言葉あれこれ

         「Anyone can start from scratch.」について

 「誰もがゼロからスタートできる」という言葉を見付けた。嫌なことや理不尽なことが多くある。そんな時、どんな言葉で自分を慰撫(いぶ)するのか、人それぞれだろう。
   
        
平成30年11月8日 記 


          「垂涎」について

 「すいぜん」と読み、意味は「ある物を手に入れたいと熱望すること」で、よく「垂涎の的」と使う。「すいえん」ではないが、慣用読みとして認めている辞書も多い。しかし、しっかり本来の読みに従いたいものだ。
   
        
平成30年11月7日 記 


          「日本人のDNA」について

 9月の最後の土曜日と日曜日は、例年柿がとても売れる日である。平成29年度は56袋、今年度は68袋だった(つくばと土浦の合計、1袋2個入り)。この数字は他の曜日と比較しても、極端に多くなっている。これは、暑さが一段落して柿の赤い実を見ると心がざわついて、購入しなければならないと思わせるDNAが日本人の中にあるからではないだろうか。1214年、甘柿の原種「禅寺丸」が星宿山王禅寺(現在の川崎市麻生区)の山中で発見されて以来、甘柿は秋の果物の定番になったのである。
   
        
平成30年11月5日 記 


          「残念な言葉」について

 昔の剣道の仲間が集まって、東京の中板橋で稽古を行った。稽古の後は、食事をしながら剣道談義に花を咲かせるのが恒例になっている。軽くお酒を飲みながら遅い昼食を囲むのが実に楽しい。会も終わりに近づいた頃、従業員の女性が、「そのグラス空いていますか」と尋ねていた。聞かれた後輩は、仙台まで帰る時に間に合わないと新幹線の時間の変更に専念して返事が出来なかった。そうすると、先ほどの女性が、「そのグラス空いていますか」と二度三度怒号を浴びせてきた。一瞬のうちにその場がしらけ、嫌な気分になってしまった。穏やかな後輩だったから言い合いにはならなかったが、もう少し考えた言動が出来ないものかと残念に思った。高齢化社会を迎え、耳の不自由な方も少なからずいる。現に、その中には両耳補聴器を付けている人もいた。ちょっとした言葉が相手を不愉快にさせたり、快い気分にさせたりするのではないか。人と人とのコミュニケーションを図るのが言葉なら、もう少し考えて言葉を発したいものである。
   
        
平成30年11月4日 記 
 


          「刀の区別」について

 日本刀は次のように分けられる。
  古刀・・・慶長以前に作られた日本刀。
  新刀・・・慶長元年(1596年)以降から江戸時代後期の明和元年
       (1764年)より前に作られた日本刀。
  新々刀・・・明和元年(1764年)頃から明治9年(1876年)の廃刀
       令までに作られた日本刀。
 ただし、色々な説があるので、これが最も正しいものではない。日本刀の
特徴も緩やかに変化したので、目安という感じか。
   
        
平成30年10月26日 記 
 


          「人を招く時の所作の違い」について

 イタリアでお世話になっている時、ファビオさんと一緒に書店に行った。ファビオさんが日本文化を紹介する本を見付けて、私を手招きした。その時、日本と欧米の文化の違いを認識することになった。欧米人は手のひらを上にして手招きをするが、日本人は手の甲を上にしてする。まるっきり反対だ。日本人の手招きは、欧米人にとっては「あちらへ行け
」となるそうである。
 ところで、日本人は写真を撮る時よくVサインをするが、この時手の甲を相手に見せて行うと、国によっては相手を侮辱することになるそうだ。「おもてなしの基礎英語」に出演しているハリー杉山が「おまえのかあちゃん出臍の百万倍」と言っていた。これは相当な侮蔑である。
 言葉はなくても、所作事にはそれぞれの意味がある。相手の国の文化を知ることは、相互理解に不可欠である。
   
        
平成30年10月25日 記 
 


          「撰ばれてあることの」について

 「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」、これは太宰治が、生前もっとも好んで口にしたといわれているポール・ヴェルレーヌの詩の一節である。太宰の苦悩が垣間見える。太宰治の名作『走れメロス』の書き出し「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した」が、いつまでも心を捉えて離さない。

   
         
平成30年10月22日 記 
 


              「太刀と刀」について

 よく美術館などへ行くと、日本刀の展示の仕方が違うことに気付いたことはないだろうか。刃部が下になっているものと上になっているものがある。これは太刀と刀の違いによるものである。太刀を帯びることを佩(は)くといい、刀は差すという。太刀を佩いた外側を佩表(はきおもて)」といい、原則、茎(なかご)に刀工の銘が刻まれている。一方、刀は刃を上にしたときの茎の外側を「差表(さしおもて)」といい、こちらに刀工の銘がある。つまり、展示するときは、刀工の銘が見えるようにするものなのである。太刀は馬上で使用されたため、反りが深く長いものが多い。そのため、磨上(すりあげ)られたものもある。
        磨上・・・太刀などを短くすること
 
         
平成30年10月18日 記 
 


           「世は定めなきこそいみじけれ」について

 10月13日は、組内のお葬式があった。いつも思い出すのは吉田兼好の『徒然草』の一節である。「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」、人生は不定なのがいいんだとする言葉が常に胸に迫る。
         平成30年10月14日 記 


       ベニスのマオリッツさんからのメール」について

 ベニスのマオリッツさんから次のようなメールが水田道場に届いた。
「(前略)

 I'm very grateful to Mizuta sensei to be so kind with all of us, and i'm very proud to belong to the family of Mizuta dojo.
 A particular thank to Yamazaki sensei for the lesson about tsuba and to be very strong on gi-geiko, i have to remember the tombo that never go back.

Thank you again for everything.

水田道場の一員であることを誇りに思うと記している。私にとってもマオリッツさんにとっても素晴らしい時間であった。
                    
        平成30年10月13日 記 


          「次ぐをもて家とす」について

 能を大成した世阿弥は、その著『風姿花伝』の中で「当芸において家の大事、一代一人の相伝なり。たとへ一子たりといふとも、無器量の者には伝ふべからず。家、家にあらず、次ぐをもて家とす」と述べている。「たとえ自分の子であろうとも、器量のないものにはその芸は継がせない。家を継いだものが後継者なのだ」と言っているのである。
 今日の讀賣新聞に「ユニクロを展開するファーストリティリングは柳井正会長兼社長が二人の息子を取締役にする人事を発表した」との記事が掲載されてあった。私はこの記事を読み、即座に世阿弥の言葉を思い出した。約700年間にも及ぶ歳月の中で、紆余曲折を経ながらも厳然として家をつないできた「観世家」、その背景にはその家訓があったはずである。今回のこの人事は、柳井氏が将来的に会社を自分の子どもに継がせる布石かもしれないが、それで失敗した例は枚挙に暇がない。「家、家にあらず、次ぐをもて家とす」、先人の言葉は重い。
         平成30年10月12日 記 


          「grassとglass」について

 英会話の先生に、ベニスのムラーノ島で「ヴェネチアングラス」の工房を見学してきたと伝えたら、「grass」か「glass」かと聞き返されてしまった。日本人の最も苦手な発音を指摘されたなと即座に思ったが、修正する術をもたない身としては如何ともしがたかった。しかし、ベニスで「ヴェネチアングラス」を見たと話したら、誰も「grass」とは思わないだろうと考えるのは自分だけであろうか。話は、ある程度類推しながら聞けと言われるが、あの先生にはその力がなかったのだろうと勝手に考えた。
 かつて、その工房も二千軒ほどあったが、現在は数件にまで減少しているという。中国が多額のお金を出してその作り方を習得し、安価な品物を提供しているためだという。ベニスで作るから「ヴェネチアングラス」なのにとは思ったが、そんなことも、「grass」か「glass」かと聞き返す背景にあるのかもしれない。
         平成30年10月7日 記 


          「ヤとシー」について

 オランダのアムステルダム駅にいると、あちらこちらから歯切れのよい「ヤ」「ヤ」「ヤ」が聞こえてくる。ところが、イタリアは「シー」である。日本語で考えてみるとさしずめ「はい」になるのだろう。言葉が違うのだから当然なのだが、興味深い。      
         平成30年10月7日 記 


          「チャオの回数」について

 イタリアでは、会ったときや別れのさいに「チャオ」と言う。近くでファビオさんの電話を聞いていると必ず最後に「チャオチャオ」と言っていた。ところが、剣道仲間のマッテオさんは「チャオチャオチャオチャオ」と4回言うので、「何か法則はあるのか」と質問をしたら、大笑いをされてしまった。特に法則はなく、個人の好みらしいことが分かった。海外に出ると不思議なことに出会う。      
         平成30年10月6日 記 


          「エスプレッソとエクスプレッソ」について

 お世話になったイタリアのファビオさんのお宅では、朝食には必ずコーヒーが食卓に上る。エスプレッソかカプチーノである。そんな毎日を送っている時、私はエスプレッソをエクスプレッソと言ってしまった。これではまるでつくば駅を始発にしているエクスプレスである。知ったかぶりは禁物だ。      
         平成30年10月3日 記 


          「出国と出獄」について

 9月21日からイタリアのベニスを訪れていた。帰途についたベニスの空港で、同行した草山さんに「我々はもう出獄したの」と話しかけてしまった。一回目は聞き逃してくれた草山さんも、さすがに二回目には「出国です。出獄では刑務所から出ることになります」許さなかった。必死でイタリア人の会話を聞こうとした私の脳は、かなり混乱していた。何事も冷静さを失わないことが大切である。グラッツェ、ああまだ混乱しているようだ。       
         平成30年10月2日 記 


          「ゴッホの絵」について

 幕末、日本から輸出された陶器を包んだ紙は、浮世絵だった。その素晴らしさに感動したゴッホは、浮世絵を模写している。漢字も苦労して書いたのだろうと推測できる出来映えである。言葉は分からなくても、何かを読み取ろうとしたゴッホの気概が感じられた。幕末から明治維新、日本人は自国の文化を否定したが、それを評価したのが外国人であったとは皮肉なものである。       
           
            ゴッホ アルルの「はね橋」
            クレラーミューラー美術館

         平成30年9月18日 記 


         「海外で一枚の切符を買うこと!」について

 オランダの旅は楽しかったが、移動が公的な交通機関だったので、切符を購入することに難渋した。アムステルダム(首都)に8泊して活動していたが、移動はトラム、メトロ、バス、電車だった。アムステルダムは3日間フリーパスを利用していたので、電車以外は72時間フリーで便利だった。しかし、ロッテルダム、デンハーグ、ユトレヒト、オッテルローなどに行くには電車以外になかったので、拙い英語で聞かなければならなかった。どこ行きに何番線から乗車するのか、どこで下車するのか、どこで切符を購入するのかなど初めてのことばかりで、戸惑うことが多かった。だから、目的地に着いたときにはとても安堵した。今回の旅で、改めて英会話の必要性を認識した。老いた頭には荷が重いが、さらなる一歩を踏み出さなければらない。       
           
              デン・ハーグ

           平成30年9月18日 記 


         「Strike while the iron is hot!」について

 「鉄は熱いうちに打て」という言葉は、日本の「ことわざ」だと考えていたが、実は「Strike while the iron is hot!」(イギリス)の直訳だということが分かった。「人も精神が柔軟性に富む若い時代に有益な教育を施さなければならないという意である。「NHKおもてなしの基礎英語」に上記の文が出てきた。

         平成30年9月11日 記 


          吉田兼好とゴッホ」について    

 オランダのクレラーミューラー美術館で「ひまわり」の絵を見た。その解説に、「ゴッホは咲き誇るひまわりよりも、枯れかかったものに美的なものを感じていた」とあった。これは、吉田兼好の『徒然草』(137段)に酷似していたので、とても驚いた。吉田兼行とゴッホは600年からの隔たりがあるが、その感性には共通するものがあったのである。ゴッホは、日本の浮世絵に傾倒し模写もしている。そして、構図や色彩を自分の絵の中に取り入れている。その根底には、こんな共通項があったのだと勝手に想像している自分がいた。
     
『徒然草』(137段
 「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀れに情(なさけ)ふかし。咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見所おほけれ」

         平成30年9月10日  記



          矜持(きょうじ)」について    

 「矜持」」とは、「誇り、自尊心」のことである。現在、あまり使われなくなった言葉ではあるが、心に留めたいものだ。「驕(おご)りや不遜(ふそん)な態度」は顰蹙(ひんしゅく)ものだが、よりよく生きるためには矜持が必要だ。本当に力量がある人は、他人に対して決して威圧的にならない。威圧的になる必要がないのである。なぜなら人間性に魅力を感じ、必然的に多くの人が集まるからである。そのような人は、強い矜持をもち力強く人生を歩んでいる。
         平成30年8月17日  記



          歳寒(さいかん)の三友」について    

 「歳寒の三友」」とは、「松、竹、梅」の3種を指す。いわゆる「松竹梅」である。それぞれが冬の厳しい寒さに耐えて、きりりと立つのをよしとしている。能舞台にも鏡板に老松が切戸口の周りに竹が描かれている。
         平成30年8月14日  記



          四君子(しくんし)」について    

 「四君子」とは、蘭、竹、菊、梅の4種を、草木の中の君子として称えた言葉である。「蘭はほのかな香りと気品を備え、竹は寒い冬にも葉を落とさず青々としている上、曲がらずまっすぐな性質を持っている。梅が早春の雪の中で最初に花を咲かせる強靱さ、菊が晩秋の寒さの中で鮮やかに咲く姿が好まれた」(ウィキペディアより)とあるように多くの人に好まれ、古来より画題にもなった。剣道でも、気位や気品はよく使われる言葉だ。剣道も 「四君子」の姿を参考にできないものであろうかと考えたら、実に哲学的である。
    
       かつての菊作り  平成18年10月26日撮影
           平成30年8月13日  記



          芸者」について    

 英会話でよく能面を話題に取り上げているが、小面(こおもて)を見せると、決まって「芸者か」と質問をされる。「15歳ぐらいの可愛い女性だ」といつも答えるようにしているが、それだけ知られている言葉なのだろう。多くの観光客が来日している今日でも、日本といえば「侍、芸者、すきやき」と考えている外国人も多いはずだ。それでは、我々が相手国のことをどれだけ知っているかというと甚だ疑問である。英会話の国々もセルビア、マケドニア、ウクライナ、アルバニア、アルメニア、ボスニア・ヘルツェゴビナと多岐にわたる。それまで、それらの国がどこに位置しどのような歴史的な背景があるかなど、ほとんど知らなかったと反省をしている。
 正しい日本を理解してもらうために、英会話の中で日本の伝統文化として「能楽、剣道、居合道」などがあると、稚拙な英語を駆使して発信している。どれだけ相手に伝わっているか怪しいものだが、日本の国際化に貢献しているのだと考えるのは大袈裟であろうか。
         平成30年8月11日  記



          間髪を入れず」について    

 「間髪を入れず」を多くの人が、「かんぱつをいれず」と読んでいるはずだ。間に髪一本も入れないほどの短い間という意味で、「かんはつをいれず」と読む。「かん、はつをいれず」と句点を入れるような感じで読むのがいいかもしれない。先日、NHK教育「おもてなしの基礎英語」を見ていたら、出演者の一人が「かんぱつを入れず・・・」と発言していた。よく間違える言葉である。正しく使いたいものだ。以前、NHKの大相撲中継を見ていた時、アナウンサーが「かんはつをいれず」と実況していた。さすが、NHKと感心した覚えがある
         平成30年8月10日  記



         「Can you speak English?」について

 私は長い間、「Can you speak English?」と尋ねるのが正しい方法だと思っていたが、失礼な言い方だと勘違いされることもあるという。「あなた、本当に英語話せるの?」というニュアンスになることがあり、上から目線の言い方だと誤解されるらしい。「Do you speak English?」が適切だ(『NHKおもてなしの基礎英語』)と書いてあったので、他のDVD(『おとなの基礎英語』)で確認したところ、そこでも「Do you speak English?」と質問していた。学ぶということは、新しい発見をすることでもあり、自分の間違いに気付くことでもあるんだと改めて感じた。

         平成30年8月7日 記 


         「伸るか反(そ)るか」について

 「伸るか反るか」は、「いちかばちか」という意で「伸るか反るか行動を起こす」などと使う。矢を作る時、竹を型に入れて反りを直す作業をした。取り出した矢が、真っ直ぐになっていれば使用できたが、反りのあるものはできなかった。「伸るか反るか」は、唾(かたず)を呑んで見詰めていた職人の気持ちを表したものである。だから、「乗るか反るか」が誤りなのは、一目瞭然である。

         平成30年7月28日 記 


         「縮痾(しゅくあ)」について

 讀賣新聞の「編集手帳」に「先頃国会で成立したカジノ法の評判が芳しくない。(中略)国内外から客が詰めかけ地域にお金を落としてくれたとしても、破滅する人は必ず出てくる。そうした賭け事の縮痾への嫌悪も多分に含む国民の声にちがいない」とあった。「縮痾」とは、「長い間治らない病気」の意である。すでにあるパチンコ、競馬、競艇、競輪などを考えれば、日本はギャンブル大国である。これ以上そのようなものを増やして何の意味があるのだろう。自民党は、どうやら日本を賭博大国にしたいらしい。観光立国を標榜するなら、もっと違うかたちがあるはずだ。

         平成30年7月26日 記 


         「すべからく」について

 「すべからく」とは、「須く」という再読文字(二度読む漢字)からきている。「人須く礼儀を重んずべし」の文中にある「須く・・・べし」が再読文字である。「当然・・・のはずである」という意になる。「学生はすべからく勉強に励むべし」などと使う。ところが、「販売された飲み物は、すべからく完売した」などと近年間違った使い方をしていることが多い。この場合は、「すべて」の意味で使われていて誤りである。間違いを指摘する時は、時と場所を考えないと思わぬ反撃を食らうことになるので、注意が必要だ。

【参考】
 すべからく【須く】(副) 〔漢文訓読に由来する語。「すべくあらく(すべきであることの意)」の訳。下に「べし」が来ることが多い〕ぜひともしなければならないという意を表す。当然。「学生は―勉強すべし」〔古くは「すべからくは」の形でも用いられた。近年「参加ランナーはすべからく完走した」などと,「すべて」の意味で用いる場合があるが,誤り〕「大辞林 第3版」
         平成30年7月24日 記 



         「大暑」について

 「大暑」とは、「二十四節気の一。7月23日ごろ。一年のうちで、最も暑い時期。」(デジタル大辞泉)である。まさに大暑、41.1℃を熊谷市で記録した。気象庁は、「災害と認識」との公的な発表も行った。日本のあの緩やかな季節の変化は、どこに行ってしまったのだろう。こうなると東京オリンピックが心配だ。誰が決めたのか、災害の中でオリンピックを開催することになる。選手第一ではなく、商業主義に陥った醜いエゴが垣間見える。
 「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」(村上鬼城)、くれぐれも熱中症対策を怠りなく。
         平成30年7月23日 記 


         「看過できない」について

 「参院定数を6増する改正公職選挙法の成立」「カジノ法案」など自民党の暴挙が続いている。それに対して野党の党首が「・・・看過できない」と話していたが、野党がしっかりしていないと国家百年の大計を誤るおそれがある。「カジノ法案」など論外である。外国人観光客が増えているが、その人たちの目的は、伝統文化、自然、芸術、食などであるはずだ。7万人の雇用を生み出すなどと豪語しているが、それを越えた負の部分を見逃してはなるまい。日本を博打の国にしてよいのか、まさに看過できない問題だ。
         平成30年7月19日 記 


         「突然の突風」でいいのか

 NHK水戸放送局が午後8時45分からのニュースの中で、「雷や突然の突風に・・・」と流していた。「突風とは、突然吹き起こる強風」のことである。これは、重複表現である。強い違和感を覚える。
 頭痛が痛い 鉄の鉄橋 馬から落馬する お金を入金する 
         平成30年7月14日 記 


         「幕間」の読み方について

 「幕間」は「まくあい」と読む。「演劇で、一幕が終わって、次の一幕が始まるまでの間」のことを指す。「あい」という読み方が表外読み(常用漢字表にない読み方)のため、間違いやすい。能楽の間狂言(あいきょうげん)、菊の品種の間管(あいくだ)、寄席の間囃子(あいばやし)などの言葉がある。表外読みは「平仮名書き」とすることが一般的らしいが、「あい狂言」と記載したら、それこそ間(ま)が抜けている感じがする。読めなければ、ルビを付ければいいだけのことであり、軽々な判断は日本文化の衰退に繋がる。
        平成30年7月12日 記 


         「おもてなしの基礎英語2」から

 NHK教育テレビが「おもてなしの基礎英語」で、「I'll give you a hand with that(それお手伝いしますか) 」の文が出てきた。直訳すれば「手をかしますか」ということになる。英語でも日本語でも、手伝うことを「手をかす」と言うんだと、とても不思議な気持ちになった。言葉は違っても考えることは同じだ。そう考えると宗教だ、政治だ、国益だと国と国とが争っていることは、馬鹿げたことではないだろうか。
        平成30年7月11日 記 


         「承(うけたまわ)る」について

 「承る」は謙譲語(自分の行動をへりくだる言葉)である。よって、部下が上司に「・・・の件、承っていますか」とは言うことができない。この場合は「ご存知ですか」とか「お聞きお及びでしょうか」となる。もちろん、「承っていらっしゃいますか」などは論外(謙譲語に尊敬語をつけても敬語にはならない)である。
 「ご存知ですか」に似た表現で「存ずる」があるが、これは謙譲語である。「それについては存じております」などと使用する。様々な場面で適切に使わなければならないのが、敬語である。
        平成30年7月10日 記 


         「おでこ」について

 NHK朝のニュースで、広島の氾濫した川の近くから中継したアナウンサーが、「気温が上昇してきて、立っていてもおでこに汗が・・・」と話していた。「おでこ」は、あくまでもくだけた言い方であり、その場に相応しくないと感じた。「額」が適切だろう。
        平成30年7月9日 記 


         「おもてなしの基礎英語」から

 NHK教育テレビが「おもてなしの基礎英語」と称して、ドラマ仕立ての英会話の番組を放映している。その中で、出演者のハリー杉山(日本生まれのイギリス育ち)が、「toiletは直接的なのでlavatoryかlooを使用する」と言っていた。さらに、「Where do I wash my hands?」といった婉曲的な表現があると紹介していた。そういえば、日本でも、「便所」とは言わず「厠やお手洗い」などと別称で言うこともある。洋の東西を問わず、考えることは同じなんだと感じた。
        平成30年7月8日 記 


         「英会話の講師から送られてきた言葉」について

 毎日25分の英会話に四苦八苦している。先日、オランダの画家(ゴッホ、ロイスダール、レンブラント、フェルメールなど)の話になった時、こんな英文を送ってきた。「Many artists from that country played a major role as inspiring people in my life.」(その国の多くの芸術家が、私の人生に影響を与えるという大きな役割を演じてきた)。パソコンの向こうにいて(セルビア)一度も会ったことのない人ではあるが、感動を共有できたような気がした。言葉とは不思議なものだ。
        平成30年7月7日 記 


         「月の名」について

 
今日の讀賣新聞「四季」の欄は、松尾芭蕉の「手をうてば木魂(こだま)に明(あく)る夏の月」の紹介であった。この月は「二十三夜の月」だということだ。「そろそろ夜も白みはじめるだろう。夏の青い夜空を走るこだまが目に見えるかのような一句」との解説も掲載されてあった。私のもっとも敬愛する俳人である。

 月の名前は「満月」ばかりではない。それぞれに名前があり、漆黒の闇の中で月を待ちこがれた気持ちがよく分かる。
  十六夜の月(いざよいのつき)
   「いざよい」はためらう意。日没後、出るのをためらう月。
  立待月(たちまちづき)(新月から17日頃)
   日没後、立って待っていても見られる月。
  居待月(いまちづき)(新月から18日頃)
   座っていないとくたびれるくらい月の出るまでに時間がある月。
  臥待月(ふしまちづき)(新月から19日頃)
   横になって待っていないと出ない月。寝待月(ねまちづき)ともいう。
  更待月(ふけまちづき)(新月から20日頃)
   夜が更ける頃に昇ってくる月。
  二十日余りの月(新月から22日頃)
  二十三夜月(新月から23日頃) 
 吉田兼好も『徒然草』の中で、ある女性の行動を「なほ、事ざまの優に覚えて、物の隠れよりしばし見ゐたるに、妻戸をいま少し押し開けて、月見るけしきなり。やがてかけこもらしまかば、口をしからまし。あとまで見る人ありとは、いかでか知らん。かやうの事は、ただ、朝夕の心づかひによるべし」(32段)、「花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雨にむかひて月をこひ、たれこめて春の行方知らぬも、なほ哀れに情(なさけ)ふかし」(137段)と述べている。
 月は、日本人の美意識にとってかけがえのないものであった。
        平成30年7月5日 記 


         「漢字の書き方読み方」について

 桂歌丸が亡くなり、テレビでも生前の姿を放映していた。ある落語家が発した言葉を字幕で「人の最後」と記載していた。これは「人の最期」である。また、今朝の「あさチャン」では、「サッカーの日本チームは・・・模範」の「模範」を「きはん」と読んでいた。どこから、そんな読み方が出てくるのか聞きたかった。視聴率ばかりに拘泥して、局もアナウンサーも自己研鑽を怠っているのではないか。
         平成30年7月4日 記  


         「念頭に入れて・・・」は間違い

 ある番組で講師が「・・・念頭に入れて・・・」と話していた。正しくは「念頭に置いて・・・」である。間違って上記のように言ってしまうことがある。これもやがて市民権を得て、「念頭に入れる」が正しいなんてことになってしまうのかと戦々恐々としている。いつもこのように人の間違いばかりを探していると、「では、貴方はどうなの」と言われそうである。他山の石として我が身を正しているのであるが、密かにほくそ笑んでしまうこともある。そうそう「他山の石」の使い方もご注意を!
  他山の石
 「他山の石、以(もっ)て玉を攻むべし」、よその山から出た粗悪な石も自分の玉を磨くのに利用できるの意から、他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなりうることのたとえ。 (大辞林)間違っても「上司の言動を他山の石として」などと使ってはなりませぬ。
         平成30年6月29日 記  


          六道」について 
   
 組内でお葬式があり、六道を務めた。昔と違い埋葬するための穴を掘ることはないので、気分的には楽であった。「六道」とは「仏語。衆生がその業(ごう)によっておもむく六種の世界。生死を繰り返す迷いの世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。」(デジタル大辞泉)となる。また、「六道の役割」として次のような説明もある。
 「六道の役割について」
 陸尺(ろくしゃく=六尺、または六道)呼ばれる役割があり、棺かつぎや墓穴を掘る人のことで、重要な役目であったことから墓から帰ってくると一番風呂に入ってもらい、酒でもてなしたりしていました。現在茨城ではほぼ100%が火葬であるため墓穴掘りはしませんが、墓地へ遺骨を運んだり納骨の手伝いをして、世話役となっている地域があります。陸尺は作業しやすいように喪服ではなく作業服を着、組内で役割が順に回ってくることが多いようです。

 ところで、吉田兼好は『徒然草』の中で「 あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ。」と人生の無常を述べている。お葬式に参加すると、常にこのくだりが脳裏に浮かんでくる。
         平成30年6月27日  記


          大地震」「大舞台」はどう読む? 
   
