言葉あれこれ2

           「草わかば」について
      
 
新緑が美しい。新緑と言っても多くの色がある。だから美しい。北原白秋は「草わかば色鉛筆の赤き粉(こ)のちるがいとしく寝て削るなり」と、その美しさを短歌にしている。また、萩原朔太郎は、詩「旅上」で下記のように表現している。
          旅  上 
     ふらんすへ行きたしと思へども
     ふらんすはあまりに遠し
     せめては新しき背広をきて
     きままなる旅にいでてみん。
     汽車が山道をゆくとき
     みづいろの窓によりかかりて
     われひとりうれしきことをおもはむ
     五月の朝のしののめ
     うら若草のもえいづる心まかせに。
 
 この詩を最初に認めたのが北原白秋というのも面白い。新緑の美しさを平和の中で感じられることに感謝をしたい。
 
            令和4年5月7日 記 


           「蹂躙(じゅうりん)」について
      
 
「蹂躙」とは「踏みにじること」である。プーチンの起こした戦争(軍事作戦などとちゃんちゃらおかしい)はウクライナ人の数々の生活を蹂躙している。朝食を食べる、学校で勉強する、会社で働く、子どもの面倒をみる、夢を語る、死者を弔うなど何の変哲もない生活がズタズタにされてしまった。帝政ロシアの皇帝のような振る舞いは時代錯誤そのものである。この時代に領土を増やしたとすごんでいる輩(やから)の心がしれない。スターリンの系譜を継ぐ最低最悪の殺戮者だ。
 
            令和4年4月8日 記 


           「雪」について
      
 
昨日は雪だった。義父が「この時期に雪が降ると、梅の実が寒さで凍って落ちてしまう」と言っていた。とても心配である。一昨年は暖冬で虫が活動する前に梅の花が散ってしまい、不作どころか凶作であった。通常1ヶ月ほど販売期間が続くが、その年は3日間で終了してしまった。そんな再現にならないことを祈るばかりだ。
 ところで、「雪」というと数々の事件に関係している。赤穂浪士の討ち入りの日も雪であった。1702年(元禄15年)12月14日、艱難辛苦を乗り越えて吉良上野介を討ち果たした。大石内蔵助の辞世の句 は、「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」であった。「桜田門外の変」の日も雪、1860年3月3日、水戸浪士を中心とした集団に大老井伊直弼が惨殺されてしまう。3月3日は雛祭り(上巳)大名の登城日であった。この日は、西暦でいうと3月24日になるから、昨日の雪もこれに近い。「二・二六事件」も雪であった。1936年2月26日、青年将校らがクーデターを起こし大蔵大臣高橋是清などを殺害した。中村草田男(なかむらくさたお)は「この日雪一教師をも包み降る」と俳句を作っている。
 雪は何かしら人の心を動かすのであろうか。

            令和4年3月23日 記 


       「切歯扼腕(せっしやくわん)」について
      
 
「切歯扼腕」とは、「非常にくやしがること」である。ロシアがウクライナに戦争を仕掛けているが、ロシアの嘘八百の情報発信には腹が立つ。まさに毎日が切歯扼腕する状態である。最も英会話を教えていただいた講師の一人がウクライナのキエフに住んでいて、ご両親は南部のオデッサの近くにいるとのこと。とても優しく思いやりのある方だ。私にとってウクライナは遠くて近い国だ。その国が悲劇的な状態にある。少しでも力になりたいと考えている。
            令和4年3月14日 記 


       「歳寒(さいかん)の三友」について
      
 「歳寒の三友」」とは、「松、竹、梅」の3種を指す。いわゆる「松竹梅」である。それぞれが冬の厳しい寒さに耐えて、きりりと立つのをよしとしている。能舞台にも鏡板に老松が切戸口の周りに竹が描かれている。
            令和4年3月11日  


       「捏造(ねつぞう)」について
      
 
「捏造」とは、「実際に起こっていないことを意図的にあったようにすること」である。この言葉は、今のプーチンとロシアのためだけにある。トルコで外相同士の話し合いがあった後、記者会見が行われたがロシアの外相の内容は嘘ばかりで聞くに堪えない。ウクライナの惨状を見るたびに心が痛くなる。クラスター爆弾、気化爆弾、化学兵器、生物兵器などの使用や使用疑惑が報じられている。もはや人間の所業とは思えない。
 今のロシアの姿はかつての日本であったことを忘れてはいけない。韓国や台湾などで国語を奪い国家の独立性を拒否した。それに熱狂した日本国民がいたことも事実だ。平和を堅持するため最大限の努力をしなければならない。
            令和4年3月10日 記 


