伊勢物語
伊勢物語(筒井筒)
昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとに出でて遊びけるを、大人になりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、男はこの女をこそ得めと思ふ。女はこの男をこそと思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。
さて、この隣の男のもとよりかくなむ。
筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹(いも)見ざるまに
女、返し、
くらべ来し振分髪も肩すぎぬ君ならずしてたれかあぐべき
など言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。
【口語訳】
昔、田舎暮らしの人の子どもたちが、湧き水を木で囲んだもののもとに出て遊んでいたのだが、大人になったので男も女も互いに恥ずかしがっていた。しかし、男はこの女とこそ結婚したいと思っていた。女は、この男とこそと思っていたので、女の親が、ほかの者と結婚させようとするのだが、それを聞き入れないでいた。
この隣の男のもとより、このように歌を送ってきた。
(湧き水の筒にしるしをつけて測っていた私の背丈も、きっともう貴女
を越してしまったことでしょう。貴女にお会いできないうちに。)
女の返し、
(長年貴方と背比べしてきた私の振分け髪も、肩をすぎるほどに長く
なりました。貴方以外の誰のために、この髪を結い上げるというの
でしょうか。)
などと言い合って、ついにもとからの願いどおり、結婚した。
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※男と女は、めでたく結ばれたが、男に新しいの女性ができる。しかし男は、新しい女性が、自らしゃもじでご飯を器に盛るのを見て嫌気がさし通わなくなってしまう。当時は、男が、女の家に通っていた。平安時代の身分の高い女性も、こんなことで嫌われるのだから大変だ。価値観は、時代とともに変化するものである。
平成27年8月2日 記
伊勢物語(東下り)
昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。もとより友とする人、ひとりふたりして、いきけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。三河の国、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。その沢のほとりの木の蔭に下り居て、餉(かれいひ)食ひけり。その沢に、かきつばたいとおもしろく咲きたり。それを見て、ある人のいはく、
「かきつばたといふ五文字を、句の上に据ゑて、旅の心をよめ」
といひければよめる。
から衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ
とよめりければ、みな人、餉の上に涙落して、ほとひにけり。
【口語訳】
昔、男がいた。その男、自分を無用のものと思い詰めて京にはおるまいと考えた。東国にすむべき国を求めようと出発した。古くからの友人一人二人引き連れた。道を知った人もいなくて、迷いつつ、三河の国八橋という所に至った。そこを八橋というのは、水が川となって蜘蛛の手のように八方にのびているので、八つの橋をわたしたことからだった。その沢のほとりの木陰に座って、乾飯を食べた。その沢にかきつばたがたいへん美しく咲いていた。それを見てある人が、
「かきつばた、という五文字を句の上に置いて、旅の心を詠め」
と言ったので、詠んだ。
着慣れた衣のように長年慣れ親しんできた妻を都に置いて、はるば
る旅をしているなあとしみじみ思う。
と詠んだところ、人々はみな乾飯の上に涙を落としたのでふやけてしまった。
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※伊勢物語の「東下り」、もっとも有名な段である。「その男、身をえうなきものに思ひなして」という記載が特筆している。出世街道からの逸脱である。この段は、能にも「杜若」として演じられている。矢来能楽堂で金春流能楽師、山中一馬先生がシテを務めた「杜若」を観て感銘を受けたのが、能を観た最初であった。
平成27年6月1日 記
伊勢物語(男わづらひて)
昔、男わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
【口語訳】
昔、男が病気になり、死んでしまいそうな気持ちになったので、
〔死出の道のことはかねて聞いてはいたが、昨日今日といった差し迫ったこととは、思わなかったよ〕
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※「伊勢物語」は、在原業平らしき人物の一代記として編集されている。作品は、男が、とうとうこの世を去らなければならない時が来たと語る上記の段で終わる。
目崎徳衛は次のように述べている。
「死は万人に解り切っている事実ではないが、これほど直面するまでは実存的に把握しえないものでもない。平常時の死の知識が何の役にも立たなかった驚きと困惑を、こんなにもあけすけに吐露した辞世が他にあるだろうか。業平が苦しい息の下で断腸の思いで口にした歌に違いないのに、どこかあどけない幼児の言葉のように、思わず読者の微笑を誘うところがある。」
一体、我々は死に直面した時、どのような言葉を吐けばよいのであろうか。『論語』には、「鳥の将(まさ)に死なんとする其の鳴くや哀し。人の将に死なんとする其の言や善し。」 とある。常々考えて、心の準備をしておく必要があるのだろう。
斎藤茂吉の短歌
「いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるもを」
や 吉田兼好の『徒然草』の一節
「四季は、なほ、定まれる序(つひで)あり。死期(しご)は序を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後に迫れり。人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。」
から、先人が「死」に真摯に向き合っていたことが分かる。
平成27年1月10日 記
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