 「だい」か「おお」かは、迷うところである。「NHKことばのハンドブック」を参考にして考えてみると分かり易い。日本語は難しい。

NHKことばのハンドブック
 接頭語「大」のつくことばで、読みが(ダイ)か(オー)か、よく迷うところですが、これには一般的な決まりがあります。原則として、「大」のあとに漢語(音読み)がくると(ダイ)、「和語」(訓読み)がくると(オー)です。
例えば・・・
  (ダイ) 大英断 大音声 大草原 大打撃 大接戦 大洪水など
  (オー) 大金持ち 大酒飲み 大入袋 大通り 大売り出しなど
しかし、「大地震」の場合は例外的に(オージシン)と読む慣用がありました。このほか、次のことばも「大」のあとに漢語(音読み)がきていますが、慣用的に(オー)と読むことになっています。「大火事」「大御所」「大道具」「大所帯」「大騒動」「大相撲」など。

 『方丈記』に、「おびただしき大地震(おおなゐ)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋(うず)み、海はかたぶきて陸地(くがち)をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖(いはお)割れて、谷にまろび入る。渚こぐ船は、浪にたゞよひ、道行く馬は、足の立處をまどはす。」とある。やはり、大地震は「おお」となっている。

 昨日、サッカーの試合についてコメントを求められた解説者が「・・・ワールドカップの大舞台で・・・」と発言していた。ところが、「大舞台」を「だいぶたい」と発音したのである。この「大舞台」の読み方は、「おおぶたい」である。間違って読むことのないようにしたい。

(参考)
NHK文化放送研究所
 現在、「大舞台」の読みについては、「「晴れの場・活躍の場」の意味の時は①「オーブタイ」②「ダイブタイ」、古典芸能の場合は「オーブタイ」(×「ダイブタイ」)」として、「オーブタイ」を推奨の読みとしています。しかし、実は一時期、「活躍の場」の意味の場合は、「ダイブタイ」の読みのほうを推奨としていたことがあります。昭和63年と平成3年に行った調査で、「ダイブタイ」と読む人が8割近くいたことなどから、第1121回放送用語委員会(平成5年)で審議し、「活躍の場」の意味では「ダイブタイ」、古典芸能の場合は「オーブタイ」と、意味による読み分けをすることにしたのです。しかし、近年「大舞台」という語がかなり使われるようになった結果、「オーブタイ」が伝統的な読みであり、「ダイブタイ」は誤用であるという意識が広がりはじめ、放送で「ダイブタイ」を使うと「オーブタイ」の間違いではないか、などといった問い合わせを多く受けるようになりました。また、国語辞書も、「ダイブタイ」の読みを載せている辞書はありませんでした。そこで、第1275回放送用語委員会(平成17年)で、再度検討し、推奨の読み方を「オーブタイ」に戻すことにしたという経緯があります。当時の用語決定報告でも詳しく示されています。参考にしてください。
         平成30年6月26日  記



       「居られます」について

 教育評論家の尾木直樹(通称尾木ママ)が、ニュース番組で「・・・が居られます」と言っていた。これは間違いである。
    「居」・・・下一段活用の動詞の未然形 謙譲語
    「られ」・・尊敬の助動詞「られる」の連用形
 謙譲語に尊敬の助動詞を付けても、尊敬語にはならない。謙譲語は自分の行動をへりくだる表現だからである。この間違いが実に多い。
           平成30年6月25日 記  


       「I agree.」について

 英会話では様々なことを話題にしている。農業、能面、家族、旅行、剣道など。先日昇段試験について話した時、「The process is more important than the result.(過程は結果よりももっと大切だ)」と言ったら、「I agree.(賛成する)」と判で押したように返ってきた。言葉は違っても、考え方は共有できるものだと改めて感じた。
           平成30年6月23日 記  


       「百聞は一見に如かず」について

 先日NHKの英会話講座を見ていたら、「A picture is worth a thousand words」という文をやっていた。日本語に訳すると「百聞は一見に如かず」となるという。なるほどと妙に納得した。どの国にも同じような考え方があるものだと感心しながら、言葉の不思議さを感じた。
           平成30年6月13日 記  


       「英会話から世界が見えてくる5」について

 つくばのララカーデンの「わくわく広場」に果樹を卸している。現在販売しているのは梅である。梅に値段を付けて店頭に並べるまでが、私の仕事だ。その後は、珈琲を飲むのも食事をするのも、私の心次第である。つくばまで足を伸ばすと、きまってそんな虫が騒ぎ出す。
 私のお気に入りは、二階のインドカレー店だ。経営者はネパール人で、ナンがもちもちとしてとても美味しい。従業員さんは英語が堪能なので、英語で話すように先日お願いした。ちょっとした英会話の練習である。その方が、帰国した時レストランで「すみません」と無意識に言ってしまったと話していた。日本に住んで13年、すっかり日本語が身に付いて、英語を忘れてしまうとも言っていた。かたや英会話に悪戦苦闘していて、かたや日本語が上手になっている。世の中は様々である。
           平成30年6月10日 記  


       「英会話から世界が見えてくる4」について

 現在、4カ所で梅を販売している。それに合わせて英会話でも梅ジュースや梅干しの話を取り上げている。おにぎりを作る時、中に梅干しを入れ海苔で包むのだと話して、海苔を知っているかと聞くと、全員知っていると返答してくる。驚いたことにどの国にも日本食のレストランがあり、そこで寿司を食べているのである。ちなみに海苔は「seaweed」である。しかし、その日本食レストランで提供される食べ物が、我々が食べているようなものかどうか、にわかには信じがたい。
           平成30年6月9日 記  


       「巨人の4番」について

 先日巨人の岡本が4番に就いた。案の定、翌日の新聞には「第89代の4番打者・・・」と記載されてあった。巨人以外で、このように第何代などと言っているチームがあるだろうか。聞いているこちらが恥ずかしくなってしまう。優勝もできない、他のチームから優秀な選手を引き抜くばかりで若手を育てようとしない、過去の栄光に幻影を抱いている巨人。落城著しい現状をしっかり認識して、このような時代にそぐわないことは即座に止めたほうがいい。このように痛烈に批判する私は巨人ファンである。
           平成30年6月4日 記  


       「英会話から世界が見えてくる3」について

 今日の英会話で、日本武道館に剣道の稽古に行ったことを取り上げた。そこに行くためには、3回乗換をしなくてはならない。そのことを話すと、間髪(かんはつ)を入れず「Are they punctual?(電車は時間どおりにきますか)」と質問してきた。このことは、以前も聞きかれた。穿(うが)った見方をすれば、その国(セルビア)では時間どおりに電車が来ないことが日常的なのだろう。日本にいると電車は時間どおりに来ると思いがちではあるが、決して世界標準ではない。でも、やはり電車は時間どおりであってほしいものだ。
           平成30年5月26日 記  


        「自己犠牲」について

 三島由紀夫と石原慎太郎が「男らしさ」について談じた時、それについてどのように考えているか紙に書いて同時に出そう、となったそうである。いみじくも二人が書いたのは「自己犠牲」であった。しかし、この言葉は今の日本では死語になってはいないか。国の長にしても、どこかの大学のある部の前監督にしても、まったく同系列にある。自分自身が関与もしくは発言しているにも拘わらず、部下や学生の責任にして自分は頬被りてしてまっている。情けないことだ。 
           平成30年5月24日 記  


        「給桑(きゅうそう)」について
 
  皇后様が最後の給桑(蚕に桑の葉を与えること)を行った、と讀賣新聞が掲載していた。「皇后の養蚕は明治天皇の后だった昭憲皇太后が始め、歴代皇后に受け継がれており・・・」とは意外であった。古来より営々と受け継がれてきたものだと思っていた。
 ところで、桑の葉というと「桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな」(水原秋桜子)の俳句を思い出す。いかにも夏らしい句ではあるが、桑畑もほとんど見かけなくなってしまった。 
           平成30年5月22日 記  


        「字幕」について
 
  NHKの「西郷どん」を見て驚いた。奄美大島の言葉に、なんと字幕が付いていたのである。西郷隆盛が流された奄美大島での出来事を描いている場面ではあったが、字幕がなければ理解できないほどではなかった。同じ日本の言葉を字幕で放映しなければならないほど、日本人は無能になってしまったのか。NHKの放映の仕方にも憤懣やるかたない。せっかくの薩摩弁も色褪せてしまう。
           平成30年5月20日 記  


    「辻褄(つじつま)が合う」について
 
  「辻」は着物の縫い目の十字に合う部分のこと、「褄」は着物の裾の両端のこと。どちらもしっかり合っていること合が大切だ。そこから、道理に合っていることを「辻褄が合う」と言うことになった。感情的に話すと辻褄が合わなくなるから気を付けたい。
           平成30年5月14日 記  


    「齟齬(そご)」について
 
  ある雑誌の記事に「報道の記事には齟齬がつきものだし、史料の文言にも、矛盾はまぬかれない。そこをつきつめて考え、正確な事実を復元するのが、われわれ歴史学の仕事である」とあった。「齟齬」は「そご」読み、「物事がくい違って意図したとおりに進まないこと。また、そのくい違い」という意である。書けないまでも、読めるようにしておきたいものである、日本人なのだから。
           平成30年5月10日 記  


    「相槌を打つ」について
 
 英会話で毎日セルビアの講師の方と話をしているが、適切に相槌を打ってくることに感心している。日本人ではこうはいかないだろうとよく考える。ところで、「相槌を打つ」とは、「相手の意見に頷いて調子を合わせる」という意で、刀などを作る時、師匠が打つのに合わせて弟子が槌を打ったことが語源である。 童謡 「村のかじや」にも「しばしも休まず槌うつ響き 飛び散る火花よ走る湯玉」と歌われている。蛇足になるが、「相槌を入れる」と昨今耳にすることが多くなったが、誤りである。
           平成30年5月9日 記  


    「惹起」について
 
 国民民主党が発足したが、野田佳彦前首相は参加しなかった。その理由の中に「惹起」という熟語が使われていた。その意味は「事件や問題をひきおこすこと」である。こんな言葉も、やがて消えていくのだろうか。
           平成30年5月7日 記  


    「英会話」から世界が見えてくる2
 
 先日胃カメラの検査をして、その結果が出た。心配したが、それは杞憂に終わった。そんなことも英会話の話題にしている。その流れの中で、講師の方(セルビアの20代前半の女性)にご両親はお元気ですかと尋ねたら、一人は二年前に母親を亡くしもう一人は三年前に父親を亡くしていた。おそらく二人とも50代と考えられる。調べてみたら、平均寿命が日本とセルビアでは10歳以上も違っていた。日本では100歳時代などと言われているが、世界的にみるとそれは普通のことではない。我々は何不自由なく生活して生を享受しているが、その生を無駄にしてはいないだろうか。時代の趨勢の中でインターネットを使って、一昔前なら決して会えない海外の人とリアルタイムに話ができるようになった。茨城にいても世界が具に見えてくる。自分の立つ位置をしっかり考えたいものだ。
           平成30年5月4日 記  


    「日本語が聞こえない」について
 
 4月30日、久しぶりに金閣寺を訪れた。しかし、そこはさながら外国であった。飛び交うのは、英語、フランス語、スペイン語、中国語、韓国語、タイ語(はっきりとは分からないが)ばかりであり、日本語があまり聞こえない。日本人が小さくなっている姿に隔世の感を覚えた。あのしっとりとした京都の風情はどこかにいってしまったようだ。そんな中、7ケ国(オマーン、カナダ、アメリカ、スイス、台湾、中国、イタリア)の人たちと会話(6割ぐらいの理解)をしてみると、彼らが一様に「日本人はfriendlyでkindだ」と返答してくるのが救いだった。東京オリンピックに向けて、益々多くの外国人が日本を訪れるであろう。そのためには多くの課題を解決する必要があるようだ。
           平成30年5月3日 記  


    「師事と私淑(ししゅく)」について
 
 師事は「師として尊敬し、教えを受けること」、私淑は「直接に教えは受けないが、ひそかにその人を師と考えて尊敬し、模範として学ぶこと」である。間違いやすいので、注意が必要だ。
            平成30年4月28日 記  


    「親譲り」について
 
 夏目漱石の『坊っちゃん』は、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」と始まる。坊っちゃんの性格は親から譲り受けたものであり、それ以外のものでない。
 今朝、TBSテレビが、楽天のオコエルイの妹オコエモニカを紹介していた。彼女は運動神経が良く、バスケットをしている。アナウンサーが「兄譲りの運動神経で・・・」と紹介していた。それでは、オコエモニカの父親はオコエルイかよ、と言いたくなってしまった。ああ、残念。
            平成30年4月25日 記  


    「日本語と英語」について

 昨日、日本武道館の合同稽古に参加した。突然「網代先生はどちらにいますか、漢字が難しくて読めないんです」と外国の方から声をかけられた。「Unfortunately, I can't confirm him」と返しながら、これはチャンスとばかり話しかけた。「Where are you from?」「ベルギーです」、「How long have you been staying in Japan?」「2年間です」、「How long have you been practicing kendo?」「12歳からですから11年目です」、「Where did you start to practice kendo?」「フランスです」、「What degrees do you hold in kendo?」「4段です」と。英語で話しかけているのは日本人である私、日本語で答えているのはベルギー人である。これはもしかしたら逆ではないかと、疑問がわいてきた。
 昨夜、ニュースの解説でおなじみの池上彰が、「英語を幼いうちから学ばせるのは反対だ。そうすることによって、どっちつかずの人間になってしまって駄目になる。論理的な思考力は、やはり母国語によって磨かれる」と言っていた。国語力がないために、数学や理科の問題が解けない生徒が増えているとも危惧していた。藤原正彦も「なぜ国語が初等教育の中心であるべきか。一番目の理由は、言語を学ぶという目的があるからです。生活をするうえでも学問をするうえでも、国語はすべての出発点です。二番目は、国語をきちんと学ぶことで論理的思考能力が身についていくからです。算数や数学の先生は、算数や数学を勉強することで論理的思考ができるようになると言いますが、それはウソ。それが証拠に、数学者の多くが論理的ではありません。」と述べている。子どもたちに幼いうちから名文に親しませ、しっかりと日本語の基礎を身に付けさせることは日本の将来に関わることだ。
 65歳から英会話を始めた私は、爛れた脳みそに活を入れながら、日々悪戦苦闘している。毎日25分の英会話の時間は、苦痛そのものである。なぜもっと早く始めなかったのかと後悔しているが、日本語を身に付けてからという論理には合致している。そのように己を正当化して、今日もセルビアのお姉さんとの格闘が続く。
            平成30年4月17日 記  


    「土俵の女人禁制」について

 先日舞鶴市の大相撲巡業で、市長が挨拶中に倒れ意識不明に陥った。応急処置のために土俵に上がった女性に、土俵から下りるようにとのアナウンスがされた。市長は一命は取り留めたものの、一ヶ月間の入院安静が必要だという。人間の命以上に大切なものはないと考えれば、神事や伝統などは問題ではない。突発的な出来事に対処しようとした女性が、どうして土俵を下りる必要があろうか。「女人禁制」が問題なのではない、既成の概念に拘泥し事の本質を理解できないことにある。今回のことも大相撲協会の一連の不祥事の延長にある。伝統に胡座をかき、改革を実行しない帰結だと言っても過言ではないだろう。      
         平成30年4月6日 記  


    「台湾」について

 台湾に行ってきた。英会話に日々努力している我が身としは、是非ともこの機会を逃すまいと意気込んでいた。しかし、現実はそう簡単ではなかった。ホテルや観光地で英語で話しかけても、日本語で返されてしまうのである。日本人であることが見透かされてしまっていたのだ。もちろん、背景には訪れる人の90%が、日本人であるということもある。日々日本語を使うことが求められてきたのであろう。有名な小籠包(しょうろんぽう)のお店では、胸に日本の国旗を描いたバッチを付けた女性が忙しく働いていた。聞いたところ日本語が話せる印で、大卒の初任給が10万円ほどなのに、2万円の給料の加算があるということであった。当然アメリカや韓国のバッチを付けている従業員もいた。限られた国土の中では、このような努力も必要なんだろうと改めて考えさせられた。
 台湾の英語事情を聞いたところ、日本と同じで勉強はするが話せないのが現実らしい。少子化に伴い小さいうちから英語を習わせている家庭が増えてきた、とガイドさんが言っていた。そういえば、エレベーターの中で「何歳ですか」と英語で尋ねたら、「six」と返ってきた(ここでも英語を話そうとする私の涙ぐましい努力が垣間見える)。
 長く日本の植民地にありながら、台湾は親日国である。「あの橋もこのビルもあの鉄道も日本のお陰でできました」と感謝の言葉を述べていたのはガイドさんだった。彼女もまた日本の占領下に育った祖父(小学校では日本語の教育を受けた)の影響を受けて、日本の大学に留学したと話していた。ホテルでレストランでお店で、多くの方が日本語を話すからといって、それに甘んじてはいけない。過去の不遜な歴史を忘れてはならない。未だに従軍慰安婦だのと言っている国とは違って、安心できる国であった。      
         平成30年3月28日 記  


    「金泥」について

 今日の讀賣新聞に「金泥に舟を描きぬ水ぬるむ」(武藤紀子)という俳句が掲載されてあった。その中に「金泥」とあるが、これは金粉(純金を粉にして作る)を膠液で溶かしたものである。金粉は金相場にも左右されるが、0.4グラムで4,000円ほどする。面(おもて)の作成には、これを日常的に使用する。下記の面にはそれぞれ2袋ほどの金粉が使用されている。以前、代用品を使用したこともあったが、純金の輝きには勝てない。やはり、似非(えせ)では駄目なのである。これは何事も同じだろう。
      
         平成30年3月23日 記  


    「英会話」から世界が見えてくる1

 昨日の英会話の講師は、セルビアの26歳の男性であった。「職業は」と聞いたら、「英会話の先生」と答えてきた。私は、英会話の講師はほんのアルバイト程度かなと考えていた。というのも、英会話の月謝は月5900円だからである。1日に換算すると200円弱で、25分のレッスンを受けられる仕組みだ。そうすると、講師の手にはどんなに多く見積もっても、一回につき150円は入らないであろう。1日14コマ(7時間)入れても2,100円、1カ月で65,000円ぐらいにしかならない。どんなに物価が安くても厳しい生活には変わりはないはずだ。
 若者の失業率が20%で、彼は大学を卒業後、仕事を見付けたが就職できなかったと話していた。日本は人手不足で、廃業する企業もあるという。日本だけにいると、この生活が当たり前だと思いがちだが、世界的に見ると様相は一変する。自分たちの生活を見直してみる必要があると考えさせられた。
         平成30年3月19日 記  


    「怒り心頭に発する」が正しく、「怒り心頭に達する」ではない

 「心頭」は、「心」という意味で「心と頭」ではない。だから、怒りが心からわいてくるという意味になる。昨日の「相棒」の中で、杉下右京が何度か「怒り心頭に発する」と言っていた。それはよかったのだが、内容があまりにも荒唐無稽過ぎて嫌になった。「相棒」はメルヘンだと思いながらも、怒り心頭に発した。
         平成30年3月15日 記  


     「卒業式」について

  
校塔に鳩多き日や卒業す    中村草田男
  梅香る父母に感謝の門出かな   山崎 淳一

 
今日は茨城県の多くの中学校で、卒業式が行われる。卒業式、正式には「卒業証書授与式」である。日本人は言葉を短くすることが好きなので、こうなるのだろう。穏やかで厳粛な卒業式になることを願うばかりだ。
 ところで、平成元年度の卒業生は48、010名いたが、平成29年度は25、358名まで減少している。これは、茨城県に限ったことではなく、日本全国あまねくそうである。人口減少は、高齢化、労働人口の減少、空き家の増加、年金制度の存亡、地域社会の崩壊など様々な問題を引き起こしている。大所高所から政治的な施策を講じなければならなかった問題である。一部の政治家を守るために、公文書の書き換えなどやっている場合ではない。喫緊の課題が多くあるのに、劣悪な政治家(せいじやと呼びたい)が何と多いことか。切歯扼腕(せっしやくわん)するばかりだ。
          平成30年3月13日 記 