       「鎧袖一触(がいしゅういっしょく)」について
      
 
「鎧袖一触」とは、鎧(よろい)の袖がわずかに触れただけで、敵が即座に倒れる意から、相手をたやすく打ち負かしてしまうたとえ。このような力を身に付けて、ロシア軍を一蹴したい。ウクライナに栄光あれ。
            令和4年3月8日 記 


             「矜持(きょうじ)」について
      
 
「矜持」の意味を調べると、「誇り、自負、プライド」とある。ウクライナを侵略しているプーチンには、人間を敬う心はかけらもない。人間としての矜持がない。シリア、チェチェン、ジョージアなどで行った大量殺戮と街の破壊には言葉を失う。それがまたウクライナでも行われている。ウクライナのニュースを見るたびに悲しくなってしまう。独裁者をつくる国家の在り方が、あのような非道を許すことになる。日本も腹を決めてロシアの問題に対処しなければなるまい。
            令和4年3月4日 記 


            「五人囃子」について
      
 
今日は雛祭りである。五人囃子の並び方は能楽からているので、謡(うたい)、笛、小鼓、大鼓、太鼓の順番になる。時々間違っているのを見掛けるので注意したいものだ。しかし、現在何段にも人形を飾る家がどれほどあるのだろうか。我が家は三人とも男の子、孫も三人とも男、とんと雛祭りには縁がない。
            令和4年3月3日 記 


            「蛇蝎(だかつ)」について
      
 
「蛇蝎」とは、「蛇と蠍(さそり)、人が嫌うもののたとえ」である。「蛇蝎のように嫌われる」とよく使われる。
 今、蛇蝎ように嫌われているのがロシアのプーチンである。テレビで見るあの顔は異常である。核の使用までちらつかせている言動は、まさに常軌を逸している。ウクライナに一日も早い平和を願っている。
            令和4年3月1日 記 


            「真田紐」について
      
         
真田紐         真田紐を利用した面袋
 「真田紐」について調べると「 真田紐は、経糸 (たていと) に木綿または絹、緯糸 (よこいと) は経糸より太い木綿糸を使用した細長く平らな織物。経糸と緯糸を直角に交差させ、緯糸を強く打ち込み圧縮しながら織られるので、ほとんど伸縮性がなく、丈夫な紐として武士や庶民の間で幅広く活用された」と書いてあった。その命名は、真田昌幸・信繁 に関係するとの説もあるらしい。一般的に茶道具や能面の桐箱の紐、刀の下げ緒、鎧兜着用時の紐、帯締め・帯留用の紐等に使用されている。家では、これを使用すると格調が高くなるので、面袋の紐としている。なお、面袋の布は古い帯を使っている。
            令和4年2月28日 記 


            「暴挙」について
       
 プーチンがウクライナに侵攻した。まさに暴挙である。強大な軍事力を駆使して他国を攻めるなど愚昧(ぐまい)な政治家のなせる技である。くだらない指導者によって多くの人たちが命を奪われ、塗炭(とたん)の苦しみの中に追い落とされてしまう。今回もロシアの国益や住民を守るためなどと詭弁を弄しているが、自分とそれに繋がる一部の利益だけを追求しているらしい。
 しかし、我々も自分の国がかつてどうであったか考え直さなければなるまい。韓国併合、満州国の建国、国際連合脱退など、今のロシアと同じようなことをしてきたのである。
 他国を攻めるなどあってはならないことである。戦争は人間の最も愚かな行為である。
            令和4年2月25日 記 


「とんでもないことでございます」が正しく「とんでもございません」は誤り

 「とんでもない」を丁寧に言ったつもりだろうが、間違いである。「とんでもない」は形容詞、下記のように分解できる
    とんでもな・・・・語幹(活用しない部分)
    い・・・・・・・・活用語尾(活用する部分)
つまり、「つまらない」「少ない」と同様であり、「とんでも」で切れて、他の品詞が付くことはあり得ない。正しくは、「とんでもないことでございます」となる。それを文法的に説明すると下記のようになる。
    とんでもない・・・形容詞の連体形
    こと・・・・・・・形式名詞
    で・・・・・・・・断定の助動詞「だ」の連用形
    ござい・・・・・・五段活用の動詞「ござる」の連用形のイ音便
    ます・・・・・・・丁寧の助動詞「ます」の終止形 

