今昔物語集

        今昔物語集「今は昔、藤原為時といふ人ありき。」

 今は昔、藤原為時といふ人ありき。一条院の御時に、式部丞(しきぶのじょう)の労によりて受領(ずりょう)にならむと申しけるに、除目(じもく)の時、闕国(けつこく)なきによりてなされざりけり。その後、このことを嘆きて、年を隔てて直物(なおしもの)行はれける日、為時、博士にはあらねども極めて文花(ぶんか)ある者にて、申文(もうしぶみ)を内侍(ないし)に付けて奉り上げてけり。その申文にこの句あり。
  苦学寒夜。紅涙霑襟。除目後朝。蒼天在眼。
(苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑(うるお)す。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り。)
と。内侍これを奉り上げむとするに、天皇のその時に御寝(ぎょしん)なりて、御覧ぜずなりにけり。然る間、御堂(みどう)、関白にておはしければ、直物行はせ給はむとて内裏(だいり)に参らせ給ひたりけるに、この為時がことを奏せさせ給ひけるに、天皇、申文を御覧ぜざるによりて、その御返答なかりけり。然れば関白殿、女房に問はしめ給ひけるに、女房申すやう、「為時が申文を御覧ぜしめむとせし時に、御前御寝(おおんまえぎょしん)なりて御覧ぜずなりにき」然ればその申文を尋ね出だして、関白殿、天皇に御覧ぜしめ給ひけるに、この句あり。然れば関白殿、この句微妙に感ぜさせ給ひて、殿の御乳母子(おおんめのとご)にてありける藤原国盛といふ人のなるべかりける越前守をやめて、にはかにこの為時をなむなされにける。
 これひとへに申文の句を感ぜらるる故なりとなむ、世に為時を讃(ほ)めけるとなむ語り伝へたるとや。

【口語訳】
 今は昔、藤原為時という人がいた。一条天皇(980~1011)の時代に、式部丞を務めており、その功績によって受領の地位を望んだが、除目では地方の国司・受領に欠員がないという理由で却下された。為時はがっかりしたが、翌年に、朝廷の官僚人事の修正が行われた日に、内侍(女性の役人)を通じて、受領の任官を申請する文章を天皇に差し上げたのだった。為時は文章博士ではなかったが、文化・教養・詩才に優れており、申請文章に以下のような漢詩を書き添えていた。
苦学の寒夜。紅涙襟を霑す。除目の後朝。蒼天眼に在り。
(寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空[天皇の比喩表現]の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう。)
 内侍はこの漢詩を一条天皇にお見せしようとしたが、既にお休みになっていて見せられなかった。御堂は当時、関白だったから、人事の修正のために朝廷に参上して、天皇に為時の申請についてお伝えした。しかし、天皇は為時の申請文書も漢詩も御覧になっていなかったので、何の返答も頂けなかった。そこで、藤原道長が内侍に聞くと、「為時の文書を天皇に御覧頂こうと思いましたが、既にお休みだったので、まだ御覧になっていません」と答えた。すぐに文書を取り寄せて、天皇にお見せしたところ、その秀逸な漢詩に天皇は深く感動されたようである。そして、この漢詩の詩句に感動した道長公は、自分の乳母子である藤原国盛に与えるはずだった越前の国の国司(受領)のポストを為時に与えたのである。
 これは、漢詩の詩句の感動によって人事が変更されたということであり、世間では為時の文才を賞讃していたと伝えられている。
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※藤原為時は、紫式部の父親。為時が、「式部丞」であったことから紫式部
と命名されたという。後年、紫式部が、藤原道長の娘、彰子の女房になって
いくのも理解できる。文才を発揮して出世していく為時の姿は、当時の社会
の有り様を具に表している。
           平成28年2月16日 記 



        今昔物語集「官の朝庁に参る弁、鬼のために」

 今は昔、官の司(つかさ)に朝庁(あさまつりごと)と云ふ事行ひけり。それは、いまだ暁にぞ火灯(とも)してぞ、人は参りける。
 その時に、史(さかん)、□の□と云ひける者、遅参したりけり。弁、□の□と云ひける人は、早参して座に居たりけり。その史、遅参したる事を怖れて怱(いそ)ぎ参りけるに、中の御門(みかど)の門に、弁の車の立たりけるを見て、「弁は参りにけり」と云ふ事を知りて、官に怱ぎ参るに、官の北の門の内の屏の許(もと)に、弁の雑色(ぞうしき)・小舎人童(こどねりわらは)など居たり。然れば、史、弁の早参せられにけるに、我れ史にて遅参したる事を怖れ思ひて、怱ぎて東(ひんがし)の庁の東の戸の許に寄りて、庁の内を臨(のぞ)けば、火も消えにけり。人の気色(けしき)も無し。
 史、極めて怪く思ひて、弁の雑色共の居たる屏の許に寄りて、「弁の殿はいづこに御しますぞ」と問へば、雑色共、「東庁(ひんがしのちょう)に早く着かせ給ひにき」と答ふれば、史、主殿(とのも)寮の下部(しもべ)を召して、火を燃(とも)させて、庁の内に入りて見れば、弁の座に赤く血肉(ちじし)なる頭(かしら)の髪ところどころ付きたる有り。史、「こはいかに」と驚き怖れて、傍(かたわら)を見れば、笏(しゃく)・沓(くつ)も血付きて有り。また扇有り。弁の手をもって、その扇に事の次第共書き付けられたり。畳に血多く泛(こぼれ)たり。他のものは露見えず。奇異(あさまし)き事限り無し。
 しかる間に夜あけぬれば、人多く来たり集りて見ののしりけり。弁の頭をば、弁の従者共取りて去りにけり。その後、その東庁にては、朝庁を行はざりけり。西の庁(にしのちょう)にてなむ行ひける。
 されば、公事(くじ)と云ひながら、さやうに人離れたらむ所には怖るべき事也。この事は水尾天皇の御時(おんとき)となむ語り伝へたるとや。