     「知っていること」と「教えること」について

 昨日の英会話は最悪であった。私はあまり理解できないので、「初心者なのでゆっくり話してください。難しい言葉は理解できません」と伝えている。ところが、相手の講師は一方的にまくし立てるだけで、一向にこちらに合わせようとしない。会話の途中にも何度か「英語が理解できないので、ゆっくり話してください」と訴えたが、改善されることはなかった。「教えること」を自分の知識を最大限に与えることだと誤解しているようであった。相手の状況を具に理解して、どの程度なら可能なのかという判断ができない人らしかった。理解できなければ、相手の目線に立って平易な言葉に置き換えることが大切なのである。やはり、「知っていること」と「教えること」は、根本的に違う。
 教育界の大先達である大村はまは、『教えるということ』の中で「教師として子どもへの愛情というものは、とにかく子どもが私の手から離れて、一本立ちになった時に、どういうふうに人間として生きていけるかという、その一人で生きていく力をたくさん身に付けられたら、それが幸せにしたことであると思いますし、付けられなかったら子どもを愛したとは言われないと思います。親も離れ、先生もなくなった時、一人で子どもがこの世の中を生き抜いていかなければなりません。その時、ことばの力がなかったら、なんとみじめでしょうか。国語の教師としての私の立場で言えば、その時、ことばの力がなかったらいかにみじめかと思います。平常の聞いたり、話したり、読んだり、書いたりするのに事欠かない、何の抵抗もなしにそれらの力を活用していけるように指導できていたら、それが私が子どもに捧げた最大の愛情だと思います。
 そのほかのことは、後になってみれば、嬉しかった思い出にすぎないのです。生き抜くときの実力になっていない単なる愛というものは、センチメンタルなものだと思います。ですから職業人に徹するということは、子どもが一人で生き抜くために、どれだけの力があったらよいか、それを鍛え抜こうとするのが、それが先生の愛情だと思いますし、ほんとうに鍛え抜く実力が先生の技術だと思います」と述べている。これを読むとちょっとできるからといって、軽々に「先生」などと呼んではいけないことが分かる。「先生」と呼ばれるためには、相当な覚悟が必要なのである。
          平成30年3月12日 記 


     「存亡の秋(とき)」について

 今日の讀賣新聞の一角に「存亡の秋(とき)」は、どうしてこのように書くのかという文章があった。「穀物や果物を収穫する秋は、一年のうちでも最も大事な季節です。そこで、存亡がここで決まるという大事な時、時機を表すのに秋の字をあてたのでしょう。だから春先に来る存亡の秋(とき)もあるはずです。」 とのこと、妙に納得がいった。日本は農耕民族、自然を大切にして共に生き畏怖し、収穫の喜びを感じてきた。農業をないがしろにしてはいけない。食料を断たれたら、最も脆弱なのが日本ではないのか。先進国でこのように食料自給率(平成28年度38%)が低い国はない。「衣食住」ではなく、「食住衣」だろう。一つの言葉からこのようなことも考えさせられた。
          平成30年3月7日 記 


     「スロベニアとスーバニア」について

 「Sloveniya」と「souvenir」、前者はヨーロッパの「スロベニア」であり後者は「お土産」だ。英語に慣れていない我が身は、「なぜここでスロベニア」と狼狽してしまった。相手は「お土産か」と質問してきたのである。
 吉田兼好『徒然草150段』に「天下(あめつち)のものの上手といへども、始めは、不堪(ふかん)の聞えもあり、無下の瑕瑾(かきん)もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埒(ほうらつ)せざれば、世の博士(はかせ)にて、万人の師となる事、諸道変るべからず」これを心の糧に努力の日々は続く。
          平成30年3月6日 記 


     「名伯楽」について

 オリンピックの選手たちが昨日凱旋した。活躍した選手たちの後ろに名コーチがいることを忘れてはなるまい。スピードスケートにおいては顕著である。トレーニングの仕方はもちろんのこと、栄養学や選手としての心の部分まで踏み込んで指導している。
 「世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。」とある。世界で活躍するためには、本人たちの努力はもちろんのこと、名伯楽との出会いも大切だ。それを構築するのは国であり、各競技団体だ。組織内で権力争いなどしている団体は論外だ。
          平成30年2月28日 記 


     「トラベルとトラブル」について

 ネットを利用した英会話を始めて約一ヶ月になる。オランダにあるレンブラントの「夜警」を見たいのでそこに行きたいと伝え、さらにフェルメール、ゴッホ、ロイスダールなどの作品も鑑賞したいと話した。その後、「Where do you want to travel to?」と先生が質問してきた。しかし、それがどうしても聞き取れないのである。「travel」が「trouble」と聞こえ、「Where、trouble」などの単語が錯綜し、まさに「confusion」の状態になってしまった。英語は日本語と違い同音異義語が少ない、冷静に考えれば分かりそうなのだが、分からないというのはそのように混乱してしまうことなのだろう。
 教育界の大先達である大村はまは、その著『教室をいきいきと』で「真心をこめてやれば何でもやれるというものではない。人生の先輩である教師は,やれない悲しみを胸に持って,そして,子どもを励ましたいものです。やってもできないことが相当あると言うことを考えて,不始末というか不成績を温かな目で見たいのです。」と述べている。
 老骨に鞭打って始めた英会話も遅々として進まない。行きつ戻りつの日々を考え、はたして自分は現役の時、大村はまのような考え方をしていたのだろうかと自責の念にかられる。 
   
       平成30年2月26日 記 


     「踏み絵」について

 ピョンチャンオリンピックの閉会式に出席するため、北朝鮮では金英哲(キム・ヨンチョル)朝鮮労働党副委員長を代表とする代表団を送ってきた。その意図をある番組のコメンテーターが「韓国に対する踏み絵・・・」と話していた。「踏み絵」とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教の信徒を発見するために使用した絵である。その状況を表した言葉だけが、このように使用されるのかと不思議に感じた。
 平成26年五島列島に行った時、堂崎教会で初めて「踏み絵」を見た。摩滅したその絵は悲しみを語っていた。
       摩滅せし踏み絵や黙す秋時雨    山崎
        
         
五島列島 堂崎教会
        平成30年2月25日 記 


     「潔さ」について

 中学生棋士藤井聡太六段の活躍で、将棋の公式戦の結果をテレビでよく見かけるようになった。その折り、負けた方が必ず「負けました」と投了している。先日の一戦でも、負けた羽生善治竜王が頭を下げていた。そこに美学を感ずるのは、私だけであろうか。しかも、勝者は驕らず敗者は卑屈にならない。凄味すら感じさせる。
 三島由紀夫と石原慎太郎が「男らしさ」について談じた時、それについてどのように考えているか紙に書いて同時に出そう、となったそうである。いみじくも二人が書いたのは「自己犠牲」であった。「潔さ」と「自己犠牲」は同じ系譜にある。
       平成30年2月21日 記 


     「ら抜き言葉」について

 ピョンチャンオリンピックも佳境に入り、多くのメダリストが誕生している。それは、とても嬉しいことなのだが、残念なのはそのすべてのインタビューで話されるのが、「ら抜き言葉」だということだ。メダリストだけにメディアでの露出度が高く、その影響も大きいだろう。益々、「ら抜き言葉」の流布を許してしまう。残念至極。
   見れる(誤)→見られる(正) 食べれる(誤)→食べられる(正)
       平成30年2月18日 記 


     「英語にすることの難しさ」について

 英会話を始めて、日本語を英語にする難しさを味わっている。日本語も十分ではない身とすれば、無謀な振る舞いであることは間違いない。しかし、吉田兼好の『徒然草150段』に背中を押されて頑張っている。
 「いまだ堅固かたほなるより,上手の中にまじりて,毀(そし)り笑はるるにも恥ぢず,つれなく過ぎて嗜(たしな)む人、天性その骨(こつ)なけれども,道になづまず,みだりにせずして,年を送れば,堪能(かんのう)の嗜まざるよりは,つひに上手の位にいたり,徳たけ,人に許されて,双(ならび)なき名を得る事なり。」『徒然草150段』

天候について(セルビ人アの講師を想定して)
We have much snow in Japan.
How about Serbia?
It only snows twice or thrice in a year in Ibaraki prefecture where I live.
The snow almost disappear in a day even if it snows.
On the other hand, in Aomori prefecture where it snows the most in Japan, 402 centimeters of snow accumulated this year.
It takes two hours by airplane from Ibaraki to Aomori.
It is far from my house.
Snow is beautiful when you just see it.
But heavy snow causes many troubles.
Many cars were stuck in snow and couldn't move for 4 days in Fukui prefecture.
The life in the snowy district of Japan is hard.
How is the temperature of Serbia?
Please tell me the highest temperature and the lowest one.
(水田道場 草山さん添削)
       平成30年2月17日 記 


     「英会話の回数」について

 一万時間をかけて一角になるということなので、「英会話」の時間数について考えてみた。加入した「英会話」の規約では、一日25分となっている。一週間で約3時間、そうすると一年間では約156時間しかできない。一万時間に達するのに、なんと64年間もかかってしまう。私は優に100歳を越えているではないか。「大は方所(ほうしょ)に絶し、細(さ)いは微塵(びじん)に至る」という、考え方によっては大宇宙であり細かい塵埃(じんあい)にもなるとする。考え方が大切か。
       平成30年2月11日 記 


     「英会話」について

 あまりにも言葉を忘れてしまうため、「英会話」を始めた。Skypeを利用して世界中の講師と繋がるシステムだ。半世紀近くも遠ざかっていた英語に悪戦苦闘しているが、脳みそは活性化してきた気がする。いわゆるボケ防止だ。話すところまでは全然いかないが、準備として文章を作りその中の幾つでも口に出せればと考えている。下の能面を見せて次のようなことを言ってみた。間違いもたくさんあると思うので、ご指摘をお願いしたい。
      
This is No mask. No is Japanese traditional performing art.
No looks like Opera, except using a mask.
No player uses a mask on his face when he performs No.
He dances and sings on the stage.
I made this mask.
I have many masks which I made.
Each mask completes in 6 months.
I chisel a mask out of a cuboid lumber.
This mask is named Namanari.
It expresses a woman's anger and jealousy.
Women in anger are scary.
If anyone would like to offer to purchase, I will accept.
I have already sold two masks through a personal connection.
I have spent a long time to make it.
This is why it is expensive.
      平成30年2月8日 記 


     三回目の「他人事」について

 ある芸能人が、娘が大麻を所持していたということで記者会見を開いていた。その中で「今まではタニンゴトだと思っていたが・・・」と発言した。おそらく「他人事」を頭に入れて発した言葉だと思われるが、正しくは「ひとごと」である。
 ところで、成人した大人の所業に対して、親はいつまで責任を取らなければならないのだろうか。生計の違う子どもの行動を、「親の監督不行き届きで」でもあるまい。
      平成30年2月2日 記 


     能「高砂」の詞章(ししょう)について

 能「高砂」の一節に、「山川萬里(さんせんばんり)を隔つれども互に通う心遣いの妹背(いもせ)の道は遠からず」とある。「妹」と「背」については、このコーナー(平成30年1月23日)でも紹介している。いつの時代も相手を思いやる気持ちに変わりはない。だからこそ、このように詞章として残っているのであろう。
      平成30年1月29日 記 


     「蠢動(しゅんどう)」について

 「蠢動」とは、「虫などがうごめくこと。また、物がもぞもぞ動くこと」である。選挙になると利権を求めて、色々な人物がもぞもぞ動き出す。そんな世界から距離を置いているので、清々しく生きられる。大切なことだ。
      平成30年1月27日 記 


     「抗弁(こうべん)」について

 昨日の「相棒」で、出演者が「・・・抗弁できませんね」と言っていた。「抗弁」とは「相手の主張ややり方に反対して弁ずること」であるが、法律関係では「民事訴訟法上,相手方の申し立てまたは主張を単に否認するのではなく,その排斥を求めてそれと相いれない別の事項を主張すること」となる(三省堂大辞林より)。普段あまり聞き慣れない言葉だが、「相棒」ではそのような言葉をよく使用する。「面従腹背」という四文字の熟語も発せられていた。注意してドラマを見ていると面白い。
      平成30年1月25日 記 


     「雪と俳句」について

松尾芭蕉                 
  馬をさへながむる雪の朝哉
服部嵐雪(はっとりらんせつ)      
  この下にかくねむるらん雪仏
小林一茶
  雪とけて村いっぱいの子どもかな 
  これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺
  こころから信濃の雪に降られけり
正岡子規       
  いくたびも雪の深さをたずねけり
  障子あけよ上野の雪を一目見ん
中村草田男(なかむらくさたお)
  雪や明治は遠くなりにけり
  この日雪一教師をも包み降る
飯田蛇笏(いいだだこつ)        
  ふるさとの雪に我ある大爐(たいろ)かな
山口青邨(やまぐちせいそん)
  外套の裏は緋なりき明治の雪
  みちのくの雪降る町の夜鷹蕎麦(よたかそば)
  みちのくの雪深ければ雪女郎
高野素十(たかのすじゅう)       
  雪明かり一切経を蔵したる

 多くの俳人が雪を俳句に詠んでいる。雪が降ると現代社会では色々な障壁が起きるが、趣を感じるのは私一人ばかりではないだろう。あの情景は人の心を揺さ振る。
       平成30年1月24日 記 


     「背(せ)と妹(いも)」について

 『万葉集』に「背」や「妹」を使用した短歌がある。「背」は親しい男性(夫、兄や弟、恋人)を指し、「妹」は親しい女性(妻、姉や妹、恋人)を指している。
 
    防人(さきもり)に 行(ゆ)くは誰(た)が背と 問ふ人を
   見るが羨(とも)しさ 物(もの)思(も)ひもせず
 【口語訳】
  「防人に行くのは誰のご主人」と悩みも無く聞く人を見ると羨ましい。
 
   我(あ)が面(もて)の 忘れもしだは 筑波嶺(つくはね)を 
   振り放(さ)け見つつ 妹(いも)は偲(しぬ)はね
 【口語訳】
  私の顔を忘れてしまったら、筑波山を見てなつかしんでください、妻よ。
       平成30年1月23日 記 


     「業腹(ごうはら)」について

 
「業腹」とは、「非常に腹が立つこと」という意である。昨日の劇場版「相棒」の中で杉下右京が発した言葉だ。「相棒」では、このような言葉が多く使用されている。そのような視点から見ても面白い。大河ドラマ「独眼竜正宗」(昭和62年ジェームズ三木脚本)の中で「端倪(たんげい)すべからざる・・・」という台詞があり、さすがジェームズ三木と感心した記憶がある。
     端倪すべからざる・・・推測できない
       平成30年1月22日 記 


     「乗るか反るか」は誤り

 
「乗るか反るか」は誤りで、正しくは「伸(の)るか反るか」である。「成否は天にまかせ思い切って物事を行うこと」という意で、矢をつくる時、伸びるか反るかに由来する。勘違いしないようにしたい
       平成30年1月17日 記 


     「慚愧(ざんき)の念」について

 
「慚愧の念」とは、「自分の見苦しさや過ちを反省して、心に深く恥じること」である。よく「慚愧の念に耐えない」などと使用する。政治家が自分の言動を恥じて、発することがある。さしずめ、横綱白鵬あたりに自分の言動を反省して言ってもらいたい言葉だ。同じような言葉に「忸怩(じくじ)たる思い」がある。
       平成30年1月14日 記 


     「雪辱(せつじょく)を晴らす」は間違い
 
 時々「雪辱を晴らす」と聞くことがあるが、これは間違いである。正しくは「雪辱を果たす」である。「雪辱」は「恥をすすぐこと」という意味で、「雪辱を晴らす」では重言(重複表現)になってしまう。つまり、「頭痛が痛い、鉄の鉄橋、馬から落馬する」と同類なのである。文化庁の「国語に関する世論調査」では、正しい「雪辱を果たす」を使用する人が、間違っている「雪辱を晴らす」よりもわずかに下回っている。残念至極。

 「NHK文化放送研究所」ホームページより抜粋
 「雪辱」とは「辱(はじ)を雪(すす)ぐこと」で、「試合・勝負などで前に負けた(辱めを受けた)相手に勝ち、前に受けた恥をそそぐ(除きさる)」という意味です。この語を用いた「雪辱を晴らす」という言い方は、「雪辱」の「雪」(「雪ぐ」すすぐ・そそぐ)が、「晴」(「晴らす」はらす)と意味が重なります。これは、同じ意味の語を重ねて使う重言(じゅうげん)つまり重複表現にあたります。この言い方は「雪辱を果たす」と「屈辱を晴らす」の混同から生じた誤用とみられます。ご指摘の場合には、「雪辱を果たす(~を果たしてほしい)」「雪辱する(~してほしい)「屈辱を晴らす(~を晴らしてほしい)」などと言うべきでしょう。
       平成30年1月11日 記 


     「九仞(きゅうじん)の功を一簣(いっき)に欠く」について
 
 「九仞の功を一簣に欠く」とは、「高い山を築くのに、最後のもっこ1杯の土が足りないために完成しないことから転じて、長い間の努力も最後の少しの過失からだめになってしまうこと」である。何事も不断の努力と最後まで気を抜かないことが重要だ。
       平成30年1月7日 記 


     「可塑性(かそせい)」について
 
 NHKBS「英雄たちの選択 島津久光の率兵上京」が放映されていた。その中で「政治の可塑性」という発言があった。「可塑性」とは「物質などが外部からの入力に対応して変形適応すること」という意である。島津久光は、政治の可塑性が分かっていた人物だと主張していた。大きく変化する幕末、その中で島津久光の役割の大きさに言及していた。久光に対して見る目も変わった。
       平成30年1月5日 記 


     「荘厳(そうごん)」について
 
 年末のドラマで黒澤明の「赤ひげ」を放映していた。その中で主人公の赤ひげが、「人間の一生で臨終ほど荘厳なものはない」という言葉を発していた。瞬時に浮かんだのが、高村光太郎の妻智恵子の臨終について述べた医者の「あのような荘厳な死を経験したことがなかった」と述懐していることだった。ともに「荘厳」という言葉が見える。「荘厳」とは「重々しく、威厳があって気高いこと」である。同じことを思うのだと感心した。
       平成30年1月3日 記 


     「箱根路」について
 
 箱根駅伝の号砲が今年も鳴った。箱根に向かう道筋の闘いを毎年見てしまうのは、襷をつなぐために必死で走る姿に感動するからであろう。毎年数々のドラマが展開されている。
 ところで、鎌倉幕府の三代将軍源実朝は、幼くして作歌に親しみ藤原定家の指導も受けていた。その歌に「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ」がある。権謀術数のなか甥の公暁に暗殺(1219年)されてから、800年が経っている。
 そのような箱根路を大学生が走り、多くの人たちが声援を送っている。戦も暗殺もない平和な時代だからこそ、駅伝を楽しめることを忘れてはならない。世界に目を向けると、多くの対立と争いが激化している。平和は一人一人の心に依拠しているのである。
       平成30年1月2日 記 


     「去年今年(こぞことし)」について
 
 「去年今年」は、昨日が去年で今日が今年という一年の変わり目を捉えた俳句の季語。高浜虚子は、「去年今年貫く棒の如きもの」と詠んでいる。その俳句のように変わらない信念をもち続けたい。新しい年の始まりだ。
       平成30年1月1日 記 


     再び「啓蒙」から「啓発」について
 
 一度、「啓蒙」ではなく「啓発」を使用するように書いたが、讀賣新聞の「編集手帳」に「天然もののフグなら乱獲防止への啓蒙も忘れてはなるまい」とあったので再度記載する。 「啓蒙」は無知な人々に知識を与え教え導くことで、居丈高(いたけだか)な感じがする。「啓発」は人々が気付かずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くことで、本人が自力で答えに辿り着くようにすることがねらいである。そのように考えれば、讀賣新聞も「啓発」と書くべきだろう。
       平成29年12月27日 記 


     「猿」について
 
 先日も猿が神奈川や東京に現れ、大捕物をしていた。以前勤務していた中学校のグランドに、猿がちょこんと座っているのを見た時にはひどく驚いた。また、取手市の小学校の周りの家を徘徊している猿を見かけたこともある。そのことを保護者に話したら、「ああ、家にも来て飼い犬(ゴールデンレトリバー)の頭をなでながら、犬の餌を食べてた」と言っていた。眉唾かなとも思ったが、あながち嘘でもなかったかもしれない。身近な動物なので、文学作品やことわざの中にも見られる。
 ◇俳句
   初時雨猿も小蓑(こみの)をほしげなり  松尾芭蕉
   かけ橋に猿の折りたる氷柱かな      上島鬼貫
   このむらの人は猿也冬木だち       与謝蕪村
   山平老猿雪を歩るくなり         飯田蛇笏  
 ◇漢詩
    早(つと)に白帝城を発(はっ)す   李白
 ◇ことわざ・故事成語
   猿も木から落ちる
   犬猿の仲
   猿に烏帽子(えぼし)
   意馬心猿(いばしんえん)
       平成29年12月26日 記 


     「心の安定(サバイ)」について
 
 NHKでアジアハイウェイの風「タイ」を放映していた。首都バンコクから農村部へ行くと風景は一変する。リポーターが生活について質問すると「お金はないが、毎日御飯が食べられて不足はなく、サバイだ」と言っていた。「サバイ」とは、「精神的に安定して幸せなこと」という意である。その表情は穏やかで笑顔が溢れていた。決して番組用のつくり笑いではなかった。それを見て、幸せの基準とは一体何なのだろうかと考えさせられた。多くの物に囲まれても満足せず、次から次へと新しい物を求めていく、欲望に終着点はない。そこに、はたして心の安寧はあるのだろうか。一方、毎日御飯が食べられることに満足し感謝している生活がある。「サバイ」は、「足るを知る」ことである。 『梅里(ばいり)先生碑陰ならびに銘』に「有れば則ち有るに随つて樂胥(らくしょ)し、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり」とあるが、まさにそれである。物の豊かさではなく、心の豊かさを求める人生でありたい。
       平成29年12月22日 記 


     「印章」について
 
 我々が通常「印鑑」とよんでいるのは、正しくは「印章(いんしょう)」である。
 「印章」・・・木、石、象牙などに文字や絵を彫り込んだもの
 「印影」・・・「印章」を押して写し出されたもの
 「印鑑」・・・市役所や銀行などに登録した「印影」
宅配業者などが「ここに印鑑を押してください」というのは間違いで、正しくは「ここに印章を押してください」である。しかし、すべて曖昧になっている現実がある。
       平成29年12月21日 記 


     「子育て」について
 
 子育ては、「乳児はしっかり抱いて肌を離すな、幼児は肌を離して手を離すな、少年は手を離して目を離すな、青年は目を離して心を離すな」と年代ごとに変化していくと言われる。喜びと苦悩が交錯するのが子育てだ。
 ところで、昨夜のNHKニュースウォッチ9で、乳児を抱えた母親に席を譲ろうとしたら断られたことがないか、という問いかけで始まった事柄があった。母親が座ると副交感神経の関係で心拍数が上がり、赤ちゃんが泣き出してしまうということであった。それは、動物が危険を察知した時、赤ちゃんをくわえて安全な所に移動させるが、赤ちゃんは生命保存のため大人しくなるのと同じだという見解があった。新生児微笑(赤ちゃんがにっこり笑うこと)も相手に可愛らしいと思わせて、自分を守っていると聞いたことがある。生まれた時から、自分を守るためのものを備えているのである。生命誕生から35億年、一度も途切れなかった命の不思議さを考えさせられた。
       平成29年12月19日 記 


     「収斂(しゅうれん)」について
 
 「収斂」は、「縮めること。まとめること」という意である。「血管を収斂させる」とか「意見を収斂させる」などと使用される。剣道でも打突の際、「収斂と弛緩(しかん)」が大切だと言われる。しかし、これが難しい。世の中なんと難しいことが多いのだろう。
       平成29年12月16日 記 


     「満身創痍(まんしんそうい)」について
 
 「満身創痍」は、「体中傷だらけ」という意である。この頃、この言葉をよく使うようになった。『梅里先生碑陰ならびに銘』に「聲色飲食(せいしょくいんし)其の美を好まず弟宅器物(ていたくきぶつ)其の奇を要せず、有れば則ち有るに随つて樂胥(らくしょ)し、無ければ則ち無きに任せて晏如(あんじょ)たり」とある。』このような気持ちをもちあせることが出来れば、「満身創痍」も乗り越えられるのだが。体と心の調和が図れない。
       平成29年12月9日 記 


     NHKのニュースキャスター「食べれる」発言
 
 NHKニュースウオッチ9のキャスターが、昨夜「・・・鶏肉は安心して食べれる」と発言していた。最後の牙城が崩れたような感じがした。「食べる」は下一段活用なので、「られる」接続なのは周知の事実、その瓦解が益々進むのではないかと心配だ。
 「走る」や「書く」などの五段活用の動詞では「~できる」という意味の時、「走れる」「書ける」と可能動詞になる。これらは下一段活用になる。
       平成29年12月5日 記 