 この「とんでもございません」には、有名な逸話がある。ミス日本コンクールで優勝した山本富士子が、この言葉を使ったところ、審査員から「そんな言葉はない」と一喝(いっかつ)されたそうだ。当時の審査員の教養には驚く。先日、「雲霧仁左衛門」を見ていたら、登場人物のセリフに「とんでもないことでございます」があった。脚本家の炯眼(けいがん)であろう。
 間違った言葉が、どれほど多く市民権を得るようになってしまったのかと、言葉の伝道師としては切歯扼腕(せっしやくわん)たる感がある。しかし、小生も時として、若者言葉を真似して、「はや」「言ってるし」などと言っている。何ということだ。赤面。 
     炯眼・・・物事を正確に認識する力
          令和4年2月22日 記  


            「灰燼(かいじん)に帰す」について
       
 「灰燼に帰す」とは、「燃えて跡形もなくなること」である。昨日の「英雄たちの選択」という番組で、「本能寺の変で茶道具が灰燼に帰してしまった」とあった。論功行賞に茶道具を利用したのが織田信長、彼の死とともに茶の世界が変わってゆくのである。
            令和4年2月17日 記 


            「微に入り細を穿(うが)つ」について
       
 「微に入り細を穿つ」とは、「非常に細かいところまでゆきとどくこと」という意である。似たような表現に「微に入り細に入り」がある。「微に入り細に入り説明する」などと使用する。調べたら、「微に入り細を穿つ」は名詞を修飾して、「微に入り細に入り」は動詞を修飾するとあった。
            令和4年2月16日 記 


            「破傷風」について
       
 「破傷風」とは、「傷口に感染した破傷風菌がつくる毒素によって、開口障害(口が開けにくくなること)や嚥下(えんげ)困難、排尿障害、けいれんなどをきたす病気です」とあり、死亡例も多いとのこと。さらに予報接種の効果は10年ぐらいでなくなると書いてあった。
 1月21日、柿の剪定中、左手の小指も剪定してしまいかなり深く切ってしまった。病院に行くと縫った方がいいとのことで5針縫った。さらに、「破傷風も心配なので予防接種もします」とのことであった。「破傷風」の予防接種は3回やるそうで、その日に1回目、今日2回目をして、1年後に3回目をするという。
 トラクターの転倒による死亡事故など、農業は危険に満ちている。機械を扱うので十分気を付けなくてはならない。
            令和4年2月15日 記 


            「嚆矢(こうし)」について
       
 能楽の番組で「能楽は演劇の嚆矢で・・・」と紹介していた。「嚆矢」とは「物事の始まり」という意味である。古来、中国で戦いが始まるとき鏑矢(かぶらや)を射ったことに由来する。同じ意味で、「濫觴(らんしょう)」という言葉もある。「濫觴」とは、大河も元々は杯を浮かべるぐらいの小さな流れであるということから、物事の始めを意味する。
            令和4年2月14日 記 


          「聴雪(ちょうせつ)」について
          
 希代の傑物、北大路魯山人(きたおおじろさんじん)の絶筆(昭和34年逝去)となった言葉である。「雪が降る音のように聞こえない音を聴く」 、まさに哲学の領域に達している。名人とはそうしたもので、常人には理解できない。人間国宝を固辞したことにも快哉を叫びたい。
 昨夜からの雪はいつから降り出したのだろうか。私は魯山人の境地には全然達してはいない。
            令和4年2月11日 記  


         「歯に衣(きぬ)着せぬ」について 
         
 先日、石原慎太郎が亡くなった。その評価として「歯に衣着せぬ・・・」とよく言われている。そのため問題になったことも度々あったが、分かり易い政治家であった。忖度だ、腹芸だ、派閥の論理だなどと表わされる政治の世界とは一線を画していた。だから人気があったのだろう。
             令和4年2月3日  記