【口語訳】
 今となっては昔のことではあるが、太政官の役所で朝の執務が行われていた。それは、夜明け前に松明をともして登庁したのである。
 その時、史(姓名を補充しようとして載せなかったので空白となっている。身分は、弁のほうが高く、そのため急いで史は登庁しようとしている)□という者が、遅刻をしてまった。弁□という者は、早く来て席に着いていた。史が遅刻したのを恐れ入って急いで向かっていると、待賢門に弁の車が止めてあるのを見て、「弁は既に参内された」ということを知って急いで役所に歩いていると、役所の門の塀の所に雑色・小舎人童などがいた。そこで、史、弁が早く来られていたため、自分が下役の身でありながら遅刻したことを恐縮して、急いで東の役所に行って中を覗いてみると、灯りが消えていた。人の気配さえなかった。
 史、とても怪しく思って、弁の雑色たちのいた所に行って、「弁殿は、どこにいらっしゃいます」と聞くと、雑色たちは、「東の役所に最前からいらっしゃいます」と答えたので、史、主殿寮(とのもりりょう)の役人を連れて、灯りを付けさせて役所の中に入ってみると、弁の席に血まみれの頭部に髪が所々に付いているのがあった。史、「これはどうしたことか」と驚きおののいて側を見ると、笏(しゃく)と沓(くつ)も血が付いたままで落ちていた。また、扇もあった。弁の筆跡で、その日の政務の予定が書かれてあった。敷物に血がたくさんこぼれていた。その他の物は、一切見えなかった。あさましいことかぎりがなかった。そうこうしている間に夜が明け、人々がたくさん集まってきて大騒ぎになった。弁の頭を、従者たちが引き取って帰っていった。この事件の後、東の役所では朝の政務は行われないようになった。西の役所で行われるようになった。
 やはり、政務とはいえ、そのように人気のない場所では、用心すべきことである。このことは、清和天皇(858年から876年在位)の御代のことだと語り伝えている。 
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※この時代だから、殺人事件も鬼の仕業になってしまったのだろう。果たして真相は、どのようなことであったのだろう。このように時代によって犯罪が闇に消えてしまったことも多かったはずだ。そうか現代も同じか。
           平成27年6月8日 記 



   今昔物語集「内裏の松原において、鬼、人の形となりて女を

 今は昔、小松天皇の御代に、武德殿の松原を若き女三人うち群れて内ざまへ行きけり。八月十七日の夜の事なれば、月は極めて明し。
 しかる間、松の木の本に男一人出で来たり。此の過ぐる女の中に一人をひかへて、松の木の木陰にて女の手を捕へて物語しけり。今二人の女は、「今や物云ひはてて来る」と待ち立てりけるに、やや久しく見えず。物云ふ声もせざりければ、いかなる事ぞと怪しく思ひて、二人の女寄りて見るに、女も男もなし。此はいづくへ行きにけるぞと思ひて、よく見れば、ただ女の足手ばかり離れてあり。二人の女これを見て、驚きて走り逃げて、衛門の陣に寄りて、陣の人に此の由を告げければ、陣の人ども驚きて、其の所に行きて見ければ、凡そ骸(かばね)散りたることなくして、ただ足手のみ残りたり。其の時に人集り来て、見ののしること限りなし。「これは鬼の人の形となりて、此の女を食ひてけるなりけり」とぞ人云ひける。
 然れば、女、さやうに人離れたらむ所にて、知らざらむ男の呼ばむをば、広量(くわりょう)して行くまじけり。ゆめ、怖るべき事なりとなむ、語り伝へたるとや。

【口語訳】
 今となっては昔のことではあるが、光孝天皇の時に、武德殿の松原を若い女が、三人うちそろって内裏のほうに歩いていった。8月17日(887年の事件)の夜だったので月はとても明るかった。
 そうしている時に、松の根本に男が一人出てきた。この歩いている女の一人を引き留めて、松の木陰で女の手をとって何かを話していた。二人の女は、「すぐにも話が終わって来るだろう」と待っていたが、なかなか帰ってこない。話し声もしなかったので、どうしたのかと不思議に思って、二人の女が近寄ってみたが女も男もいなかった。一体どこに行ったのだろうと思って、よく見ると女の手と足だけがバラバラに転がっていた。二人の女は、これを見て驚き走って逃げて、右衛門の陣に行きこのことを話すと役人も驚き事件のあった所に行ってみると、死骸らしいものは散乱せず、ただ手と足だけが残っていた。多くの人が集まり、大騒ぎになった。「これは、鬼が人に化身して、女を食べてしまったのだ」と言い合った。
 だから、女がそのような人気のない場所で、見知らぬ男に呼び止められても、うっかり心を許して付いていってはいけない。十分に注意すべきことであると語り伝えたということである。
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※猟奇的な殺人事件である。現代でも、この種の事件が多くある。ネットで知り合い軽々に付き合いを始めて、女性が殺される惨劇が繰り返されている。1200年以前と現在が同じように繋がっている気がする。それは、男に女が付いていくことである。「知らざらむ男の呼ばむをば、広量して行くまじけり」この一文は、命を守ることでもある。『今昔物語集』は、平安時代末期に成立した説話集である。
            平成27年6月3日 記