     「断腸の思い」について
 
 日本相撲協会の八角理事長が、元横綱日馬富士が引退する時、「断腸の思いだ・・・」と言っていた。「断腸の思い」とは、「はらわたがちぎれるほど悲しく、つらいこと」という意である。今回のことは当然の帰結だろう。それにしても白鵬の言動が目に余る。立合の張り手、物言い、優勝インタビュー、講習会での発言等々、およそ横綱として相応しくない。「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というが、人格者としての側面が微塵も見えない。ただ、勝てばいいという考え方だから、下の者に立合で必ず張り手を食らわす。横綱であれば、相応の勝ち方があるはずだ。「貴乃花親方が巡業部長なら行きたくない」との発言を許している八角理事長の姿勢にも問題がある。
  ★「断腸の思い」
 晋の武将桓温(かんおん)が船で蜀に攻め入ろうとして三峡を渡ったとき、その従者が猿の子を捕らえて船に乗せた。母親の猿は泣き悲しみ、連れ去られた子猿の後を百余里あまりも追った。ついに母猿は船に飛び移ったが、そのままもだえ死んでしまった。母猿のはらわたを割いてみると、腸がずたずたにちぎれていた。 その故事に由来する。(故事ことわざ辞典より)
       平成29年12月3日 記 


     再度「奇貨(きか)として」について
 
 オランダでは女性用トイレが少なく、今問題になっていると讀賣新聞が報じている。女性が外で小用をして裁判になった時、裁判官が「我慢できなかったのなら、男性用トイレ(小用)を使うべきだった」と発言したのが契機だったらしい。女性は判決への上訴も可能だったが、「裁判官の問題発言を奇貨として、公衆トイレ問題を十分にアピール出来た」と受け入れたという。日本では必ず男女両方のトイレがあり、それが普通だと思っていたが、そうでもないらしい。そういえば、海外に出るとトイレに難渋してしまう。
  奇貨・・・「 利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会」
       「奇貨として」と使用される  
       平成29年12月2日 記 


      「謝罪の言葉」について
      
 「謝罪の言葉」についてあるテレビ番組で取り上げていたので紹介する。
 1 「ごめんなさい」
    漢字で書くと「御免なさい」、つまり「許しなさい」という意味で、
   一方的に命令して、この場で終わりにしたい時に使う言葉。
 2 「すみません」
    漢字で書くと「済みません」、つまり「済みではありません」とい
   意味で、このままでは終われないので、何か償いたい時に使う言葉。
 3 「申し訳ありません」
    「申す」は「話す」で「話すことがありません」という意味で、す
   べて自分に非があり、償いようがない時に使う言葉。

 「謝罪の言葉」にも段階があることが分かった。今まで、いかにいい加減に
使用していたか恥ずかしい。しかし、この区別はほとんどの人ができていない
のかもしれない。
          平成29年11月29日 記 


      三度目の指摘「的を得る」は間違い
      
 今回の横綱日馬富士の問題に対して、横綱審議委員会の委員の一人が匿名で発言していた。それを聞いたテレビ番組のコメンテーターが、「・・・的を得た発言だ・・・」と言っていた。正しくは「的を射る」である。実に困ったものだ。これを愛読してくださっている方には、最後の牙城になっていただきたい。
          平成29年11月21日 記 


       悲憤慷慨(ひふんこうがい)」について    

 「悲憤慷慨」とは、「世情や自分の運命などについて、憤慨し、嘆き悲しむこと」という意味である。
 先日、常磐線で帰ってくる時、上野から幼い女の子(5歳ぐらい)を連れた夫婦が乗り込んできた。電車に乗り込んでくると同時に母親はスマホに首っ丈、ひたちのうしく駅で降車するまで、咳をする幼子にほとんど声を掛けることをしなかった。一体子育てをどのように考えているのであろうか。注意しない父親も同類なのかもしれない。他人事(ひとごと)ながら腹が立ってしかたがなかった。まさに「悲憤慷慨」の気分であった。
         平成29年11月19日  記



       こけし」について    

 人形の「こけし」を「子消し」「子化身」として、貧しかった時代の口減らしだとする説がまことしやかに語られているが、それに信憑性(しんぴょうせい)はないらしい。「こけし」は温泉地のお土産物として発展をみたものであり、子殺しの贖罪(しょくざい)ではないということだ。しかし、過去にそのように語られる事実があったことも忘れてはならないだろう。そして、現代こそ子どもにとっては受難の時代なのかもしれない。ネグレクト、虐待、虐待死など枚挙に暇がない。大人が我が身を振り返り、踏み止まなければならないだろう。
         平成29年11月8日  記



       焦眉(しょうび)の急」について    

 「焦眉の急」とは、「 眉毛が焦げるほど近くまで火が迫っていて、きわめて危険な状態」という意である。『宇治拾遺物語』に絵仏師良秀(よしひで)のことが書かれてあるが、まさにこの焦眉の急でありながら芸術の到達点を求めて止まなかった。人の生き方は様々だ。
         平成29年11月7日  記



       再度「間髪を入れず」について    

 11月3日の全日本剣道選手権の中で、解説者が「かんぱつをいれずうちました」と言っていた。残念至極。
         平成29年11月4日  記



       隔靴掻痒(かっかそうよう)」について    

 「隔靴掻痒」とは、「靴を隔てて痒(かゆ)いところをかく意から、痒いところに手が届かないように、はがゆくもどかしいこと。思うようにいかず、じれったいこと。物事の核心や急所に触れず、もどかしいこと」という意である。世の中はこのことに満ちあふれていると言っても、過言ではないだろう。
         平成29年11月3日  記



       再度間髪を入れず」について    

 10月31日、県の武道館で文部科学省委託事業「平成29年度武道等指導充実・資質向上支援事業」の「授業協力者養成講習会」(茨城県剣道連主催)が行われた。講習で日本武道協議会作成のDVD「中学校武道必修化指導書 映像集(剣道)」を視聴した。その中で「間髪を入れず打ち込む」を「かんはつをいれずうちこむ」と、ナレーターが正しく発音していた。間に髪一本も入れないほどの短い間という意味で、「かんはつをいれず」と読む。伝統や文化を標榜(ひょうぼう)する剣道、正しい発音に快哉(かいさい)を叫んだ。
         平成29年11月2日  記



        「睥睨(へいげい)」について

 「睥睨」とは、「にらみつけて権威を示すこと」という意である。チャンネルを回していたら、偶然「世界ネコ歩き」の中で流れていた。本当にそうしているのか、はたまた人間がそう感じているのか、推測の域を出ない。
      
   平成29年10月31日 記  


      「唾棄(だき)」、あれでいいのかメジャーリーガー

 「唾棄」とは、「つばを吐きすてること。転じて、非常に軽蔑して嫌うこと」という意である。決してよい言葉とは言えない。
 ところで、日本人が多くメジャーリーグに入団するようになり、試合を見る機会が増えたが、耐えられないのが選手がグランドに「唾棄する」ことである。グランドは、自分を磨く道場ではないのか、唾を吐く場所ではあるまい。その行為を見ると嫌な気分になる。プレーは一流でも、その行為は二流だ。
 この頃は日本のプロ野球選手でも見かけるようになった。猛省を促したい。全日本の小久保前監督は、日本ハムの中田選手にバッターボックスで唾を吐くのを禁止したと聞く。当たり前のことである。憧れの選手の行為は、多くの青少年に影響を与える。そのことを肝に銘じてもらいたい。
       平成29年10月29日 記 


      「下剋上」という言葉で終わらせてよいのか

 昨夜、広島がDeNAに破れて日本シリーズの進出が決まった。テレビや新聞が盛んに「下剋上」という言葉を使っている。「下剋上」とは、「下の者が上の者に打ち勝って権力を手中にすること」である。
 ところで、レギュラーシーズンにおいて広島は、横浜を14.5ゲーム引き離して優勝している。しかも試合数は144もあった。それらを鑑みると、はたして今回DeNAが勝ったことを「下剋上だ」「よかった」と安易に判断してよいものだろうか。長いシーズンには、連敗や選手の怪我等で思い通りにならないことも多い。それらを乗り越えた144試合であったはずだ。わずか1勝のアドバンテージでよいはずがない。10ゲームの差があったら、2勝のアドバンテージを与えるとかシリーズをやらないとか、何らかの改善策を考えなければ、選手はたまったものではない。興行収入ばかりに目を向けていると、甲子園の泥だらけ試合を強行するような愚かな判断をするようになる。
 何事も不断の努力が報われる社会であってほしい。
       平成29年10月25日 記 


      「しんし」という表記から「真摯」は想起できるのか

 衆議院選挙が終わり、その結果が出た。民進党の前原代表の言葉を「厳しい結果をしんしに受けとめたい」と字幕で表していた。難しい言葉だから平仮名でいいんだとする安易な発想は、一体どこから来るのであろうか。漢字は日本の文化ではないのか、日本人の精神性が危ない。
 それにしても、2・3日前にできた党に持参金までもって合流して、多くの仲間を見殺しにした功労者の仕置きはどうなるのであろうか。信頼されていない某東京都知事などを頼ろうとしたところに過ちがあった。政治信条を曲げず信念を貫いた立憲民主党に票が集まったのは、当然の帰結だ。
       平成29年10月23日 記 


      再度「他人事」の読み方は

 「他人事」の読み方は、「ひとごと」で「たにんごと」ではない。このところ頻繁に耳にする「たにんごとは」は、この読み間違いなのだろう。気を付けたいものだ。
 NHKでも、「平成12年(2000年)2月に放送用語委員会でこの件について改めて審議しました。その結果、『タニンゴトということばは誤読から発生したもので、原則として使わない』ことにし、従来どおり『表記は○ひと事 ×他人事 読みは○ヒトゴト ×タニンゴト』と決めています。」としている。
       平成29年10月21日 記 


        「音(おと)と音(ね)」について1

 
現代は、様々な音が行き交っている。自動車、テレビ、コンピュータ、果ては炊飯器まで。平安時代は、どうであったろうか。『枕草子』(第一段)に「日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。」とある。静寂の闇から聞こえてくるかそけき音に耳を傾け、想像力を膨らまし感性を豊かにしていったのだろう。1000年の時の経過は、多くのものを得るのと同時に失った歴史でもある。「風の音」は「かぜのおと」(大きな音だから)、「虫の音」は「むしのね」(小さな音だから)と読む。欧米人は、虫の音を雑音として聞くそうだが、四季の明確な中で暮らす日本人の感性とは根本的に違っている。
         平成29年10月20日 記  


        「かそけき音」について

  「秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」
平安時代の歌人、藤原敏行の歌である。時の移ろいをわずかな季節の変化から感じ取る。自然とともに生きてきた日本人の感性が、この歌にはある。日本人は、太古の昔から自然に畏敬の念を抱いてきたのである。しかし、このところの雨で、秋の風情も虫の音もあったものではない。しかも、この時期に台風が迫っているという。「かそけき音」に耳を澄ます時は、いつ来るのであろうか。欲望追求の帰結がこの異常気象だとしたら、我々の生活を早急に見直さなければならない。 
         平成29年10月19日 記  


      「秋波を送る」について
      
 新聞の記事に「小池氏発言は、民進党の“再結集”阻止へクサビを打つべく野田氏へ秋波を送る意図があるとみられる」とあった。「秋波を送る」とは、「女性が男性の気を引くために、媚びた目つきで見つめること。色目を使うこと」とある。さすが政界の渡り鳥、真骨頂とでも言えばよいだろうか。風を読み、その都度権力に媚び、立つ位置を変えてきた浅薄な人物だ。ついに馬脚を現したというべきだろう。「 牝鶏(ひんけい)の晨(あした)するは、惟(これ)家の索(つ)くるなり」『書経』だ。
          平成29年10月15日 記 



      「英語の多用」に疑問
      
 NHKの番組「金曜イチから」の中で、ゲストが「・・・フラット・・・リスペクト・・・」と述べていた。そこでその英語を使用するのか、とよく理解ができなかった。日本語は、外国語を取り入れやすい言語である。だからといって、安易に使用することに疑問を覚える。先日、拙宅にイタリアから4名の剣道愛好家が来られた時、英語を話せない不自由さを感じたが、それとこれとは違うような気がする。
          平成29年10月13日 記 


      「包摂(ほうせつ)」について
      
 「包摂」とは、「一定の範囲の中につつみ込むこと」。立憲民主党の辻本清美が、演説の中で「包摂と対話の政治・・・」と言っていた。選挙特有の有権者の心を揺さ振る公約が、乱れ飛んでいる。我々有権者は、しっかり考えて投票しなければならない。
          平成29年10月11日 記 


      「払拭(ふっしょく)」について
      
 「茨城は5年連続ワーストの屈辱-。全国の自治体の魅力度の順位付けを行っている民間調査会社『ブランド総合研究所』(東京都港区)が10日発表した都道府県魅力度ランキングで、茨城県が5年連続で全国最下位となり、今回も汚名を払拭できなかった」と産経新聞は載せている。この調査には納得できない。何をもって、そう決めているのだろうか。茨城は人も物も豊かである。
 「払拭」とは、「すっかり取り除くこと」。この言葉はよく使用するので、留めておきたい。
          平成29年10月10日 記 


      再度「的を得る」は間違い
      
 あるテレビ番組でコメンテーターが、「・・・的を得た・・・」と発言していた。これは間違いで、正しくは「的を射る」である。この誤用が実に多い、困ったものである。さりとて、人前で注意するわけにもいかず、頭が痛い。
          平成29年10月7日 記 


      「麗澤(れいたく)」について
      
 「麗澤」とは、「連なった二つの沼沢が互いにうるおし合うように、友人が互いに助け合いながら学ぶこと」である。水戸藩の思想家、藤田東湖(とうこ)が「麗澤」と揮毫した書が見付かり、現在弘道館で公開されている。藤田東湖は、徳川斉昭に仕え藩校弘道館の設立に中心的な役割を果たした。その思想は、明治維新にも大きな影響を与えた。
          平成29年10月3日 記 


      「漱石」について
      
 中国西晋、孫楚(そんそ)は「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまった。誤りを指摘されると、「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と言ってごまかした。ゆえに、「漱石枕流」は、頑固者とか自分の非を認めない者とかという意味である。夏目漱石の「漱石」は、この故事に由来する。
          平成29年10月1日 記 


      「まなじりを決する)」について
      
 自民党両院議員総会で、首相安部晋三が「皆さん、まなじりを決して戦い抜いていこうではありませんか」と語っている。「まなじりを決する」の意味を調べると、「目を大きく見開く。怒ったり、決意したりするさま」とある。政治家は「自分ファースト」ではなく、国家のため国民のために身を粉にしてもらいたい。「まなじりを決する」を「目尻  を決する」とするのは誤りである。「まなじり」とは「目尻」のこと。
          平成29年9月30日 記 


      「矜持(きょうじ)」について
      
 「矜持」の意味を調べると、「誇り、自負、プライド
」とある。昨日、衆議院が解散された。それに伴って、野党第一党の民進党が、数日前に立ち上がった希望の党に合流するという。笑止千万である。民進党の下に集まるなら理解もできるが、何の実績もない党に合流するとは、政治家としての矜持も信条もないのかと悲しくなる。某東京都知事が党の代表になっているが、権力に常にすり寄り媚び、立つ位置を変えてきた人物ではないのか。知事として何の実績も残さず辞任するとしたら、これほど都民を国民を愚弄する話はない。それに蝟集(いしゅう)する政治屋は、まるで汚物だ。本物の政治家はいないのか。悲憤慷慨(ひふんこうがい)、怒りが収まらない。
          平成29年9月29日 記 


      「煮え湯を飲まされる」について
      
 「煮え湯を飲まされる」の意味を調べると、「信頼している人に裏切られて、ひどい目にあうことのたとえ
」とある。あくまでも信頼する相手であり、敵対する人物の行為には使用しない。また、裏切りを含まない行為に使用するのも誤りである。「親友に金銭問題で煮え湯を飲まされた」などと使う。日本語は実に難しい。
          平成29年9月26日 記 


      「こだわる」について
      
 「こだわる」の意味を調べてみると、「
心が何かにとらわれて、自由に考えることができなくなる。気にしなくてもいいようなことを気にする」とある。本来、あまりよくないことに使う言葉なのに、「味にこだわる」「こだわりのメニュー」などと聞くようになった。これも時代の趨勢かと考えざるをえない。
          平成29年9月23日 記 


      「話のさわり」について
      
 今年度の文化庁調査(国語に関する世論調査)の中に「話のさわり」もあった。「話のさわり」は「話などの要点のこと」という意であるが、「話などの最初の部分のこと」と勘違いをしている人が半数以上に達するということだ。文化庁は、「さわりは義太夫節の最大の聞かせどころ,聞きどころとされている箇所を指した言葉でした。それが転じて,音楽や物語の最も感動的な部分,話や文章の要点などという意味で使われています。」と説明している。言葉は時代とともに変遷するものではあるが、多すぎるような気がする。スマートホンの使用で、更に拍車がかかるだろう。
         平成29年9月22日 記 


      「高いもの・安いもの」について
      
 『くらべる値段』(おかべたかし著)は、なぜその品物が高いのか安いのか検証した本である。「高いもの」にも「安いもの」にもそれなりの理由がある。作者は、「高いもの」には夢が、「安いもの」には努力があるとしている。
 ところで、今葡萄「ピオーネ」をつくばと土浦で販売しているが、スーパーに並んでいるような大きさの(約500グラム)房ではなく、1キログラム前後のものを搬入している。区別化、差別化を図っているのである。大きな房にするためには、摘粒を適宜行う必要がある。結果、高い価格となる。それでも売れ残りは皆無だ。もし売れ残ったとしても、安易に値段を下げるつもりはない。価格競争をすれば、努力が水泡に帰して疲弊するだけである。価値を共有できる人に購入してもらえればと考えている。
         平成29年9月20日 記 


      「鯉魚風(りぎょふう)」について
      
 「鯉里風」とは「秋風」のこと、秋の季語にもなっている。秋の鯉は一年で一番脂肪がのって美味しい時期なので、「秋風」を「鯉魚風」と呼ぶようになったという。特に海のない内陸の地方では、好まれて食される魚だ。そういえば、昨日、若手を厳しく育てた広島カープが優勝した。当然の帰結と言っていいだろう。まさに「鯉魚風」が吹いたのである。
         平成29年9月19日 記 


      「恬淡(てんたん)」について
      
 讀賣新聞の番組欄にドラマの紹介文が載っていた。「欲を無用のものとして捨て、恬淡と人生の下り坂を行く」と。「恬淡」とは、「欲が無く物事に執着しないこと、あるいはそのさま」という意である。人生の中で、これが難しい。茨城県前知事の某氏もこの境地があれば、晩節を汚さずに済んだろう。「四時の序、功を成す者は去る」『史記』とある。これを実践する人のなんと稀なことか。だからこそ、このような言葉が残っているのかもしれない。
         平成29年9月16日 記 


      「万能(まんのう)」(農機具)について
      
 写真の農機具は「万能」という。農作業の様々な場面に使用するまさに万能(ばんのう)の機具である。しかし、その万能さが今回禍となってしまった。万能の先にある棒を取ろうとして、それに気付かず刃(多少湾曲している)の部分を強く踏んだから、柄の部分が私の目を直撃したのである。二日ほど目を開けられないほど腫れ上がり、普段の生活にも支障が出てしまった。眼球に多少の傷はあるが、大きな損傷ではないという診断に安堵した。それでも、夜間の外出は視角の関係で控えたほうがよいとの助言があり、鬱々とした日々を送っている。今となっては、その名前「万能」、「何にでも利用できる」ということが恨めしい。
         平成29年9月15日 記 


      「~たいです」について
 
 「夢は何ですか」の質問に「毎日頑張りたいです」と答えるCMがあった。この「毎日頑張りたいです」を考えてみたい。
  頑張り・・・五段活用「頑張る」の連用形
  たい・・・・希望の助動詞「たい」の連体形か終止形だが決定はできない
  です・・・・断定の助動詞「です」の終止形
 「です」は体言かある種の助詞などに接続するが、助動詞にはしない。正しくは「毎日頑張ることです」となる。しかし、これも次第に市民権を得ることになるのだろう。
         平成29年9月9日 記 


      「静謐(せいひつ)」について
 
 道徳を教科として実施することに関連して、教科書採択の問題をニュースで取り上げていた。教科書採択の会議を非公開しているのは、静謐な環境で行うためだとしている。「静謐」とは、「静かで落ち着いていること」という意である。その中で、「静謐」を「静ひつ」と記載する愚行があった。漢字は表意文字なので、「静ひつ」としてしまっては何の意味もない。「静謐(せいひつ)」とすべきではないのか。何度も提唱しているが、改善は見あたらない。残念だ。
 ところで、教科書検定の必要性について文部科学省は、「小・中・高等学校の学校教育においては、国民の教育を受ける権利を実質的に保障するため、全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等の保障、適正な教育内容の維持、教育の中立性の確保などが要請されている。文部科学省においては、このような要請にこたえるため、小・中・高等学校等の教育課程の基準として学習指導要領を定めるとともに、教科の主たる教材として重要な役割を果たしている教科書について検定を実施している。」と記載していてる。「市町村立の小・中学校で使用される教科書の採択の権限は市町村教育委員会にありますが、採択に当たっては、都道府県教育委員会が市町村の区域又はこれらの区域を併せた地域を採択地区として設定します。」と共同採択についても述べている。
 大阪市は、過去の反省を踏まえて教科書採択の会議を公開で行い、その経過を明らかにした。何事も結論ありきでは不愉快だ。利権を排除しなければならない。何故なら教科書は、「全国的な教育水準の維持向上、教育の機会均等の保障、適正な教育内容の維持、教育の中立性の確保」するためのものだから。
         平成29年9月8日 記 


      「奇貨(きか)として」について
 
 巨人の山口俊投手の一連の問題で、巨人の対応について選手会が、「本件を奇貨として不当な解雇を突きつけることで、金銭的な負担を軽くする意図があったのではないかと邪推せざるをえない」 と主張している。この「奇貨」は
 1 珍しい品物
 2 利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会
という意味で、「奇貨として」と使用されることが多い。問題の多い山口選手を、「そのオイシイ状況を利用して」かなり厳しい処分にしたのだろうと選手会は考えているのである。
 それにしても、自分の球団で育てることを忘れて、他から引き抜くことばかり考えているから、この体(てい)たらくである。山口選手がかなり問題があることは、素人の私にも分かっていた。 
         平成29年9月1日 記 


      「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」について
 
 「鼎の軽重を問う」とは、「人の実力を疑ってその地位をくつがえそうとすること」「人の能力を疑うこと 」という意である。「軽重」は「けいちょう」であり、「けいじゅう」ではない。しかし、多くの辞書で「けいじゅう」も容認している。これは、慣用読みでないかと思われる。慣用読みとは、正式な読み方以外によく用いられる読み方のことである。「重複」が本来「ちょうふく」なのに、「じゅうふく」とも読まれるようになってしまったことなども例として挙げられる。言葉は確かに時代とともに変化するが、安易に容認することは徒に混乱を招くだけである。そのうち「的を得る」が正しく、「的を射る」は間違いであるなどと記載されるのでないかと危惧している。 
         平成29年8月30日 記 


         「鰻」について
 
 『万葉集』に次のような大伴家持(おおとものやかもち)の短歌がある。
「石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻(むなぎ)捕り喫(め)せ」
「夏痩せには鰻がいいから捕って食べなさい」と、大伴家持は石麻呂をからかっているのである。つまり、既に夏場の滋養として鰻が食べられているのが分かる。こんなことからも人々の生活が推察できる。当時の鰻の発音は、「ウナギ」ではなく「ムナギ」なのでご注意を。 
         平成29年8月12日 記 


         「肝に命ずる」は間違い
 
 巨人阪神戦について、「・・・肝に命じてほしい」と書き込みがあった。心に刻むのであるから、正しくは「・・・肝に銘じてほしい」となる。このような間違いが実に多い。 
         平成29年8月10日 記 