            「人間の最期」について 
         
 斎藤茂吉の歌に「いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるもを」というものがある。陽が沈むように自分もいつか最期の時を迎える、ということである。
 以前、讀賣新聞にエッセイストの鳥居りんこさんの介護についての記事が掲載されてあった。彼女の母親は、「胃ろうや人工呼吸をつける治療はしてほしくない」と、入居しているホームに伝えていたそうだ。その考えを尊重し、「延命治療をするか、しないか」と決断を迫られたとき、それをしなかったと鳥井さんは吐露している。記事はさらに続く、「やがて母親は次第に水を飲むことも難しくなり、意識障害や栄養失調で苦しそうでした。(中略)あの時、延命ではなく看取りを選択したことは本当に正しかったのか。母は本当は生きたかったのではないか。事実上、私が母の命の期限を切ったことは許されるのか。腹を割って母と話していなかったので、今となっては分かりません。両親の介護体験を通して、親も子も意思が伝えられなくなる前に、どこで死にたいか、医療や介護はどうしたいか、話し合うことが大切だと痛感しました」と。
 埼玉県ふじみ野市で起きた医師射殺事件は、とても悲惨なものであった。容疑者は「胃ろうを要求したが受け入れてもらえなったことなどでトラブルがあった」と述べているという。亡くなった母親の心臓マッサージまで要求している。母親の最期の尊厳を無視した所業である。訪問診療を使命として昼夜を分かたず献身的に地域医療に貢献した医師の最期は、犯人によりズタズタにされてしまった。
 誰しもが等しく最期の時を迎える。最期の姿を他人が決定するのではなく、自分の死はどうあるべきかを考えておくべきである。そして、人間としての尊厳は守られなければならない。そうであったなら、鳥居さんのように悩まず、犯人のように常軌を逸した愚挙はしなかったろう。何よりも、亡くなった医師鈴木純一さんの最期は守られたはずである。 
 鳥居さんが、母親の最期の姿を「苦しそうでした」と述べているが、下記の本を見れば、それが大きな誤りであることが分かるだろう。

 『欧米に寝たきり老人はいない―自分で決める人生最後の医療』 (中央公論新社、内科医、宮本顕二・礼子夫妻著)より
 「スウェーデンが初めての海外視察だったのですが、食べなくなった高齢者に点滴も経管栄養もしないで、食べるだけ、飲めるだけで看取るということが衝撃的でしたね。脱水、低栄養になっても患者は苦しまない。かえって楽に死ねるとわかり、夫と私の常識はひっくり返ったのです。そして施設入所者は、住んでいるところで看取られるということも、日本の常識とは違うので驚きました。視察先の医師も、自分の父親が肺がんで亡くなった時に、亡くなる数日前まで普通に話をしていて、食べるだけ、飲めるだけで穏やかに逝ったと言っていました」
             令和4年1月31日  


          「的を得る」は間違いについて

 正しくは「的を射る」である。しかし、「的を得る」と言い間違えることが実に多い。的は射るものである。お互いに注意したい。「的を射る」と同義語に「正鵠(せいこく)を射る」という言葉がある。
            令和4年1月28日  記


          「能舞台の鏡板(かがみいた)」について
         
 能舞台の正面に描かれている大きな松の絵の羽目板を「鏡板」という。板ではなく鏡、舞台の前に立っている松が鏡に写っているという設定になっている。
 鏡板は、奈良・春日大社の「影向(ようごう)の松」と関連付けて説明されるのが一般的だ。影向とは神仏が現世に降臨すること。古来より松は神が宿る木とされてきた。能楽師は神が宿る松に背中を向けることは出来ないので、松が観客席の側に存在して、それを鏡板が映し出しているとしている。つまり、能楽師は観客ではなく神に向かって演じているのだ。
 是非一度能楽堂に足を運んで、幽玄の世界を体験してはいかがだろうか。
           令和4年1月27日  記


          「念頭に入れて・・・」」について

 羽鳥モーニングショーでコメンテーターが「オミクロン株の特徴を念頭に入れて・・・」と話していた。正しくは「念頭に置いて・・・」である。よく間違ってそのように言ってしまうことがあるが、これもやがて市民権を得て、「念頭に入れる」が正しいなんてことになってしまうのかと戦々恐々としている。
           令和4年1月18日  記


           「媚(こ)びる」について    

 先日NHKの大河ドラマで「鎌倉殿の13人」が始まった。三谷幸喜が脚本を担当すると聞き、ひどい内容になるだろうと考えていたが、まさにそのとおりであった。演出も最悪で小学生の学芸会以下である。歴史ドラマにはそれなりの時代考証があってしかるべきではないのか。北条政子のことを北条義時が「おねいちゃん」とは、視聴者を馬鹿にしている以外の何物でもない。以前はジェームズ三木が脚本を書いていたが、それに比較したら問題ではない。言葉の質が違う。NHKではターゲットを若者に絞って番組などを改編するそうであるが、新しい大河ドラマは単に若い世代に媚びるドタバタ劇に成り下がっていた。お笑いを観るためにチャンネルを合わせたのではない。堪えきれず20分でテレビを消してしまった。

              令和4年1月11日