なり。将たるものゝ兵法、ちいさきを大になす事、尺のかたをもつて大佛をたつるに同じ。か様の儀、こまやかには書分がたし。一をもつて万を知事、兵法の利也。一流の事、此水の巻に書しるすなり。
  第三、火之巻。此まきに戦ひの事を書記す也。火は大小となり、けやけき心なるによつて、合戦の事を書也。合戦の道、一人と一人との戦ひも、萬と萬との戦も同じ道也。心を大なる事になし、心をちいさくなして、よく吟味して見るべし。大きなる所は見へやすし、ちいさき所は見へがたし。其子細、大人数の事は、即座にもとをりがたし。一人の事は、心ひとつにてかはる事はやきによつて、ちいさき所しる事得がたし。能(よく)吟味有べし。此火の巻の事、はやき間の事なるによつて、日々に手なれ、常のごとくおもひ、心のかはらぬ所、兵法の肝要也。然によつて、戦勝負の所を、火之巻に書顕也。
  第四、風之巻。此巻を風之巻と記す事、我一流の事に非ず。世の中の兵法、其流々の事を書のする所也。風と云におゐては、昔の風、今の風、その家々の風などゝあれば、世間の兵法、其流々のしわざを、さだかに書顕す、是風也。他の事をよくしらずしては、自らのわきまへ成がたし。道々事々をおこなふに、外道と云心あり。日々に其道を勤と云とも、心の背けば、其身はよき道とおもふとも、直なる所よりみれば、実の道にはあらず。実の道を極めざれば、少(すこし)心のゆがみにつゐて、後には大きにゆがむもの也。吟味すべし。他の兵法、剣術ばかりと世におもふ事、尤(もつとも)也。我兵法の利わざにおゐても、各別の儀也。世間の兵法をしらしめんために、風之巻として、他流の事を書顕す也。 
  第五、空之巻。此巻、空と書顕す事。空と云出すよりしては、何をか奥と云、何をか口といはん。道理を得ては道理を離れ、兵法の道におのれと自由ありて、おのれと奇特を得、時にあひては拍子をしり、おのづから打、おのづからあたる。是皆空の道也。おのれと実の道に入事を、空の巻にして書とゞむるもの也。

【口語訳】
一 この兵法の書を、五巻に仕立てる事
 本書は、五つの道を分け、一巻ずつにして、その道理を知らせるために、地・水・火・風・空の五巻に書きあらわすのである。
 地之巻においては、兵法の道の概略、我が流派の考え方を説いている。剣術だけをやっていては、本当の剣の道を知ることはできない。大きな所から小さい所を知り、浅いことから深いことへ至る。大地にまっすぐな道を描くことになぞらえ、最初の一巻を地の巻と名付けるのである。
 第二、水之巻。水を手本として、心を水のようにするのである。水は、容器の形にしたがって四角になったり円形になったりする。あるいは、一滴ともなり大海ともなる。この水の青々と澄んだ清浄な心をかりて、我が流派のことをこの巻に書きあらわすのである。一人の敵に自由に勝ち得るよう剣術の道理を身に付けることができるならば、世の中の人の誰にでも勝つことができるのである。人に勝つというのは、一人だろうが、千万人の敵であろうが同じ原理である。武将たる者の兵法は、小さいことによって大局を判断することである。それは尺のかねを使って、大仏を建てるのと同じである。こうしたことは、詳細には説明しがたいが、一をもって万を知ること、それが兵法の道理なのである。そこで、我が流派のことをこの水の巻に書き記すのである。
 第三、火之巻。この巻には戦さの事を書き記す。火は、大きくなったり小さくなったりする、際だった力をもっている。その心になぞらえて、合戦の事を書くのである。合戦の道において、一人と一人の戦いも、万人と万人の戦いも、同じ道である。大局を洞察し、しかも細心の注意を払い研究してみることが肝要である。大きな所は見えやすいが、小さな所は見えにくい。そのわけは、大人数の事は即坐に変えることは難しいが、一人の事は、心一つでさっと変るので小さなところは、知ることが難しいからだ。この点も、よく吟味しておくべきである。この火の巻で説くのは瞬間のことであるから、日夜習熟習慣化し、いざという時に平常心で当たれるようになることが、兵法の肝要である。それゆえ、戦さ勝負のところを火の巻に書きあらわすのである。
 第四、風之巻。風の巻と記すことは、我が流派のことではない。世の中の兵法、その諸流派のことを、書き載せる。風という場合、昔の風、今の風、その家々の風などとあるからである。世間の兵法、その諸流派のやり方を、定かに書きあらわしておく。これが風ということである。他の流派のことをよく知らずしては、自身の理解はできない。何事にも邪道というものがある。日々にその道に励むとしても、内容が外れていては、自身は良いと思っていても、客観的には真実の道ではない。真実の道をきわめなければ、最初はほんの些細な心の歪みでも、後には大きな歪みになってしまうものである。よく研究すべきである。他流では、兵法といえば、剣術のことだけだと想っている。そう思われるのは、無理がない。我が兵法では、狭義の兵法と広義の兵法の二つがあると考える。世間の兵法が、どんなものか、それを知らしめるために、風の巻として、他流の事を書きあらわすのである。
 第五、空之巻。空というからには、始めも終わりもない。道理を得てしまえば、それにこだわらない。兵法の道は、自然の道である。思うがままになって、非常な力量をあらわすことができる。時に相応しては拍子を知り、自然に敵を討ち自然に相対する。これみな空の道である。そのように自然に真実の道に入ることを、空の巻にして書留めるのである。
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※なぜ、「地・水・火・風・空」の巻に分けたか記載されている。『五輪書』の総括のような内容なので、熟読したい。
            平成27年5月21日 記