         「覆水盆に戻らず」は間違い
 
 江崎沖縄・北方担当大臣が、「覆水盆に戻らずで、一度、活字に残った以上、私の言葉足らず。これは大いに反省。・・・」と発言していたが、正しくは「覆水盆に返らず」である。仕事し内閣のはずが早くも馬脚(ばきゃく)を現したか。また、「日米地位協定をもう少し見直さないといけない」とも発言していた。沖縄県民を幾度となく苦しめてきたこの協定の見直しは是非とも行ってもらいたい。期待して見守っていく必要がある。
         平成29年8月9日 記 


         「黄門(こうもん)」について
 
 「黄門」というと「水戸黄門」、つまり徳川光圀を指すようになってしまったが、水戸家の当主は代々中納言、よって全員「黄門」となる。「黄門」とは中納言の唐名である。「黄門」といえば光圀を指すことの大きな理由は、『大日本史』の編纂にある。徳川光圀が始め、実に250年以上の歳月を経て、明治39年に完成をみた。水戸家は、この事業に莫大な資金を費やした。「水戸学」の基礎ともなった事業である。
 明治天皇が明治33年笠間に行幸された折り、光圀に正一位を送られている。その時の言葉が、「贈従一位徳川光圀夙(つと)に皇道の隠晦(いんかい)の慨(うれ)ひ深く武門の驕盈(きょうえい)を恐れ名分を明かにして志を筆削に託し正邪を弁して意を勧懲(かんちょう)に致せり洵(まこと)に是れ勤王の倡首(しょうしゅ)にして実に復古の指南たり朕常陸に幸し追念転々(うたた)切なり更に正一位を贈り以て朕が意を昭(あきらか)にす」であった。
  隠晦・・・隠れてわからないようにすること。
  驕盈・・・分不相応の贅沢をすること。
  筆削・・・文章の語句を書き加えたり削ったりすること。
  勧懲・・・勧善懲悪。
  倡首・・・率先して呼びかけること。
         平成29年8月8日 記 


         「定府(じょうふ)」について
 
 「定府」とは、江戸時代参勤交代をせず大名等が江戸にいたことである。水戸藩は定府であった。藩祖、徳川頼房は徳川家康の11番目の子であり、その子徳川光圀(水戸黄門)は家康の孫になる。御三家の中で最も石高が低く35万石(尾張62万石、紀伊56万石)、また、位も中納言(尾張・紀伊とも大納言)であった。参勤交代に莫大な費用がかかることを考えたら、水戸にとってはありがたい制度であったろう。
         平成29年8月7日 記 



         「枕草子」について

 『枕草子』の作者清少納言は、993年中宮定子(ていし)に仕え、中宮の死後間もなくの1000年に宮中を退いている。紫式部は、1005年頃彰子(しょうし)に仕え始めるので、二人は同時期に宮中にいなかった。
 ところで、『枕草子』の「枕」について諸説がある。
 1 寝具の「枕」とする説。
   内大臣伊周(これちか)が献上した料紙を「枕にこそははべらめ」
  と清少納言が答えたところくださった。
     ※伊周・・・藤原道隆の子、中宮定子の兄
 2 「枕」を「座右に置いて離さないもの」の意として、備忘録または手控 
  えのことだとする説。
 3 「枕」を「枕言(まくらごと)」「歌枕」などの枕とみて、題詞を集め
  たものとする説。
 4 「白髪の老監(ろうかん)書を枕にして眠る」(白髪の老役人は書物を
  枕にして眠っている)『白氏文集 』を踏まえているとする説。
 藤原氏が摂政関白として権力を握っていった。その手段が、外戚(がいせき)政策であった。そのため、女子の教育には熱心で、世の才女を女房として仕えさせた。宮廷女流文学が花開くのである。
   ※外戚政策・・・娘を天皇の后にして皇室と姻戚関係を結ぶこと
         平成29年8月3日 記 



         「庭屋一如(ていおくいちにょ)」について

 「庭屋一如」とは、家屋と庭園が一体となっていることを指す。多くの庭園を有する京都で使われている言葉らしい。自然を愛する日本人らしい言葉だ。庭にも哲学を見出してしまう我々の精神性を表す言葉だろう。古来、日本人は自然とともにあった。木に山に川に海に、神々を見出してきた。環境保護やエコなどと近年声高に叫ばれているが、日本人は元来そのような民族なのである。自然を支配しようとする西洋人とは、本質的に違っている。
         平成29年7月30日 記 



         「最期」か「最後」か

 先日のテレビの字幕、「命の終わり」という文脈の中で「最後」と記載されてあった。これは間違いであり、「最期」と書かなければならない。「最期」と「最後」、しっかり認識してほしい。
         平成29年7月29日 記 



         「老獪(ろうかい)」について

 「老獪」とは、「いろいろな経験を積んでいて、悪賢いこと」という意味である。
 島崎藤村が、姪のこま子との関係を精算しようとして『新生』を書いた。その主人公を評して、芥川龍之介は「老獪な偽善者」と切って捨てた。島崎家では、藤村の父親と長姉が狂死するなど様々な問題があった。芥川龍之介の母親は、龍之介を産んだ7ヶ月後に精神に異常をきたし、11歳の時亡くなっている。似たような家系から、ある意味龍之介は藤村に親近感を覚えていたという。そのような状況下での『新生』の上梓(じょうし)、藤村に裏切られたような気分になったのであろう。
         平成29年7月27日 記 



         「難読語12」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 侮蔑   2 無聊   3 閉塞   4 辟易   5 鞭撻   
 6 萌芽   7 芳醇   8 幇助   9 豊饒  10 保然 
11 放擲  12 冒瀆  13 彷彿  14 放埒  15 木訥
         平成29年7月25日 記 

1 ぶべつ    2 ぶりょう   3 へいそく  4 へきえき  
5 べんたつ  6 ほうが    7 ほうじゅん  8 ほうじょ
9 ほうじょう  10 ほうぜん   11 ほうてき 12 ぼうとく 
13 ほうふつ  14 ほうらつ  15 ぼくとつ 


      「和泉式部」について
 

 「和泉式部」は本名ではない。幾つか伝わっているが、類推の域を出ない。夫、橘道貞(たちばなのみちさだ)が、999年和泉守(いずみのかみ)として和泉国に下ったことと、父、大江雅致(おおえのまさむね)の官名により、「和泉式部」という候名(さぶらいな)をもつことになった。二人の間にできた子が、小式部内侍(こしきぶのないし)である。小式部内侍は、若くして亡くなってしまう。その哀傷歌が残されている。
 「とどめおきて誰をあはれと思ふらむ子はまさるらむ子はまさりけり」
 「もろともに苔の下には朽ちずしてうづもれぬ名を見るぞ悲しき」
         平成29年7月21日 記 



      「おととい」と「おとつい」について
 

 時々、「おととい」か「おとつい」か、迷うことがある。次のようなことが分かった。

【語源由来辞典】「おととい」について
 「おとつい(をとつひ)」が転じて語で、現代でも「おとつい」という地方がある。「おと(をと)」は、遠方を意味する古語「おち・をち(遠)」に由来し、「つ」は「の」を表す助詞、「い(ひ)」は「日」を表している。つまり、おとといは「遠方の日」という意味になるが、「おち・をち(遠)」は空間だけでなく、時間的にも遠いことも表すようになった語なので、「おととい」には「遠く過ぎ去った日」という意味が含まれる。
【ウィキペディア】
 「おととい」と呼ぶ地域は、関東地方、東北地方の太平洋側、九州地方中央部に多い。近畿地方、岐阜県周辺、中国地方、四国地方、宮崎県、福岡県などでは「おとつい」と呼ぶ地域が多い。

 ちなみに放送界では「おととい」を使用している。「 前日(をとつひ)も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも」(万葉集・橘文成)という歌もあるように、「をとつひ」が本来のかたちではあったが、時代の変遷に伴い「おととい」となったようである。しかし、その使い方は、今でも厳然として日常性の中に生きているのである。
         平成29年7月15日 記 



      「百足(むかで)」を「蛇蝎(だかつ)」のように嫌う
 

 「ムカデ」を漢字で書くと「百足」となる。昨夜、寝室に「百足」が出没した。すぐさま退治したが、よくツガイでいるので気を付けなければならない。以前「百足」に刺されたので、その恐ろしさは身にしみている。手袋の中にいた「百足」に気付かず、刺されたのである。ガラスで切られたよう痛みとともに、手は腫れ上がった。
 ところで、嫌われる代表として挙げられるのが「蛇蝎」である。「蛇蝎のように嫌われる」とよく使われる。私にとって「百足」は、「蛇蝎」のように嫌うものである。
  ※蛇蝎・・・蛇と蠍(さそり)、人が嫌うもののたとえ 

         平成29年7月11日 記 



         「戒飭(かいちょく)」について
 

 新聞に「我が身命を賭して述べる古巣への戒飭」とあった。この漢字「戒飭」を初めて見た。調べてみると「人に注意を与えて慎ませること」という意であった分からない漢字や読めない漢字は、どれほどあるのであろうか。勉強は一生続くものだと改めて感じた。 
         平成29年7月10日 記 



         「くすし」について
 

 「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医師(くすし)。三つには、智恵ある友。 」と吉田兼好は『徒然草』に書いている。古文の「くすし」とは医者のことである。
 6月の下旬から左耳の調子が悪く医者にかかっていたが、一向に病状が好転せず病院を変更した。7月7日に変更したから、一週間、左耳がほとんど聞き取れない苦しい状態であった。日常的な耳掃除が、炎症を引き起こしまったのだ。最初の医者のままだったら、おそらく辛い日々が続いたであろう。変更した病院の医者は、適切に症状を判断して治療薬も決めてくれた。以前、肺炎を風邪と診断され苦しんだこともあった。医者も様々である。
 700年前、吉田兼好が「くすし」を挙げているが、いつの時代も名医者は必要だ。
         平成29年7月9日 記 



         「脆弱(ぜいじゃく)」について
 

 「民進党は党内基盤が脆弱で・・・」と新聞にあった。「脆弱」とは、弱くてもろいことである。今回の都議選を見ても、それは否めないであろう。民主党時代のあのていたらく。いつもながらの自民党の奢り。我々は誰に政権を委ねたらいいのであろうか。
 「脆弱国家」を米国のNGO組織平和基金会(The Fund of Peace)は次のようにランキング(2016年版)している。「ソマリア、南スーダン、中央アフリカ共和国が上位3位を占め、日本は178か国中157位。最下位(最も安定し持続可能な国家)はフィンランド」と(goo国語辞典より)。疑ってしまう日本の順位である。
         平成29年7月5日 記 



         「美味しかったです」でいいのか
 

 東京都議会選挙が行われ、自民党が歴史的な惨敗を喫した。さもありなんという結果だろう。小池知事が「昨夜はお酒を召し上がりましたか」の質問に対して、「まずビールで・・・。美味しかったです」と答えていた。
  「た」・・・過去の助動詞
  「です」・・丁寧な断定の助動詞
「です」はある種の助詞(「の」「ほど」「だけ」)などや「形容動詞の語幹」「動詞・形容詞の連体形」に接続する。つまり、「です」は助動詞に接続しないのである。「です」を付ければ、丁寧な言い方となり文法的にも正しいというわけではない。ここは、「ございます」を付けて、「美味しゅうございました」(美味しいのウ音便)と言うべきであった。美しい日本語が滅んでゆくのは残念だ。

         平成29年7月4日 記 



         「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」について
 

 ニュースの解説者が、稲田防衛大臣の発言に対して「安部総理は、泣いて馬謖を斬る・・・」と主張していた。諸葛孔明(しょかつこうめい)が、命令に背いて敗戦した大切な部下の馬謖を泣きながら斬った故事から、規則を守るためには私情をはさまず処分するという意である。印象操作などと発言している人物には、そのような気持ちは微塵もありはしないだろう。 
         平成29年7月2日 記 



         「半夏生(はんげしょう)」について
 

 「半夏生」ついての説明をウィキペディアは、「かつては夏至から数えて11日目としていたが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日となっている。毎年7月2日頃にあたる。この頃に降る雨を〔半夏雨〕(はんげあめ)と言い、大雨になることが多い。地域によっては〔半夏水〕(はんげみず)とも言う。」と記載している。この日、関西地方では田植えの労苦を慰撫し、神に感謝して豊作を願ってタコを食べる習慣があるそうだ。
 平成27年6月に京都天龍寺で「半夏生」という植物を見て、その言葉を初めて知った。植物の「半夏生」という名には、毎年7月2日頃に花を咲かせることに由来する説と、葉の一部を残して白く変化する様子(半化粧)からとする説がある。近年絶滅が心配されているという。
      
             天龍寺に群生する半夏生

         青空に冴える白さや半夏生  山崎
 
         平成29年7月1日 記 



         「領袖(りょうしゅう)」について

 讀賣新聞に、「傷だらけの状態だ」(派閥領袖)と現在の自民党を評している記事があった。権力を握り、長くその場に留まっているとおごりが出てくる。一連の事件は、当然の帰結かもしれない。
 ところで、「領袖」であるが、「領」は「えり」のこと、「袖」は「そで」のこと。どちらも人目に付くことから、集団を率いる人物を指すようになった。「四時の序、功を成す者は去る」『史記』とある。領袖たる人物はそのような心構えをもちたいものだ。
         平成29年6月30日 記 


         「少しづつ」は正しいのか

 「少しづつ」と記載されたのを二度ほど目にしたので調べてみた。そうすると下記のようなことが分かった。
 【内閣告示第一号「現代仮名遣い」昭和61年7月1日】に次の記載がある
〈 第2 特定の語については、表記の慣習を尊重して、次のように書く。
 5 次のような語は,「ぢ」「づ」を用いて書く。
 (1) 同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」
    例 ちぢみ(縮み) つづみ(鼓)
 (2) 二語の連合によって生じた「ぢ」「づ」
    例 はなぢ(鼻血) みかづき(三日月)
 なお,次のような語については,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として,それぞれ「じ」「ず」を用いて書くことを本則とし,「せかいぢゅう」「いなづま」のように「ぢ」「づ」を用いて書くこともできるものとする。〉
 (2)の例の中に「ひとりずつ」とある。つまり「ひとりづつ」も認めるとのことである。よって、「少しずつ」を本則として「少しづつ」も間違いではないことになる。ただし、学校では「少しずつ」を正しいものとしているので注意が必要だ。また、官庁や会社などでは、「この場合はこのような表記にしましょう」との約束事があるので確認することが求められる。
 分かり易いホームページがあったので紹介する。
【「コトバノ」のホームページより】
「ずつ」と「づつ」はどちらを使っても誤りではありませんが、「ずつ」を使うほうが好ましいとされています。蝶々をてふてふと書いたのと同じく「づつ」は歴史的仮名遣いです。元々は「づつ」と書いていたものを、戦後の昭和21年に「これからは現代仮名遣いを使っていくようにしましょう」となったために「づつ」は誤った用法であることにされてしまいました。
 ところが、旧仮名遣いを誤用と言い切ってしまうのでは、ご高齢の方が使う表現や文化的価値の高い文書に対して歪んだ認識が生まれてしまうことになります。そこで昭和21年に作られた「現代かなづかい」の一部が昭和61年になって「現代仮名遣い」と改訂されることになりました。その時に「ずつ」が本則(正しい使い方)であるが、「づつ」も許容すると改められたのです。現代仮名遣いにおける本則とは、教科書や公文書、新聞で使うべきとされているものですので、たとえば学校のテストで「づつ」と書いてしまうとこれは×になってしまいます。正確な表現は「ずつ」だけれど「づつ」と書く自由も与えたということですね。
 言葉の変化、多様性について厳密に定義するのではなく、曖昧さを残すことでそれぞれの世代の考え方や表現の仕方に配慮を見せたわけです。その一例がこの「ずつ」と「づつ」の用法なのでした。 
         平成29年6月28日 記 


         「難渋(なんじゅう)」は忘れられない熟語

 「難渋」、この熟語を忘れられない。なぜかというと、遙か昔の高校入試に出題(国語)されてあり、「なんじゅう」と振り仮名を付けることができなかったからだ。できた問題よりも、できなかった問題のほうが脳裏に刻まれる。不思議なものだ。剣道も勝った試合よりも、負けた試合のほうが印象深いし課題が明かになる。何事もそのようにできているのかもしれない。  
         平成29年6月27日 記 


         「千載一遇」について

 先日、将棋界で注目の戦いがあった。28連勝をかけた藤井四段と澤田六段の一戦だ。結果的に藤井四段の勝利となったのは御存知だろう。その前日、田中寅彦九段がその解説を行い、「澤田六段は、今回の一戦を千載一遇のチャンス・・・」と発言した。残念だったのは、「千載一遇」を「せんさいいちぐう」と言っていたことである。正しくは、「せんざいいちぐう」である。  
         平成29年6月25日 記 


         「梅仕事」について

 6月19日の読売新聞「編集手帳」は下記のようなものだった。
 「梅雨入りと前後して、梅の実が収穫期を迎える。梅酒、梅シロップ、梅ジャム・・・漬け込んだり、煮詰めたり、その滋養を暮らしに取り込むための一連の作業を梅仕事と呼ぶ。
 (中略)
 梅の木のある家は減ったが、梅仕事を楽しむ人は少なくない。店先には丸々とした実が山をなす。黄色がかってきたら梅干し作りの頃合いだ。
 しみ出した梅酢に赤ジソを加えるとルビー色に発色する。中国の梅では見られぬことと、梅専門店を営む乗松祥子さんが語り下ろした『百年の梅仕事』にある。梅雨の鬱陶しさを払ってくれる自然の妙に感じ入る。味わい深い果実である。」
 これを読み、私の「梅仕事」を考えてみた。厳冬期の剪定に始まり、害虫駆除、施肥、下草刈り、収穫と続く。その後、記載されてあった作業(梅酒や梅シロップ作り)にいそしむ。収穫後も、施肥(お礼肥)、害虫駆除、下草刈り、施肥(基肥)と私の「梅仕事」は一年間続く。その中心に収穫の喜びがある。
 梅から作る梅酒というと、この詩を思い出す。
       「梅 酒」
            高村 光太郎
  死んだ智恵子が造っておいた瓶の梅酒は
  十年の重みにどんより澱(よど)んで光を保み、
  いま琥珀(こはく)の杯に凝って玉のやうだ。
  ひとりで早春の夜ふけの寒いとき
  これをあがって下さいと、
  おのれの死後に遺していった人を思ふ。
  おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
  もうぢき駄目になると思ふ悲に
  智恵子は身のまわりの始末をした。
  七年の狂気は死んで終わった。
  厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
  わたしはしづかにしづかに味わふ。
  狂瀾怒涛(きょうらんどとう)の世界の叫も
  この一瞬を犯しがたい。
  あはれな一個の生命を正視する時、
  世界はただこれを遠巻きにする。
  夜風も絶えた。
         平成29年6月21日 記 


         「他山の石」について

 他の山から取ったつまらない石でも自分の玉を磨くことができることから、他人の取るに足りない言動でも自分を向上させる助けとなるという意。つまり、自分が尊敬する相手や手本とする言動に対して使用する言葉ではないので、注意したい。

 【文化庁のホームページより】
 「先生の生き方を他山の石として頑張っていきます。」 ― このように,「他山の石」という言葉は,「自分が手本にしたい目上の人の良い行い」という意味でしばしば用いられているようです。しかし,本来の意味は違っており,冒頭の言い方では「先生」に失礼な発言をしたことになってしまいます。
 (中略)

・「広辞苑」第6版(平成20年 岩波書店)
 たざんのいし【他山の石】 「他山の石以(もっ)て玉を攻(おさ)むべし」より、自分の人格を磨くのに役立つ他人のよくない言行や出来事。「―とする」 ▽本来,目上の人の言行について,また,手本となる言行の意では使わない。  
         平成29年6月20日 記 



         「人口に膾炙(かいしゃ)する」について

 膾(なます)や炙(あぶ)った肉は誰の口にも美味に感ずることから、人々の話題に上ってもてはやされ広く知れ渡るという意。故事成語である。
  故事成語・・・昔、中国で起こった出来事から生まれた教訓のこと。
         平成29年6月19日 記 


         「難読語11」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 煩悶   2 氾濫   3 凡例   4 批准   5 畢竟   
 6 罷免   7 剽軽   8 標榜   9 敏捷  10 頻繁 
11 敷衍  12 俯瞰  13 福音  14 普請  15 払拭
         平成29年6月13日 記 

1 はんもん    2 はんらん   3 はんれい  4 ひじゅん  
5 ひっきょう  6 ひめん   7 ひょうきん  8 ひょうぼう
9 びんしょう  10 ひんぱん   11 ふえん 12 ふかん 
13 ふくいん  14 ふしん 15 ふっしょく 


        「紫式部」について

 紫式部という名は、宮仕えをしていた時の女房としての呼び名であって、本名ではない。当時、女性の本名は、皇女、皇紀、皇子の乳母等、公的な立場にいた人以外ほとんど伝わっていない。女房の呼び名は、一般的に父親や夫などの官職によって付けられていた。父親が藤原為時(ふじわらのためとき)、「紫」は姓の「藤」に由来する。また、「式部」は、為時がかつて「式部丞(しきぶのじょう)」であったことによるらしい。
 藤原道長の娘彰子(しょうし)に仕え、世界に冠たる『源氏物語』を著すことになる。幼い頃、為時が藤原惟規(ふじわらののぶのり 式部の兄もしくは弟)に漢籍を教えるのを傍で聞いていて、惟規よりも先に覚えるので「この子が男の子であったら」と残念がったという。

        平成29年6月7日 記 



        「黒白をつける」について

 読み方は、「こくびゃく」である。物事の正邪をはっきりさせるという意である。同じ意味で「白黒をはっきりさせる」という言葉があり、これは「しろくろ」と読む。間違いやすいので注意したい。

        平成29年6月5日 記 



        「居られます」でいいのか

 公明党の北側議員が天皇陛下退位の問題に関して、「今上天皇が・・・居られます。」と発言していた。国会の場で、このような発言をしていいのだろうか。「居る」は謙譲語、自分をへりくだって言う時に使用する言葉だ。だから、今上天皇に使う言葉ではない。いくら後に「られ(尊敬の助動詞〈られる〉の連用形)」を使用したからといって、すまされる問題ではない。『枕草子』や『源氏物語』は、敬語の使い方に間違いがない。そうすると、1000年前の人のほうが、正しい言葉を使用していることになる。情けない

        平成29年6月2日 記 



        「圧巻(あっかん)」について

 巨人対阪神戦の解説は、小久保裕紀氏だった。その中で「今日の菅野のピッチングは、圧巻でした」と言っていた。その意味は、もっとも優れていることである。「圧巻」とは、科挙(中国の官吏登用試験)で最も素晴らしい答案を一番上に置いたことに由来する故事成語である。

        平成29年5月24日 記 



        「清少納言」について

 言わずと知れた『枕草子』の作者である。曾祖父は清原深養父(きよはらのふかやぶ)、父は清原元輔(もとすけ)、ともに歌人であった。ゆえに、「清少納言」の「清」は、「清原」からきている。当時(平安時代)、女房(にょうぼう)の宮廷での呼び名は、父兄・夫など身近な人の官名に基づいて付けられることが多かったので、誰か「少納言」であったことが推測される。そうすると読み方は、「清少○納言」ではなく「清○少納言」となる。どうも、そんなことが気にかかるお年頃である。
 ところで、清少納言は、藤原道隆(ふじわらのみちたか)の子、定子(ていし)に絶対的な献身と賛美を惜しまなかった。その心の交流が、『枕草子』に生き生きと描かれている。藤原道長(ふじわらのみちなが)の子、彰子(しょうし)に仕えていた紫式部とは同じ時期に宮廷にいることはなかった。

        平成29年5月21日 記 



        「言葉の力」を生かしたドラマについて

 NHKBSプレミアで放映された「京都人の密かな愉しみ」は、2015年1月から「秋」、「夏」、「冬」、「月夜の告白」と回を重ねて「桜散る」で完結した。人間の苦悩、喜び、触れ合い等を京都の四季や行事などを織り交ぜながら丁寧に描いた作品である。近年の言葉を羅列し奇を衒(てら)った浅薄なドラマではなく、言葉の余白を十分に使っている。まるで日本画を見るようであった。ドラマ作りとは、かくありたいものだ。くだらないドラマを見ることのない自分が、録画したものを5回も6回も見てしまっている。

        平成29年5月18日 記 



        再度「間髪を入れずに」について

 昨日のNHKスペシャル「和食ふたりの神様」の中で、ナレーターの樹木希林が「間髪(かんはつ)を入れずに口にした」と語っていた。「間髪」は、「かんぱつ」ではなく「かんはつ」と読む。さすがNHK。

        平成29年5月15日 記 



        「私淑(ししゅく)」について

 「私淑」とは、会ったことのない人を密かに師と仰ぎ、その言動を模範とすることである。ゆえに、直接指導を受けた人に対しては使用しない。

        平成29年5月14日 記 



        気を付けたい「重複表現」について

 無意識に使用してしまうのが、この重複表現である。誰しも一度は経験があるかもしれない。気を付けたいものだ。
  ・新しい新学期   ・頭痛が痛い  ・鉄の鉄橋  ・後で後悔する
  ・炎天下の下    ・被害を被る  ・新年明けましておめでとう
 調べれば他にもたくさん出てきそうである。

        平成29年5月10日 記 



        「多士済々」について

 読み方は「たしせいせい」で、意味は「優れた人材が多くいること」である。ところが、世の移ろいとともに間違いである「たしさいさい」も市民権を得ているという。誤読が闊歩(かっぽ)するのは、業腹(ごうはら)だ。

 「NHK文化放送研究所より」

 「済」の音読みには、「さい」(呉音)、「せい」(漢音)があります。この漢字を使った「多士済々」は「たしせいせい」が伝統的な読み方ですが、「たしさいさい」という誤読も広がってきたことから多くの辞書は「たしせいせい[多士済々]」の見出し語で、「『たしさいさい』とも」と記述しています。しかし、辞書の中には「誤って『たしさいさい』とも言う」と明記しているものもあり、「たしさいさい」への違和感・抵抗感は強いようです。放送でも伝統的な読みである「たしせいせい」を使っています。
 私もNHKに入るまでは、「多士済々」は「たしさいさい」だと思い込んでいました。ところが新人時代のある時、部内の会合でこの言い方をしたところ「それを言うなら『たしせいせい』だ!」と先輩記者から即座に注意されたことがあります。その時には「なにも満座の中で間違いを指摘して恥をかかせなくてもよいではないか」と少し恨めしく思ったものですが、「小言幸兵衛」などと嫌みを言われながらも若い人たちに端的に厳しく指導してくれた先輩たちのおかげで少しでも正しいことばづかいを身につけていくことができたと今では感謝しています。
        平成29年4月25日 記 



        「やがて」について

 昨日観た狂言「樋(ひ)の酒」の中で、主人が出かける際「やがて戻ろう」と言うと、太郎冠者(たろうかじゃ)と次郎冠者が「やがて、お帰りなされませ」と返した。この「やがて」は、「すぐに」という意味で現在の我々の使い方とは異にする。このように古文の中には、現在と違うものが多くある。太郎冠者と次郎冠者は、狂言の中で主人に使える召使いで、多くの失敗や滑稽な行動をする愛嬌のある人物として描かれている。
        平成29年4月24日 記 


        「啓蒙」から「啓発」へ

 「啓蒙」は、無知な人々に知識を与え教え導くこと。居丈高(いたけだか)な感じがする。「啓発」は、人々が気付かずにいるところを教え示して、より高い認識・理解に導くこと。本人が自力で答えに辿り着くようにすることがねらいである。このような意味合いから、学校や官公庁では、現在「啓発」を使っている。
        平成29年4月17日 記 


        「刮目(かつもく)」について

 「刮目」とは、目をこすってよく見るという意。「士別れて三日なれば、即ち当(まさ)に刮目して相(あい)待つべし」という文がある。立派な男子は、、三日間会わないでいると見違えるほど豹変しているから、目をこすって見なければならない、という内容である。そのように、日々猛省して自分を変えていかなければならない。
        平成29年4月16日 記 


        「父兄」から「保護者」へ

 以前、学校では「父兄会」と称していたが、現在はその言葉を使用せず「保護者会」としている。つまり、「父兄」から「保護者」になったのである。これは、時代の趨勢(すうせい)でもある。
 ところで、松戸市の小学校3年生誘拐殺人事件の犯人が逮捕されたが、PTA会長だという。前代未聞の所業だ。子どもたちを守るべき立場の人ではないか。学校は、子どもたちは何を信用していいのだろうか。この混迷は深い。社会全体で考えなければならない問題だ。
        平成29年4月15日 記 


        再び「念頭に入れる」は間違い

 TBSテレビ「ひるおび」の中で、早稲田大学教授 中林美恵子氏が、「・・・念頭に入れて・・・」と発言していた。正しくは、「念頭に置く」である。「頭に入れる」と混同しているのかもしれない。トランプ大統領就任前後から、その経歴(元アメリカ上院補佐官)によりテレビに出る機会が多くなった。小沢一郎ガールズの一人として、衆議院議員を一期務めたこともある。間違ってはいけない立場の人である。
        平成29年4月14日 記 


         「画竜点睛を欠く」について

 読み方は、「がりょうてんせいをかく」で「がりゅうてんせいをかく」ではない。梁の画家が寺の壁に竜の絵を描いたが、瞳を描き入れなかった。村人が不思議に思い聞いてみると、「瞳を入れたら、竜が飛び去ってしまう」と画家が答えた。そうすると、村人は瞳を描き入れるように迫った。仕方なく瞳を入れると竜が天高く昇ってしまったという。その故事からきている故事成語である。「睛」は瞳であり「晴」という字ではないので、注意したい。「画竜点睛を欠く」は、「最後の肝心な仕上げをしないこと」という意。
        平成29年4月12日 記 


         再び「他人事」について

 テレビ朝日「羽鳥慎一モーニングショー」で北朝鮮問題を取り上げていた。その中で、コメンテーターが「韓国を‘たにんごと’とせず・・・」と発言していた。それを漢字で書くと「他人事」となるのだろう。しかし、「他人事」の読み方は「ひとごと」である。メインキャスターの羽鳥慎一は、さすがに「ひとごと」と言っていた。世の移ろいとともに「他人事」を「たにんごと」と容認するような風潮もあるらしい。間違いは正さなくてはならない。
        平成29年4月11日 記 


         「難読語10」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 顚末   2 慟哭   3 洞察   4 陶冶   5 匿名   
 6 咄嗟   7 吐露   8 捏造   9 徘徊  10 剥奪 
11 法度  12 羽二重 13 範疇  14 反駁  15 頒布
         平成29年4月10日 記 

1 てんまつ    2 どうこく   3 どうさつ  4 とうや  
5 とくめい    6 とっさ    7 とろ    8 ねつぞう
9 はいかい  10 はくだつ   11 はっと 12 はぶたえ 
13 はんちゅう 14 はんばく 15 はんぷ 


         「うん」について

 BS8プライムニュースのメインキャスターが、人の話を聞くとき「うん、うん」と相槌を打つ。これが耳障りでいけない。話を聞くときは、「はい」「分かりました」などと言うべきではないだろうか。どれほどの知識人かは知らないが、品性を疑ってしまう。公共の電波を利用して全国に流しているのに、指摘をする人が周りには居ないのだろうか。これについては、自戒もしなければならない。
        平成29年4月5日 記 


         「蹂躙(じゅうりん)」について

 「蹂躙」とは、踏みにじられるという意味である。東京の杉並区長が、ふるさと納税に伴う税金の減収について、「物欲、肉食欲に蹂躙される」と発言していた。税収が減り区政にも支障をきたすことになり、この発言に至ったのだろう。都市部から地方へという趣旨で始まったふるさと納税が、都市部の行政を苦しめているというのは皮肉な話である。「あの市町村に納税すると、何々がもらえる」という話はよく耳にした。本来の目的から外れ、あらぬ方向へいってしまった。この制度を見直す時期にきているのではないか。
        平成29年3月30日 記 


         「難読語9」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 対峙   2 唾棄   3 手向   4 弾劾   5 耽溺   
 6 逐次   7 知悉   8 鳥瞰   9 凋落  10 陳腐 
11 追従  12 定款  13 涕泣  14 恬淡  15 伝播
         平成29年3月29日 記 

1 たいじ     2 だき     3 たむけ    4 だんがい  
5 たんでき   6 ちくじ     7 ちしつ    8 ちょうかん
9 ちょうらく  10 ちんぷ    11 ついしょう  12 ていかん 
13 ていきゅう 14 てんたん 15 でんぱ 


        頑張ってほしい」の表記が正しい    

 NHKニュースでインタビューの文字表示に、「頑張って欲しい」とあった。「欲しい」は補助形容詞(形式形容詞)だから、「ひらがな」となる。「頑張ってほしい」となるべきであった。正しく表記してほしい。
         平成29年3月28日  記



        忖度」の市民権について    

 森友学園国有地払い下げ事件に端を発した一連の問題で、「忖度」という言葉が飛び交っている。ニュース等で聞かない日はないぐらいである。ある意味、この言葉が市民権を得たと言っても過言ではないだろう。しかし、『水田道場読本』でもお分かりのように、それは以前から使われていた言葉である。あれだけ世の注目を浴びれば、「忖度」も本望だろう。
         平成29年3月26日  記



        補助(形式)動詞と補助(形式)形容詞の表記」について    

 「剣道をやってみる」の「みる」は本来の意味がなくなっている。このようなものを補助動詞(または形式動詞)という。通常、「て(接続助詞)+補助動詞」のかたちになっているので分かり易い。この場合の表記は、「ひらがな」である。
  1 城を見る。      見る(動詞)
    卓球をやってみる。  みる(補助動詞)
  2 人が居る。      居る(動詞)
    雨が降っている。   いる(補助動詞)
 同じようなものに補助形容詞(形式形容詞)がある。これも本来の意味がなくなって補助的に使われる。補助動詞と同じく「ひらがな」の表記である。
  1 籠手が欲しい。    欲しい(形容詞)  
    勉強を頑張ってほしい。ほしい(補助形容詞)
  2 お金が無い。     無い(形容詞) 
    考え方が正しくない。 ない(補助形容詞)
漢字かひらがなのどちらで書くかは迷うところである。
         平成29年3月24日  記



         「形式名詞の表記」について

 名詞は、普通名詞・数詞・固有名詞・形式名詞・代名詞に分けられる。形式名詞は、その語本来の意味を失って形式的に用いられるものであり、「こと・ところ・もの・ため」などがある。その表記は、「ひらがな」となる。
  1 事の顛末を話す。       事(普通名詞)
    頑張ったことが認められた。 こと(形式名詞)
  2 物を大切に扱う。       物(普通名詞)
    友達をいじめるものではない。もの(形式名詞)
  3 旅行したい所は茨城だ。    所 (普通名詞)
     これから出発するところだ。  ところ(形式名詞)
       
 平成29年3月22日


         「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」について

 「魑魅魍魎」の意味を調べると「人に害を与える化け物の総称。また、私欲のために悪だくみをする者のたとえ。▽「魑魅」は山林の気から生じる山の化け物。「魍魎」は山川の気から生じる水の化け物。」とあった。今、日本各所にこの「魑魅魍魎」が出没してはいないだろうか。
 東京都の百条委員会の席にもいた。しかし、あの都議会の体(てい)たらくはいったい何なのだろうか。「魑魅魍魎」をばっさりと斬り倒すのではなく、反論を許し汲々としていた。その結果、真実の究明には何ら至らなかった。旧制第一高等学校(現在の東大)の寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」は
   『行途(ゆくて)を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある
    破邪(はじゃ)の剣を抜き持ちて 舳(へさき)に立ちて我よべば
    魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か』

となっている。この気迫を示してほしかった。
           平成29年3月21日


         「難読語8」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 辛辣   2 趨勢   3 凄惨   4 脆弱   5 折衝   
 6 雪辱   7 折衷   8 刹那   9 僭越  10 漸次 
11 戦慄  12 造詣  13 蒼氓  14 咀嚼  15 忖度
         平成29年3月20日 記 

1 しんらつ  2 すうせい  3 せいさん   4 ぜいじゃく  
5 せっしょう 6 せつじょく  7 せっちゅう  8 せつな 
9 せんえつ  10 ぜんじ 11 せんりつ  12 ぞうけい 
13 そうぼう 14 そしゃく 15 そんたく 


         「~したいと思います」について

 以前から気になる言葉に「~したいと思います」がある。「これから会議を始めたいと思います」「2時から開始したいと思います」などのような表現をよく耳にする。「何も貴方が勝手に思わなくてもいいから始めろよ」とつい言いたくなってしまう。「これから会議を始めます」「2時から開始します」でいいのではないだろうか。慇懃無礼(いんぎんぶれい)までとは言わないが、どうも耳障りでいけない。
          平成29年3月19日 記 


         「馬齢(ばれい)を重ねる」について

 「馬齢を重ねる」は自分を謙遜して使う言葉で、他人には使用しない。なすこともなく無駄に人生を過ごしたという意で、上司などに使ったら顰蹙(ひんしゅく)ものである。馬を戦闘や農耕に使用したので、「馬」が出てくる諺や故事成語も多い。
  1 馬が合う  2 尻馬に乗る  3 馬の耳に念仏  4 馬耳東風
  5 老馬道を知る  6人間万事塞翁(さいおう)が馬
 故事成語の中に「泣いて馬謖(はしょく)を斬る」がある。この「馬謖」は人名なので動物の馬とは違うが、ここにも「馬」の文字が使われている。諸葛孔明(しょかつこうめい)が、命令に背いて敗戦した大切な部下の馬謖を泣きながら斬った故事から、規律を守るためには親しい者でも処罰するという意である。為政者には、この厳しさが必要である。「馬」という文字を見ると、この「泣いて馬謖を斬る」をいつも思い出す。
          平成29年3月17日 記 


         「文の種類」について
 
 文の種類は、単文、複文、重文の三つに分類できる。
 1 単文
   主語と述語の関係が、一回だけで成り立っている文。
   (例文) 私は、剣道の稽古をした。
        私は(主語)  した(述語)
 2 複文
   主語・述語の関係が二回以上成り立つが、結局一つの主語・述語の関係
  に考えられる文。
   (例文) 梅の咲く春が来た。
      ○梅の(主語) 咲く(述語)  ○春が(主語) 来た(述語)
      この関係を大きくみてみると下記のようになる。
       梅の咲く春が(主部)  来た(述語)
      ※連文節(文節が二つ以上ある)の場合は、主部・述部となる。
       「梅の咲く春が」は三文節だから連文節である。文節は「ネ」
       を付けて考える。「梅のネ 咲くネ 春がネ」と。
 3 重文
   主語・述語の関係が、並立の関係で二回以上成り立っている文。
   (例文) 花が咲き、鳥が歌う。
      ●花が(主語) 咲き(述語)  ●鳥が(主語) 歌う(述語)
       「花が咲き」と「鳥が歌う」が並立の関係になっている。
           平成29年3月16日 記 


         「天地天命に誓って」は誤り
 
 稲田防衛大臣が、籠池森友学園理事長との関係を尋ねられて「天地天命に誓って・・・」と語った。これは、「天地神明に誓って」の間違いである。籠池側の弁護士として法廷に立ったことはないとの発言を撤回し謝罪したが、こうなると理事長との関係も疑惑が増大する。何故なら、天地神明に誓ってないからである。国を守る防衛大臣、しっかりしていただきたい。
          平成29年3月15日 記 


         「一縷(いちる)の望み」について
 
 日ハム大谷選手に関する記事で、「今後の患部の状況次第では開幕ローテーション入り、さらには3年連続開幕投手にもいちるの望みが出てきた。」とあった。問題なのは、「一縷」とすべきところを「いちる」としたことである。「いちる」では、何のことかさっぱり分からない。やはり、「一縷(いちる)」のように漢字で書き振り仮名を付けるべきであった。このコーナーで何度も取り上げていることだ。残念至極。
 ところで、大谷選手の二刀流もやぶさかではないが、打者として立つことはリスクを背負うことにもなる。やはり、投手としての才能を生かすことが先決ではないだろうか。
   一縷・・・一本の糸から、ごくわずかという意味。「一縷の望み」
        というように使われる。
          平成29年3月14日 記 


         「忖度(そんたく)」について
 
 森友学園の一連の問題について、国会での論戦が続いている。その中で、安部首相と野党の議員が「忖度して・・・」と言っていた。「忖度」とは、他人の心を推し量ることである。森友学園の問題では、誰が誰の心を推し量ったのか解明が求められる。それにしても、「忖度」だけで8億円も安くなるのなら誰しもが願うことだろう。真面目にこつこつ働く人が報われないような社会であってはならない。
          平成29年3月9日 記 


         「押しも押されぬ」は誤り
 
 正しくは、「押しも押されもせぬ」である。実力があって堂々としているさまという意味である。一方、「押すに押されぬ」という言い方もあり、意味は似ている。
   「押しも押されもせぬ」 「押すに押されぬ」
 上記の二つが混同して使用され、誤った「押しも押されぬ」になったらしい。気を付けないと間違って使ってしまう可能性がある。

 「NHK放送文化研究所」より抜粋

 「押しも押されぬ」という言い方は、「押しも押されもせぬ(押しも押されもしない)」-実力があって(堂々として)立派な様子-と「押すに押されぬ(押しても押せない)」-厳として存在する(争うにも争われぬ)事実-との混交・混用表現です。近年この言い方・表現が「押しも押されもせぬ」と同じ意味として広く使われているようですが、国語辞書の中には「押しも押されもせぬ」の語釈(ことばの意味や使い方の説明)の中で<「押しも押されぬ」は誤った言い方>と明記して注意を呼びかけている辞書もあります。
 また、国内の主な新聞社や通信社の『用字用語集』や『記者ハンドブック』なども、この「押しも押されぬ」という言い方を「誤りやすい表現・慣用語句」に挙げたうえ、「押しも押されもせぬ[=しない]」への言いかえを示しています。例えば<押しも押されぬ→押しも押されもせぬ「揺るぎない、誰もが認める」意味の慣用句。「押すに押されぬ」との混同。>『最新用字用語ブック[第6版]』(時事通信社編)など。
 この誤った表現は若い世代を中心に広がっているのは確かなようです。文化庁の平成15年度の「国語に関する世論調査」では、「実力があって堂々としていること」の本来の言い方である「押しも押されもせぬ」を使う人が36.9%にとどまったのに対して、間違った言い方である「押しも押されぬ」を使う人が20代~30代を中心に半分以上51.4%もいました。

          平成29年3月2日 記 


         「世耕大臣の発言」について
 
 世耕経済産業大臣が「書類が見れて・・・」と発言していた。これは、経済産業省の各部屋に施錠をしたことの説明の一節である。天下に号令する内閣の重鎮(じゅうちん)が、このようなことでは困ってしまう。それでなくても、「見れる」「食べれる」「来れる」などの言葉が当然のように闊歩(かっぽ)しているのに。再度確認する。
 上一段活用・下一段活用・カ行変格活用は、助動詞「られる」接続となる。
    見(上一段活用未然形)+られる→見られる
    食べ(下一段活用未然形)+られる→食べられる
    来(カ行変格活用未然形)+られる→来られる 
近頃は「ら」抜き言葉を耳にすると、頭痛がする。微力ながら正しい日本語を守ることに力を注ぎたい。 
          平成29年3月1日 記 


         「好文木(こうぶんぼく)」について
 
 今、日本三名園の一つ偕楽園で、「梅まつり」が開催されている。白梅紅梅3000本が80%開花しているという。その一角に確かな存在感を示しているのが好文亭だ。晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、 梅の異名を「好文木」といったことから、好文亭と命名 されたと言われている。偕楽園の南側斜面には、正岡子規の「崖(がけ)急に梅ことごとく斜めなり」の句碑もある。常陸太田市の深山幽谷の地にある西山荘(徳川光圀が隠居し生活した住まい)にも梅が植えられている。学問に精励する水戸藩の気風が、偕楽園を作り出したのだろう。
        
          水戸偕楽園 好文亭
          平成29年2月28日 記 


         「李下(りか)に冠を正さず」
 
 上記の言葉は、故事成語である。故事成語とは、
故事に基づいてできた言葉で中国の故事に由来するものが多い。「蛇足」「矛盾」「画竜点睛を欠く」など多くの言葉が挙げられる。「李下に冠を整さず」とは、「スモモの木の下で冠を直すと、盗んでいるように疑われることから、誤解を招くような行動はするな」という意である。同じ意味で「瓜田(かでん)に履(くつ)を納(い)れず」がある。世の中には、疑わしいどころか真っ黒なのにしらを切る国家もある。 
          平成29年2月26日 記 


         「喧々囂々(けんけんごうごう)」が正しい
 
 昨日のNHKクローズアップ現代は、『騎士団長殺し』の出版に合わせて村上春樹を取り上げていた。読者の声を紹介していたが、その中の一人が堂々と「喧々諤々・・・」と話していた。このことは以前も記載したが、間違いである。正しくは、「喧々囂々」「侃々諤々(かんかんがくがく)」である。二つが入り交じってしまったのだろう。NHKなのだから、インタビューするとき訂正してもらうぐらいの配慮があってしかるべきだ。間違いを助長している。益々、間違いが定着してしまう。「食べれる」「見れる」「来れる」(このすべてが誤り)などのような二の舞を演じてはならない。
  喧々囂々・・・大勢の人がやかましくしていること
  侃々諤々・・・正しいと思うことを堂々と主張すること 
          平成29年2月24日 記 


         狂言「庵梅」から見えてくること
 
 昨日の読売新聞に狂言「庵梅」についての記事があった。それは、五世茂山千作(71歳)が襲名披露公演に選んだ演目(高齢の狂言師が演ずる演目)であり、家元の許しがなければ上演できなかったものだという。「能狂言では、老いは何も出来ないこと、といった否定的なとらえ方をしない。長寿をことほぐという意味もあるだろう」と評論家も指摘する。確かに、能の演目でも高齢でなければ演じられないものがある。「名人になれば、わずかの動きで多くを想像させる。そぎ落とした表現こそ芸の究極なのだ」と新聞は結んでいる。
 最後の一節は、「道」と付くすべてのものに共通することだ。「剣道」「弓道」「茶道」「華道」「書道」など(「柔道」はオリンピックの種目に入り堕落してしまったので敢えて加えない)そのどれもが、余分なものを取り除く作業である。「剣道」もそぎ落としたものが多い人ほど、無駄のない動きで相手を制することが出来る。
          平成29年2月23日 記 


         「わび・さび」について
 
 水田道場のkさんから『翻訳できない世界のことば』(作者エラ・フランシス・サンダース)という本をお借りした。各国の言葉が取り上げられていて、興味深く読むことができた。その中に「わび・さび」があり、「生と死の自然のサイクルを受け入れ、不完全さの中にある美を見出すこと」と訳されてあった。「仏教の教えがルーツにある日本のこの考え方は、不完全であるものに美を見出す感性です。うつろいと非対称性をくらしの中に受け入れるとき、わたしたちつつましく、満たされた存在になりえます。」との作者の考えも掲載されてあった。自然の中に神々を見出し共存してきた日本人は、非常に寛容な考え方をもって生活してきた民族である。それは、「不完全であるものに美を見出す感性です」に繋がるものではないだろうか。それにしても、その国の言葉を本当に理解するためには、当事国での生活が不可欠かもしれない。

「わび」とは(ウィキペディアより抜粋)
 本来は、いとうべき心身の状態を表すことばだったが、中世に近づくにつれて、不足の美を表現する新しい美意識へと変化し、室町時代後期に茶の湯と結び付いて急速に発達し、江戸時代の松尾芭蕉がわびの美を徹底したというのが従来の説であったが、歴史に記載されてこなかった庶民(百姓)の美意識を説こうとする説が発表された。
「さび」とは(ウィキペディアより抜粋)
 「さび」とは、老いて枯れたものと、豊かで華麗なものという、相反する要素が一つの世界のなかで互いに引き合い、作用しあってその世界を活性化する。そのように活性化されて、動いてやまない心の働きから生ずる、二重構造体の美とされる。
          平成29年2月21日 記 


         「五人囃子」について
 
 現在、勝浦市など全国各地で「雛祭り」が行われている。鹿児島知覧の武家屋敷や霧島温泉のホテルでも雛壇が設けられていた。季節を感じさせる雛壇は、華やいだ雰囲気を醸し出す。その中で3段目に飾られているのが、「五人囃子」である。その並び方は、「能楽」の囃子方から来ていると言われている。向かって左から、太鼓、大鼓、小鼓、笛、謡(能楽では8人いる)となる。手にしているものの大きさの順番と覚えると間違いないかもしれない。今度、見かけたら確認してみてはどうだろうか。
          平成29年2月20日 記 


         「船村徹逝く」

 平成29年2月17日、作曲家船村徹が逝った。巨星墜つという感じである。「柿の木坂の家」「王将」「風雪ながれ旅」「みだれ髪」「おんなの出船」など数々の作品がある。その作品は哀愁を誘い、人々の応援歌になった。多くのヒット曲を生み出した背景には、心に響く歌詞があった。
    みだれ髪 
          星野哲郎 
   髪のみだれに手をやれば
   赤い蹴出しが風に舞う
   憎や恋しや塩屋の岬
   投げて届かぬ想いの糸が
   胸にからんで涙をしぼる
 素晴らしい詩とメロディーとの相乗効果が、心に残る歌を作る。現在は、言葉を操る作詞家がいない。これでは、演歌の灯火は消えていくばかりだ。
         平成29年2月19日 記 


         「難読語7」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 暫時   2 桎梏   3 灼熱   4 奢侈   5 惹起   
 6 驟雨   7 蒐集   8 蹂躙   9 収斂  10 須臾 
11 逡巡  12 饒舌  13 嘱託  14 斟酌  15 箴言
         平成29年2月18日 記 

1 ざんじ  2 しっこく  3 しゃくねつ   4 しゃし  
5 じゃっき 6 しゅうう  7 しゅうしゅう  8 じゅうりん 
9 しゅうれん  10 しゅゆ 11 しゅんじゅん  12 じょうぜつ 
13 しょくたく 14 しんしゃく 15 しんげん 


        「逆鱗(げきりん)に触れる」について

 
ニュースで「金正恩の逆鱗に触れて・・・」と流していた。「逆鱗に触れる」とは、「龍の顎(あご)の下の逆さに生えた鱗(うろこ)に触れると、龍が怒ってその人を殺すという故事から、天子や主君を諫めてその怒りを受けること」である。北朝鮮に起きていることは、日本の戦国時代に等しい。
       
    平成29年2月17日 記  


        「考えざるをえない」について

 
「~ざるをえない」という言葉を使う時、注意しないと間違うことがある。よく見かける間違いは、下記のようなものである。
   × 考えざるおえない  「を」が「お」になっている
   × 考えざる負えない  「負」では意味不明
   × 考えざる終えない  論外
   ○ 考えざるをえない  正解
 「考えざるをえない」を次のように考えると分かりやすい。
「考えざる+を+えない」、つまり「考えないというわけにはいかない」ということである。くれぐれも注意をしたいものだ。
       
    平成29年2月15日 記  


        「雲霧仁左右衛門」の台詞から

 
NHKBS時代劇「雲霧仁左右衛門」の中での一コマ。火附盗賊改安部式部が、雲霧仁左右衛門のことを評して「不倶戴天(ふぐたいてん)の敵、しかし、世が世であれば肝胆(かんたん)相照(あいて)らす・・・」と言っていた。「不倶戴天」とは、「ともにこの世に生きられない、また、生かしてはおけないと思うほど恨み・怒りの深いこと。また、その間柄。」(デジタル大辞泉より)という意である。これは、『礼記』の「父の讎(あだ)は与(とも)に共(とも)に天を戴(いただ)かず」からきている。逆から考えると、「ともに天を戴く」とは運命をともにするとか志を同じくするということになる。水田先生剣道範士受称記念祝賀会の折りに作った俳句
    「秋空を抱(いだ)きて今日の宴(うたげ)かな」
には、そのような意味合いがあった。
 「肝胆相照らす」とは、「互いに信頼し親しく付き合うこと」という意の故事成語である。
       
    平成29年2月7日 記  


        「裨益(ひえき)」について

 
NHK7時のニュースで、安部首相の答弁「アメリカとはお互いに裨益して・・・」を流した。このテロップが「アメリカとはお互いにひ益して・・・」と出た。このコーナーで何回も指摘しているが、漢字は表意文字だからこそ、瞬時に我々はその意味を理解することができるのである。「裨益」と表記するところを「ひ益」としては、ただ読めるだけで何の役にも立たない。こんなことも、読解力低下につながっているのではないか。
 さらに、9時のニュースでは、「少しずつ」と記載するところ「少しづつ」となっていた。このことは、我々も気を付けたいことだ。
      裨益・・・・助けになり役立つこと。
       
    平成29年2月1日 記  


        「問題文が理解できない」読売新聞より

 今朝の読売新聞の記事である。「読解力が危ない。問題文が理解できない」という文字が躍っていた。記事の内容は下記のようなものだった。
【普段のテストでも答えを何も書かない子たちから「問題で何を聞かれているか分からない」という声が出ていたからだ。(中略)大学生の読解力もおぼつかない。学生の劣化を指摘する著書がある音真司氏が講師を務めた私大では、読書をする学生は少数で、3年でゼミに入るまで図書館に行ったことのない学生もいた。音氏は「試験やリポートではSNSや日記のような文章を書いてくる。文の構造を理解せず、考えも整理できない」と話す。】
 これは、由々しき問題だ。以前からも指摘された内容でもある。藤原正彦も「国語をきちんと学ぶことで論理的思考能力が身についていくからです。算数や数学の先生は、算数や数学を勉強することで論理的思考ができるようになると言いますが、それはウソ。それが証拠に、数学者の多くが論理的ではありません。感情的です。ディベートをする、何かを主張する作文を書く、そうしながら論理的に考える力が身に付いていくのです。」と述べている。英語教育を充実させ英語が話せても論理的な思考力が身に付くわけではなく、思考の根底には母国語で考えるという過程があるそうだ。今こそ、読解力や論理的な思考力を高める国語の学習の充実が望まれる。
       
    平成29年1月30日 記  


        「俳句6」山の季語について

 
山に関した季語は下記のようになっている。
   山笑う・・・・春    山滴(したた)る・・・夏
   山装おう・・・秋    山眠る・・・・・・冬
日本の自然は豊かだ。そのため、言葉もそれに沿うようになっている。俳句の「山」に関した季語によく現れている。 
       
    平成29年1月28日 記  


        「お客様は神様です」について

 NHKのクローズアップ現代で、サービスをテーマにしていた。あるシェフが修業時代に働いていたところでは、「お客様は神様です」の考えで、客のタバコを買ってきてくれ、車を回してくれといった様々な要望に応えていた。その結果、従業員は疲弊しサービスも劣化したという。彼は後に自らレストランを開業するが、「サービスは食事に関することだけ」とする。そうすると、客の満足度も上がり従業員も生き生きとして働いたということだった。お金を払うからお客はどんな無理難題を言ってもいい、お店はそれを甘んじて受け入れなければならないなどという誤った考え方は、払拭するべきである。二者の間には、最低限の節度があってしかるべきなのだ。お互い様、お陰様といった考え方が希薄になっているのは悲しいことだ。子どもの声がうるさいから保育園を建てるな、除夜の鐘は昼間鳴らせ、運動会の練習の音量を下げろ等々、論外である。社会全体を考えて言葉を発するべきではないだろうか。
 ところで、「お客様は神様です」という言葉は、誤って流布されているらしい。これを言ったのは、三波春夫。彼は、「お客様を神様だと思い、神様の前で無心に素直になって芸を披露したい」と言っている。お客様が神様のように絶対的な存在なんだなどとは言ってはいない。
 SNSの急速な発達により、社会の在り方が変わってきた。しかし、人間としての大切な在り方までも変えていいはずはない。「 君子(くんし)博(ひろ)く学びて日に己を参省(さんせい)すればすなはち智(ち)明らかにして行ひ過ちなし。」(荀子)にあるように、自分の生活を見直すことが大切だ。
       
    平成29年1月27日 記  


        「重篤(じゅうとく)」について

 「相棒」の再放送を見ていたら、「重篤な公務員法違反が・・・」という台詞があった。おかしいと思い調べてみると、「重篤」は「病気の症状がおもいこと」という意味になる。だから、この場合は不適切である。脚本家はしっかりとした日本語を使ってもらいたいと思うのは自分だけであろうか。細かいことが気になる杉下右京にもお願いしたい。
  
         平成29年1月25日 記  


        「俳句5」句切れについて

 俳句は、「五七五」の17音からなり、それぞれ初句、二句、結句と呼ばれる。初句に切れ字がある場合は初句切れ、二句にある場合は二句切れ、二句の中間にある場合が中間切れである。切れ字には「かな」「や」「けり」の三語があり、感動の中心となる。
  1 初句切れ
     菊の香や奈良には古き仏たち     松尾芭蕉
     なきがらや秋風かよふ鼻の穴    飯田蛇笏
  2 二句切れ
     斧入れて香におどろくや冬木立   与謝蕪村
     ひつぱれる糸まつすぐや甲虫(かぶとむし) 高野素十
  3 中間切れ
     萬緑(ばんりょく)の中や吾子(あこ)の歯生え初(そ)むる
                      中村草田男
     摩滅せし踏み絵や黙す秋時雨    山崎淳一
        五島列島の堂崎教会で初めて「踏み絵」を見た。摩滅した
       「踏み絵」は、どれだけの人間の悲しみを受けとめたのであ
       ろうか。今、遠藤周作の「沈黙」が、マーティン・スコセッ
       シ監督により出会いから28年の歳月を経て映画化された。

            
            
 長崎 五島列島 堂崎教会 
               (平成26年11月2日撮影)

      
    平成29年1月20日 記  


        「辞世の句」について

 辞世の句とは、この世の最期に残す言葉で、俳句、漢詩、短歌などを指す。下記のようなものがある。
 旅に病んで夢は枯野をかけめぐる   松尾芭蕉
 身はたとひ武蔵の野べに朽ちぬともとどめおかまし大和魂  吉田松陰
 なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節は在りとこそ聞け 西郷千恵子
多くの人たちが最期の声を残している。身にしみてくる。
      
    平成29年1月19日 記  


        「俳句4」季語について

 俳句は、基本的に季語を入れることになっている。なぜかというと、季語を入れることにより、イメージが無限に広がるからである。例えば、「雪」という季語があると、「白い・冷たい・美しい・東北・大混乱」などのイメージをもつ。俳句は、わずかに17音、表現できる世界は極端に狭い。それを補うものが、季語なのである。季語を決めて、それから発想を広げて俳句を詠むこともある。季語を入れないものに、自由律俳句や川柳がある。季語は一つだけで、二つ以上使用する季重ねは行わないことになっている。
   外(と)にも出よふるるばかりに春の月 (中村汀女)季語「春の月」春
   たたかれて昼の蚊を吐く木魚哉 (夏目漱石)  季語「蚊」夏
   たましひのしづかにうつる菊見かな( 飯田蛇笏)季語「菊見」秋
   流れ行く大根の葉の 早さかな(高浜虚子)   季語「大根」冬  
      
    平成29年1月18日 記  


        「三島由紀夫肉声テープ発見」の記事について

 昨日の読売新聞に、「三島由紀夫肉声テープ発見」という記事があった。その中で次のような漢字が使用されていて、振り仮名が付いていた。一部平仮名にしなかったことが大切だ。このことについては何回も触れている。
      哄笑(こうしょう)・・大きな声で笑うこと
      畢生(ひっせい)・・・一生涯
      剔抉(てっけつ)・・・えぐり出すこと
      知悉(ちしつ)・・・・詳しく知っていること
覚えておきたい漢字だ。 
     
      平成29年1月17日 記  


        「日本刀の置き方」について

 昨日、ニュースステーションで坂本龍馬の書簡が発見されたことを取り上げていた。それはよかったのであるが、残念だったのは再現された「近江屋」(龍馬が暗殺された場所)の一室だった。何かというと、日本刀の置き方が、逆になっていたのである。刀の柄には「縁頭(ふちかしら)」が付いていて、「頭」が向かって左側にくるように置くのである。正しく伝えることは、メディアの使命ではないか。そういえば、昨年10月に高知県の龍馬記念館を訪れた際にも、間違っていた。館のガイドさんに伝えたが、直してくれたであろうか。
     
        
 頭と縁          正しい日本刀の置き方
          平成29年1月14日 記  


        「俳句3」17音について

 俳句は、基本的に17音である。その中で、拗音(ようおん)は1音とすることになっている。拗音とは、「しゃ・しゅ・きゃ・きょ・じゃ」などのように発音するものである。
     仏より痩(や)せて哀れや曼珠沙華  夏目漱石
この俳句の結句に「まんじゅしゃげ」とあるが、拗音を1音とするから5音と数える。つまり、この句は「五・七・五」の有季定型になっている。
 ただし、促音(そくおん)は1音として数える。促音とは、「言った・買った」に使われる「っ」のことを指す。
    そっと鳴け隣は武士ぞ時鳥(ほととぎす)    小林一茶
    秋十(と)とせ却(かえ)って江戸を指故郷   松尾芭蕉
二つの句とも「五・七・五」になっている。
          平成29年1月12日 記  


        またもや「了解しました」について

 1月1日の「相棒スペシャル」の中で、上司に対して部下が「了解しました」と言っていた。このことについては、平成28年12月12日に記載したとおり、「かしこまりました」「承知いたしました」などと言うべきである。「相棒」は、言葉遣いがしっかりしているとみていたのに残念である。
 ところで、細かなことが気になる杉下右京が、上司の前でも訪問した時でも、コートを脱がないのは不可解だ。一般常識から乖離(かいり)している。独特の発想と勘で、見事に事件を解決してしまうことは百歩譲ったとしても、コートを脱がない非常識は許されることではない。細かいことが気になる私。
          平成29年1月9日 記  


        またもや「どう喝」の表示

 ニュースの表示に「チェーンソーで相手をどう喝・・・」とあった。何度か取り上げた問題である。漢字が、表意文字だということを無視している。「どう喝」と表記して、何の意味があるのだろう。しっかり「恫喝(どうかつ)」とすべきである。この現状をどのようにしたら打開できるのであろうか。かといってテレビ局を恫喝することもできない。蛇足となるが、NHKニュースウオッチ9でも「トランプ次期大統領が、日本を恫喝しているようだ」と話していた。
          平成29年1月7日 記  


        旅行雑誌「アゴラ」にみる社会の趨勢(すうせい)

 JALの会員になっているので旅行雑誌「アルゴ」が送られてくる。12月号に次のような文が載っていた。「機械ではほとんどのものが作れる時代。最後に残る究極の贅沢が、人の手を介して作られる世界でひとつだけのクラフトなのだ。」「モノを多く持つよりも、価値あるものを少しだけという方向に世の中が向かっているのは明か。」この二つは、違う項目に書かれてあった一節である。しかし、その内容は不思議なほど合致する。確かな物を大切に長く使う、これこそ本当の心の充実でありエコでもあるはずだ。外国で作られた安価で粗製濫造な物が出回っている。それを手にして喜んでいる多くの人がいる。このへんで、それぞれの生活を見直してみてはどうだろうか。
          平成29年1月6日 記  


        「旗幟鮮明」について

 
今朝の読売新聞に「保革が激しく対立する韓国政界で旗幟鮮明・・・」とあった。「旗幟鮮明」は「きしせんめい」と読み、「主張や立場がはっきりしている」という意味である。新聞には、振り仮名が付いてあった。やはり、そうありたい。これで、「きし鮮明」とあったら、不買運動でも起こしたいぐらいだ。
         平成28年12月28日 記  


        「かい離」について

 昨日のニュースのテロップで「被爆者と政治家の間には大きなかい離がある」と出た。問題なのは「乖離(かいり)」と書かず「かい離」と表記することである。「脆弱」のところでも取り上げたが、漢字は表意文字だから「乖離」とするところに意味がある。漢字を見て、瞬時に意味を理解できるのである。「かい離」では、何のたしにもならない。まさに、読み手と書き手の間に乖離がある。
 それにしても、核兵器禁止条約にどうして日本は反対なのだろう。むしろ、唯一の被爆国として積極的に賛成するのが立つ位置ではないだろうか。IR法案の可決などを含めて、このところ与党の横暴が目に付く。国民との乖離だ。
         平成28年12月25日 記  


        病院での「・・・様」について

 ある時、病院で「・・・様」と呼ばれたときには、ひっくり返るほど驚いた。違和感で気持ちが悪くなった。病院に行って気持ちが悪くなっては、本末転倒である。案の定、患者が勘違いして、傍若無人の振る舞いをしたそうだ。最低の節度は必要だが、行き過ぎはよくない。慇懃(いんぎん)無礼という言葉があるが、それは人を不愉快にする。病院での「・・・様」は是正されたようで、この頃は聞かなくなった。しかし、新病院に移転した某病院で「何番さん」と人を番号で呼ぶのはいかがなものか。個人情報保護ばかりが一人歩きすると殺風景な社会になる。何事もほどほどにと言いたい。そんなことを私が言っても説得力がないか。
         平成28年12月23日 記  


         「下拵(ごしら)え」か「下処理」か

 先日のNHKのプロフェッショナル。鯛を調理する場面で、「鯛の下拵えを・・・」と放映していた。やはり、調理する場合は、「下処理」ではなく「下拵え」と言いたい。注意すると料理番組なのに「下処理」言っていることが多い。ああ、料理が不味くなりそうだ。
         平成28年12月22日 記  


         「難読語6」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 眩惑   2 語彙   3 狡猾   4 巷間   5 嚆矢   
 6 拘泥   7 更迭   8 枯渇   9 沽券  10 誤謬 
11 権化  12 混沌  13 猜疑  14 蹉跌  15 残滓
         平成28年12月21日 記  


        「両岸に屹立する急峻を分け」の表現について

 ノルウェーのフィヨルドを紹介する旅のパンフレットに、上記のような表現があった。思わず目に入ったのは、一昨年、その地を訪れたからである。両岸の切り立つ山々は1000メートルを超え、入り組んだ入江は同じく1000メートルの深さに達する。氷河が削り、そこに海水が浸入したためである。その深さ故、大型豪華客船も出入りする。驚くべきは、山々に家が点在することである。ノルウェーは、山また山の地である。わずかな土地を求めて人が住み、山羊などを飼いチーズ作りを生業(なりわい)としていたという。もちろん、現在はそのような生活ではないらしいが。それでも、海面から家に行くためには、道路などない急峻(きゅうしゅん)な地を登らなければならない。後日、テレビでその地の昔の生活を紹介していたが、子どもたちは遊ぶ時、紐につながれていた。フィヨルドに落ちないためである。確かに1000メートル転げ落ちたら大変だ。旅には驚きと発見がある。
 屹立は、「きつりつ」と読み、「そそり立つ」という意味である。さしずめ高浜の太鼓橋から見る筑波山を表現する時にも使いたくなる言葉だろう。
       
 
     ソグネフィヨルド             豪華客船の接岸 
          (平成26年8月24日撮影)

         平成28年12月20日 記  


        「同床異夢」について

 ニュースの解説で「プーチン大統領と安部首相は、北方領土の問題で、同床異夢(どうしょういむ)・・・」とあった。まさにそのとおりである。1ミリたりとも返還するつもりなどないだろう。四文字熟語は便利な言葉で、色々な場面で使われる。
         平成28年12月19日 記  


        「避難計画が脆弱なため」の読み方について

 ニュースでコメンテーターが、「川内原発の避難計画が脆弱なため・・・」と発言していた。脆弱は、「ぜいじゃく」と読み、「もろくて弱い」という意味になる。難読語は、このように普段から使われているのだ。
         平成28年12月13日 記  


        「了解しました」について

 西村京太郎の「十津川警部シリーズ」の中で、十津川警部が上司に「了解しました」と言っていたのは間違いである。上司なので、「承知しました」もしくは「かしこまりました」と言うべきである。「了解」という言葉は、同僚か下の者に使用する言葉である。これが案外分かっていない。テレビを見ていても、こんなことばかり気になってしまうので、疲れてしまう。挙げ句の果てにチャンネルを変えてしまう始末である。
         平成28年12月12日 記  


        「俳句2」

 私が、上佐谷小学校に勤務していたときに作った俳句は
   「山々に雲垂れ込めて走り梅雨」
であった。学校の周りには、山本山、雪入山、浅間山(せんげんやま)の三山が連なっていた。雨が降り出すときは、きまってその山々に低く雲が垂れ込め、あたかも山水の世界のようであった。季語は「走り梅雨」で季節は「夏」となる。
 ところで、俳句の形式として、有季定型の俳句と自由律俳句がある。
  ・有季定型の俳句
    17音(五七五)で季語を入れる。
      柿くへば鐘がなるなり法隆寺 (正岡子規)
      流れゆく大根の葉の早さかな (高浜虚子) 
  ・自由律俳句
    音数や季語にこだわらない。
      咳をしても一人 (尾崎放哉)
      分け入つても分け入つても青い山(種田山頭火)
         平成28年12月9日 記  


        「俳句1」

 「短歌1」「短歌2」と同窓生の男子生徒Sくんの作った俳句は、
   「山門とみどりの風と京言葉」(知恩院にて)
であった。単に名詞を羅列しているように感じられるが、実に京都の特徴を表している。偉容を誇る知恩院の山門、新緑の京都、そしてどこか懐かしい京言葉、そのどれもが彼にとっては感動の対象であったはずだ。俳句は、「嬉しい、楽しい、悲しい、辛い」などの言葉を使わず、それらの感情を表現しなければならない。例えば、小林一茶の句に「這(は)え笑え二つになるぞけさからは」がある。幼くして次々に亡くなっていく(4人の子どもが2歳まで生きられなかった)我が子を見送った一茶が、この子は無事に育ってほしいという気持ちを詠んだものである。そこには、前述した表記は何もない。しかし、痛いほど一茶の感情が伝わってくる。そのような観点からみても、Sくんの俳句は合致する。
 Sくんは、剣道部員であった。たらたら稽古をしているので、よく叱られた。しかし、この俳句を読んで、彼の違う一面をみたような気がした。人は、表面だけで判断してはいけないということを教えられた一句であった。
         平成28年12月8日 記  


        「言質を取る」の読み方は

 「げんちをとる」と読む。「交渉事などで、後で証拠となるような言葉を相手から引き出す」という意味である。ところが、「げんしつ」も容認している。誤読からきた慣用読みだとしている。誤読を一般的に使用するようになったからといって、辞書にも掲載していいものだろうか。やはり、誤りは誤りだとしていかなければ、何が真実だが分からなくなってしまう。
         平成28年12月7日 記  


        「短歌2」

 「短歌1」の作者と同学年でCさんがいた。その女子生徒が作った短歌が
   「東塔の木目の奥にまだ残るあせし朱色に昔を思ふ」 (薬師寺にて)
であった。国宝薬師寺東塔は飛鳥時代から残るものであり、古色蒼然としている。一方、西塔は、昭和56年(1981年)再建され真新しい。時代の変化を目の当たりした作者は、東塔に微かに残る朱に悠久の時を感じたのだろう。その才能と感性に驚かされた。
 ところで、西塔は東塔より約30㎝高くできているという。宮大工、西岡常一は500年の時を経て同じ高さになると説明する。一部鉄筋コンクリートを主張する大学教授と真っ向から対立して、木造にしたのが西岡常一だ。その卓越した力量と叡智は何者をも越えている。「山で二千年生きてきた木は、さらに建物にして二千年生きる」(『法隆寺を支えた木』)と主張する西岡常一からみれば、鉄筋コンクリートなどは50年ぐらいしかもたないまがい物にしか写らなかったはずだ。
 Cさんは、そのような様々な時代の変遷も感じ短歌を詠んだのかもしれない。
         平成28年11月30日 記  


        「短歌1」

 中学三年生を担当した修学旅行で、短歌か俳句を作る課題を出していた。Kさん(女子生徒)の作った短歌は、
   「仏門を好かぬわが目に映れども冴えて麗し弥勒像」
           (太秦 広隆寺弥勒菩薩を詠むで)
あった。私は、驚きと衝撃をもってこの短歌を読んだ。しかし、よく考えてみると、その生徒は休み時間等を利用して常に本に親しんでいた。その帰結だと考えてみると何の不思議もなかった。私は、当然のように最優秀賞を与えた。
 これには、後日談がある。部活動を指導しているところに母親が来て、「あの子はいつも誤解をされてきた。作品を提出すると、お母さんか誰かに作ってもらったの」と言われ続けてきたと話すのである。生徒をよく見て、適切に評価する大切さを認識させられた。小中学生は幼いだけで、決して劣っているわけではない。それを理解していないと大きな過ちを犯すことになる。そんなことを考えさせられた「短歌」であった。
 ところで、和歌という言葉は、「漢詩」を「唐歌(からうた)」と呼び、それに対する日本の「倭歌(やまとうた)」を「和歌」と呼んだところに由来する。和歌の種類を分類すると下記のようになる。
 ・短歌〔五七五七七〕
 ・長歌〔五七五七・・・五七七〕--「・・・」の部分は五七を繰り返す
 ・旋頭歌(せどうか)〔五七七五七七〕
 ・仏足石歌(ぶっそくせきか)〔五七五七七七〕--『万葉集』に一首
つまり、短歌は和歌の一つなのである。しかし、『万葉集』の後、ほぼ短歌しか作られなくなり、和歌というと短歌を指し示すようになってしまった。とは言っても、和歌と短歌は区別して使いたいものだ
         平成28年11月29日 記  


        「が」と「で」の違い

 間もなく卒業式を迎えようとしていた中学三年生の学級活動で、同窓会の役員を決めていた。司会をしていた女子生徒が、「Aくんがいい人」と賛同を求めたが、クラス全体がしらっとしていた。と、間髪(かんはつ)を入れず「Aくんでいい人」と投げかけたら大半が挙手した。「が」が「で」に、一つの助詞を変えるだけで同意を取り付けたのである。「が」は「Aくんでなければ駄目だ」であり、「で」は「誰でもいいがAくんにしておけ」となる。傍で聞いていた私は、生徒の機転と言葉の巧みさに驚愕した。
 言っておくが、Aくんはとても優秀で人望もあった。だからこそ、少し揶揄(やゆ)しても彼なら大丈夫だという遊び心のようなものがあったのだろう。
         平成28年11月27日 記  


         「難読語5」

 昨日、安部首相が「トランプ次期大統領の言葉に右顧左眄(うこさべん)することなく・・・」と答弁していた。こんな言葉も使うのだと感じた。聞き流してはいけない。 
         平成28年11月25日 記  


         「難読語4」

 難読語再び。幾つ読めるだろうか。「あいうえお」順になっているので、予測しながら読むのも一興である。
 1 屹立   2 詭弁   3 欺瞞   4 驚愕   5 矜持   
 6 功徳   7 庫裏   8 炯眼   9 敬虔  10 形而上 
11 解脱  12 狷介  13 喧噪  14 倦怠  15 言質
         平成28年11月22日 記  


         「難読語3」
 
 昨日のテレビの番組で、あるコメンテーターが、「朴大統領に関しては瑣末(さまつ)な問題が・・・」と話していた。「瑣末」という言葉が使われていた。一方的に言葉が流れていくだけであるから、多くの視聴者は聞き逃しているのではないだろうか。
 また、今朝のニュースの中で特派員が、「トランプ次期大統領と安部首相が会談して、安全保障の問題で齟齬(そご)が生じては・・・」と報告していた。難しい言葉は使われているのである。意識しなければ耳には届かない。
         平成28年11月18日 記  


         「刀に関した言葉」(補足説明3)
 
 「鍔迫り合い」は、「勢力に差がなく、緊迫した状況で勝負を争うこと」という意味になる。比較的多く使われる言葉である。
         
         表                  裏
 鍔の素材は、主に鉄である。平和な時代になると、赤銅(しゃくどう)や四分一(しぶいち)なども使われ、実用というよりも装飾的な面に主眼が置かれるようになった。
  赤銅・・・銅に金を加えた合金で色あげされ紫黒色をしている
  四分一・・朧銀(ろうぎん)ともいわれ銅と銀の合金
 写真向かって左が表、右が裏となる。表は装飾が賑やかで、裏は地味な感じになっている。刀を腰に差したとき、鍔の表が外側にくるように取り付けなければならない。刀を抜き構えたとき、表が拳側にくるのである。鍔は、丸形鉄地で金、銀、赤銅で高彫り象嵌(ぞうがん)がほどこされている。
         平成28年11月17日 記  


         「難読語2」
 
 昨日のニュースで民進党の代表が、インタビューで「自衛隊の態勢が脆弱で・・・」と言っていた。ここに難語の「脆弱」が出てくる。残念なのは、テロップに「ぜい弱」と出たことである。漢字は、表意文字、平仮名にしてしまうと瞬時に意味が把握できなくなってしまう。せめて振り仮名を付ける程度にしてもらいたいものだ。
 以前、ある政治家が、「齟齬(そご)」と言っていた。今でも、難語と呼ばれる漢字は普段に使用されているのだ。難しいから使わないのではなく、積極的に使う姿勢が必要だ。
         平成28年11月16日 記  


         「寸志」について
 
 目上の人が目下の人に渡す場合に、のし袋等に記載するのが「寸志」である。目上の人に渡す場合は、「お礼」や「粗品」とする。言葉は適切に使わないと失礼になる。
         平成28年11月15日 記  


         「湯桶(ゆとう)読み」について
 
 「訓読み+音読み」と読むものがある。このような読みをするものを「湯桶(ゆ+トウ)読み」という。
1合図   2湯気   3手本   4消印   5店番   6荷物
7喪主   8相性   9朝晩  10雨具 
         平成28年11月14日 記  


         「重箱読み」について
 
 漢字二字の場合は、通常音読みにする。しかし、「音読み+訓読み」と読むものがある。このような読みをするものを「重箱(ジュウ+ばこ)読み」という。
1額縁   2客間   3残高   4新顔   5雑木   6台所
7反物   8団子   9楽屋  10素顔 
         平成28年11月12日 記  


         「名誉」は挽回するもの
 
 何か失敗してしまって、それを取り戻した場合は「名誉挽回」となる。ところが、間違って「名誉返上」と言ってしまうことがある。これでは恥の上塗りだ。「汚名返上」と混同しないようにしたい。
         平成28年11月11日 記  


         「力不足」と「役不足」
 
 昇進し「役不足ですが頑張ります」と挨拶したら、大顰蹙(ひんしゅく)ものだ。この役職では物足りないと言っているからである。ここでは、「力不足ですが頑張ります」と言うのが適切だ。あくまでも謙遜して話すのが、日本の常道である。
 ところで、能面の「顰(しかみ)」は、顰蹙の一字を使用している。おそらく、顰蹙とはあのような顔を示しているのだろう。
         平成28年11月10日 記  


         「上を下への大騒ぎ」が正しい
 
 「上を下への大騒ぎ」は、上にあるべきものが下に、下にあるべきものが上にきてしまうほどの混乱ぶりを表す言葉である。ところが、間違って「上へ下への大騒ぎ」としてしまうことがある。
 ちなみに、「大騒ぎ」は「騒ぎ」という和語が後ろにきているので、「大」は「おお」と読む。ところが、後ろに漢語がきている(この場合は通常「だい」と読む)にも拘わらず、「大騒動」も「おお」と読む。これは慣用的に使われていたためである。ほかにも、「大火事・大御所・大道具・大所帯・大相撲・大地震」などがある。こんなことを考えると、痴呆症にならないなあ。 
         平成28年11月9日 記  


         「とんでもございません」は誤り

 「とんでもない」を丁寧に言ったつもりだろうが、間違いである。「とんでもない」は形容詞、下記のように分解できる
    とんでもな・・・・語幹(活用しない部分)
    い・・・・・・・・活用語尾(活用する部分)
つまり、「つまらない」「少ない」と同様であり、「とんでも」で切れて、他の品詞が付くことはあり得ない。正しくは、「とんでもないことでございます」となる。それを文法的に説明すると下記のようになる。
    とんでもない・・・形容詞の連体形
    こと・・・・・・・形式名詞
    で・・・・・・・・断定の助動詞「だ」の連用形
    ござい・・・・・・五段活用の動詞「ござる」の連用形のイ音便
    ます・・・・・・・丁寧の助動詞「ます」の終止形 

 この「とんでもございません」には、有名な逸話がある。ミス日本コンクールで優勝した山本富士子が、この言葉を使ったところ、審査員から「そんな言葉はない」と一喝(いっかつ)されたそうだ。当時の審査員の教養には驚く。
 間違った言葉が、どれほど多く市民権を得るようになってしまったのかと、言葉の伝道師としては切歯扼腕(せっしやくわん)たる感がある。しかし、小生も時として、若者言葉を真似して、「はや」「言ってるし」などと言っている。何ということだ。赤面。 
         平成28年11月8日 記  


         「寸暇を惜しまず」は誤り

 「寸暇」とはわずかな時間のこと、「寸暇を惜しまず」では、わずかな時間も大切にしないという意味になってしまう。正しくは、「寸暇を惜しんで」である。「骨身を惜しまず」と混同しないようにしたい。
         平成28年11月7日 記  


         「難読語1」

 漢字の国には、忘れてはいけない言葉が多くある。難しいから遠ざけるのではなく、積極的に使い文化として残さなくてはならない。政治家の答弁などを聞いていると時々出てくる。さあ、読んでみよう。
 1 慇懃   2 軋轢   3 隠蔽   4 悪寒   5 膾炙   
 6 灰燼   7 傀儡   8 乖離   9 呵責  10 気質 
11 割愛  12 葛藤  13 諌言  14 帰趨  15 忌憚
         平成28年11月6日 記  


         「熟字訓(じゅくじくん)」

 熟字訓とは、特別な読み方をする漢字のことである。貴方は幾つ読めるか。
 1 小豆     2 意気地   3 一言居士
 4 乳母     5 乙女    6 お神酒
 7 母屋     8 河岸    9 早乙女
10 雑魚    11 桟敷   12 五月雨
13 時雨    14 竹刀   15 三味線
16 砂利    17 数珠   18 上手
19 素人    20 師走   21 数寄屋
22 草履    23 山車   24 足袋
25 雪崩    26 祝詞   27 野良
28 日和    29 吹雪   30 蚊帳
31 果物    32 景色   33 十重二十重
34 凸凹    35 投網   36 読経
37 梅雨    38 木綿   39 最寄り
40 行方    41 浴衣   42 若人  

 以前、テストに「素人」の対義語を書けという問題を出したところ、多くの生徒が「黒人」と書いてきた。採点をしながら、どうしてここに「黒人」が出てくるか理解ができなかった。しかし、その疑問はやがて解けた。「素人(しろうと)」の対義語は、「玄人(くろうと)」、「しろ→くろ」と考えたらしい。中学生の涙ぐましい努力である。
         平成28年11月4日 記  


         「四文字の熟語」

 
四文字の熟語で間違いやすいものがあるので注意したい。テストでこのような問題を出すとあまりできはよくなかった。密かにほくそ笑んだものだ。
 1 絶対絶命 → (正) 絶体絶命
 2 無我霧中 → (正) 無我夢中
 3 針少棒大 → (正) 針小棒大
 4 危機一発 → (正) 危機一髪
 5 五里夢中 → (正) 五里霧中
 6 大同小違 → (正) 大同小異
 7 心気一転 → (正) 心機一転
         平成28年11月3日 記  


         「音便(おんびん)」

 1 五段活用の連用形に「た(だ)」(助動詞)や「て」(接続助詞)が
  くる場合音便が起きる。これらは、無意識に使っているはずだ。
     書きて→書いて・・・・イ音便(いおんびん)
     走りた→走った・・・・促音便(そくおんびん)
     読みだ→読んだ・・・・撥音便(はつおんびん)
 2 形容詞の連用形に「ございます」や「存じます」がくると音便が起き
  る。
     美しくございます→美しゅうございます・・・・・ウ音便
     美味しくございます→美味しゅうございます・・・ウ音便
     ありがたく存じます→ありがとう存じます・・・・ウ音便

 「です」という助動詞は、ある種の助詞(「の」「ほど」「だけ」)などや「形容動詞の語幹」「動詞・形容詞の連体形」に接続する。ただし、言い切るかたちの「です」は動詞・形容詞に接続しない。例外として、「でしょう」のかたちで接続する。そうすると、現在使われている。「美しいです」「悲しいです」はあり得ないことになる。正しくは「美しいのです」「悲しいのです」となる。もしくは、「ございます」を使い、「美しゅうございます」「悲しゅうございます」と表現するのが適切な言い方になる。そういえば、以前「料理の鉄人」という番組で、岸朝子は常に「大変美味しゅうございます」と評していた。時代とともに言葉は変化するものなのであろうが、美しい言葉は残したいものだ。
        平成28年11月2日 記  


         「副詞の呼応」

 副詞には、呼応して後にくる語を決めるものがある。それを陳述(ちんじゅつ)の副詞という。
  おそらく・・・だろう   決して・・・ない  全然・・・ない
  まるで・・・ようだ  たとえ・・・としても  もし・・としても
などが挙げられる。前に記載したのが副詞である。その中で「全然・・・ない」の使い方が、とても気になる。「全然いい」とか「全然大丈夫」など耳にする。辞書にも強調して使うなどと書いてある。言葉は確かに時代とともに変化するものであるが、間違いを肯定してもいいものだろうか。
        平成28年11月1日 記 


       「表意文字と表音文字」の違い

 「表意文字」は、漢字のようにそれぞれに意味のある文字のことである。「表音文字」とは、ひらがなやカタカナのように音だけを表すものをいう。日本語の表記は、この「表意文字」である漢字と「表音文字」であるひらがなが、適度に混ざっていることにより読みやすくなっている。漢字だけもしくはひらがなだけの文章は、読めたものではない。文章を読みながら、無意識のうちに漢字で意味を読み取っているから理解ができるのである。
        平成28年10月30日 記 


       「取り付く暇もない」は誤り

 正しくは「取り付く島もない」である。「島」は頼るところを表す。時々、どちらだったかなと迷う言葉だ。
       平成28年10月29日 記 


         「慣用句2」

 慣用句は、動物に関するものも多い。身近なものほど関心があるのは常である。
 1 鵜呑みにする
 2 馬が合う  尻馬に乗る
 3 蚊の鳴くような声
 4 烏の行水
 5 狐につままれる
 6 鯖(さば)を読む
 7 雀の涙
 8 狸(たぬき)寝入り
 9 鶴の一声
10 猫なで声  猫の手も借りたい 猫の額  猫をかぶる
11 袋のネズミ   
12 鷲づかみ
13 鳶(とび)に油揚げさらわれる 
14 トドのつまり
   「トド」は、魚のボラのこと。ボラは出世魚で「ハク」「スバシリ」な
  どと名前を変え最終的に「トド」になるからという説がある。
15 虎の子
16 犬猿の仲 
17 蟻のはい出るすきもない
          平成28年10月28日  記


       「慣用句1」

 慣用句とは、二語以上の単語が結びつき、全く異なる意味をもつようになったものである。特に体の一部を使用しているものが多い。
 1 耳
   耳が痛い 耳にたこができる 耳をすます  耳をそろえる
 2 目
   目が高い 目がない 目に余る   目を細める
 3 手
   手が届く 手塩に掛ける 手を打つ 手を広げる
 4 鼻
   鼻が高い 鼻にかける 鼻をあかす 木で鼻をくくる
 5 口
   口がうまい 口からすべる 口をはさむ 口が堅い
 6 頭
   頭が痛い 頭が固い 頭が低い 頭を抱える
 7 顔
   顔がきく 顔が立つ 顔に泥を塗る 顔が広い
 8 舌
   舌が回る 舌をまく 舌の根の乾かぬ内  舌を出す
 9 歯 
   歯がたたない 歯を食いしばる 歯に衣着せぬ 歯牙にもかけない
10 足 
   足がつく 足が出る 足並みをそろえる 足下に火がつく
11 頬
   頬がゆるむ 頬が落ちる 頬を染める 頬を膨らます   
12 眉
   眉をひそめる 眉に火がつく 眉を上げる 眉に迫る
13 唇
   唇をかむ 唇をとがらす 
14 顎(あご)
   顎を出す 顎で使う 顎をなでる 顎を外す
15 額
   額に汗する 額を合わせる
16 肩 
   肩を並べる 肩をもつ 肩をすぼめる
17 首
   首を突っ込む 首を長くする 首が回らない
18 腰
   腰が低い 腰を据える 腰が引ける
19 胸
   胸がすく 胸がおどる 胸におさめる
20 腹
   腹が立つ 腹を決める 腹をくくる 
          平成28年10月27日  記


     「刀に関した言葉」(補足説明2)

 刀に関した言葉に「目貫通り」がある。目貫(写真の中央)とは、柄の柄糸の下にある装飾金具のことを指す。以前は目釘(鍔の右側にある刀身を抜けないようにしている竹製の釘)を覆っていたが、近世になって装飾的に使用されるようになった。精緻美麗で目立つところから賑やかな通りなどを「目貫通り(目抜き通り)」と称するようになった。
       

          平成28年10月24日  記


     「刀に関した言葉」(補足説明1)

 昨日記載した言葉に「切羽(せっぱ)詰まる」があった。切羽とは、柄と鍔の間、鍔と鎺(はばき)の間に挿入した二枚の金具(刀の下にある楕円形のもの)のことを指す。これを入れることにより、鍔や柄などがカタカタと動かないようになる。そこから、「物事がさしせまって,どうにも切り抜けられなくなること」という意味になった。
       

2 「折り紙付き」は、人物などを保証する場合に用いられるが、紙を折って刀の鑑定書などを作成していたことから派生した。
          平成28年10月20日  記


          「刀に関した言葉」

 平安時代に武士が台頭し徳川幕府の瓦解まで、武士の時代が続いた。その間、倫理観や生活様式などが武士の価値観でつくられていった。その精神的な支柱にあったのが、日本刀である。現在、日本刀に触れているのは一部の愛好家や居合道に携わる者に限られている。しかし、言葉のなかには日本刀に関係するものが多くある。これは、日本刀がいかに身近にあったかを示すものである。

 1 折り紙付き         2 押っ取り刀 
 3 急場しのぎ         4 地金が出る
 5 鎬を削る          6 相槌(あいづち)を打つ
 7 切羽(せっぱ)詰まる    8 太刀打ちできない
 9 反りが合わない      10 伝家の宝刀
11 懐刀           12 抜き打ち
13 目貫通り         14 元の鞘に納まる
15 焼きを入れる       16 鍔(つば)迫り合い
17 焼きが回る        18 諸刃の剣


 ちなみに、西行は武士が台頭してきた頃の北面の武士であった。
  年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜(さよ)の中山
  道の辺の清水ながるる柳陰(やなぎかげ)しばしとてこそ立ちどまりつれ
  願はくは花の下(もと)にて春死なむそのきさらぎの望月のころ

          平成28年10月19日  記


          「同音異義語(どうおんいぎご)」は厄介だ
 
 日本語は音節が少ないため、同じ音で意味の違う語がたくさんある。「かんしん」と発音する熟語を列記してみると
    「関心・感心・歓心・寒心・奸臣」
などが挙げられる。それぞれの意味を理解し、使い分けをしなくてはならない。日本語の難しさの要因の一つである。
 
         平成28年10月18日  記


          敬体」か「常体」か、どちらにするの
 
 文章を書くときの注意として、文体を決めるということがある。敬体にするか常体するかである。
   敬体・・・文末が、「ます」や「です」となる。
   常体・・・文末が、「だ」や「である」となる。
 書き進むうちに、常体と敬体が入り交じって統一性を失ってしまうことがある。しっかり推敲して正しい書き方で仕上げたいものだ。ちなみに、この文章は常体である。

         平成28年10月17日  記



          発表させていただきます」これを聞くと頭痛がする    

 「発表させていただきます」とか「始めさせていただきます」など聞かない日はない。
  「発表さ」・・・サ行変格活用の動詞「発表する」の未然形   
  「せ」・・・・・使役の助動詞「せる」の連用形
  「て」・・・・・接続助詞
  「いただき」・・五段活用の動詞「いただきます」の連用形 謙譲語
  「ます」・・・・丁寧の助動詞「ます」の終止形
 口語の文法では「せ」の助動詞に「尊敬」の意味はなく、「使役」だけである。そうすると「発表させていただきます」とは、上司が部下に発表させるという状況かと考えられる。しかし、実際は発表する本人が「発表させていただきます」と言っている。「敬意低減の法則」と論を展開する研究者もいるが、納得できない。異論もあるようだが、「発表いたします」で何の問題もない。
         平成28年10月15日  記



          Aさん居(お)られますか」はおかしい    

 このような言い方もよく耳にする。昨日のNHKクローズアップ現代のゲストも「そのような患者さんが居られます」と言っていた。しかし、考えてみると納得できない。
  「居ら」・・・五段活用の未然形   謙譲語
  「れ」・・・・尊敬の助動詞「れる」の連用形
 謙譲語の後に尊敬の助動詞をつけても、敬語にはならない。しかも、謙譲語は基本的に自分の行為をへりくだって表現する言葉なのに、相手に対して「居る」と使用している。ここはやはり、「Aさんいらっしゃいますか」とするべきである。「居る」を使用する場合は、「私は、その時間自宅に居ります」となる。
         平成28年10月14日  記



          汚名挽回」は間違い    

  「汚名挽回」と間違えて発言する人を時折見かける。「汚名挽回」では、汚名の上に汚名を重ねることになる。正しくは、「汚名返上」。これで汚名を雪(すす)ぐことになる。
         平成28年10月12日  記



          ら」抜き言葉に辟易    

 最近、特に「見れる」「食べれる」「寝れる」などの「ら」抜き言葉が多くなった。先日もリオ・オリンピックパレードの後のインタビューで、「・・・4年後もいれるように、また来れるように・・・」と答えていた。正しくは、「・・・4年後もいられるように、また来られるように・・・」である。こんな映像を見るとがっかりを通り越してイライラする。
 確認すると、可能の助動詞「れる・られる」の接続は、
   五段活用・サ行変格活用・・・・・・・・・・れる
   上一段活用・下一段活用・カ行変格活用・・・られる
となる。「・・・4年後もいられる」の「い」は、上一段活用の未然形なので「られる」、「また来られる」の「来」は、カ行変格活用の未然形なので「られる」接続となる。
 ただし、五段活用の動詞で、「~できる」という意味になる可能動詞に変化することがある。例えば、「書く・・・書ける」「走る・・・走れる」「泳ぐ・・・泳げる」。変化した「書ける・走れる・泳げる」は、下一段活用の動詞になるのでご注意を。
         平成28年10月10日  記



          的を得る」と間違うことが多い    

 正しくは「的を射る」である。しかし、「的を得る」と言い間違えることが多い。的は射るものである。某東京都知事も言っていた。お互いに注意したい。「的を射る」と同義語に「正鵠(せいこく)を射る」という言葉がある。
         平成28年10月8日  記



           「喧々諤々(けんけんがくがく)」でいいの?    

 昨日、「カンブリ宮殿」が「千疋屋」の特集をしていた。その中で、社長が画像の解説で、「あのようにいつも喧々諤々やっています。」と言っていた。これは、よく間違う表現である。喧々囂々(けんけんごうごう)が正しく、大勢の人がやかましくしているという意味で、「会議が紛糾して―たる状態」などと使う。一方、侃々諤々(かんかんがくがく)は、正しいと思うことを堂々と主張するという意味で、「―と意見を言い合った」などと使う。二つの言葉を混同しているのである。充分注意をしたい。
         平成28年10月7日  記