茨木 のり子
誤算
茨木のり子
あら 雨
あじさいがきれい
このブラウス似合います?
お茶が濃すぎるぞ
キャッ! ごきぶり
あの返事は書いておいてくれたか
レコードはもう少し低くして 隣の赤ちゃん目をさますわ
とりとめもない会話
気にもとめなかった なにげなさ
それらが日々の暮らしのなかで
どれほどの輝きと安らぎを帯びていたか
応答ものんびりした返事も返ってこない
一人言をつぶやくとき
自問自答の頼りなさに
おもわず顔を掩ってしまう
かつて
ふんだんに持っていた
とりとめなさの よろしさ
それらに
一顧だに与えてこなかった迂闊さ
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※ともすれば、命は未来永劫(えいごう)続くものだと誤解している。限りある命を生きていることを忘れてはならない。
「いつしかも日がしづみゆきうつせみのわれもおのづからきはまるもを」と斎藤茂吉も詠っている。
平成28年4月29日 記
倚(よ)りかからず
茨木 のり子
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
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※寄りかかろうとすれば、軋轢(あつれき)や齟齬(そご)を生む。群れず迎合せず生きられれば、本望だ。
平成28年4月24日 記
梅酒
茨木 のり子
梅酒を漬けるとき
いつも光太郎の詩をおもいだした
智恵子が漬けた梅酒を
ひとり残った光太郎がしみじみと味わう詩
そんなことになったらどうしよう
あなたがそんなことになったら……
ふとよぎる想念をあわててふりはらいつつ
毎年漬けてきた青い梅
後に残るあなたのことばかり案じてきた私が
先に行くとばかり思ってきた私が
ぽつんと一人残されてしまい
梅酒はもう見るのも厭で
台所の隅にほったらかし
梅酒は深沈(しんちん)と醸されてとろりと凝(こご)った琥珀いろ
八月二十八日
今日はあなたの誕生日
ゲーテと同じなんだと威張っていた日
おもいたって今宵はじめて口に含む
一九七四年製の古い梅酒
十年間の哀しみの濃さ
グラスにふれて氷片のみがチリンと鳴る
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※高村光太郎の「梅酒」は、常に私の掌上にある。ともに味わいたい詩である。昨年、久しぶりに梅酒を作ってみた。味わうたびに、光太郎の詩「梅酒」へと誘う。
平成28年4月19日 記
わたしが一番きれいだったとき
茨木のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがらと崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達が沢山死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように ね
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※国を守るため国益のためなどという大義名分に翻弄され、多くのかけがえのない命が散っていった。しかし、戦争を始めた愚昧な連中は安全な所にいて、しかも何一つ責任をとろうとしなかった。常に弱い立場にいる人たちが辛く苦しい思いをする。それが戦争だ、ということを絶対に忘れてはいけない。
平成28年4月14日 記
自分の感受性くらい
茨木 のり子
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
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※言葉の一つ一つが、ぐっと迫ってくる。本当にそうだ。我々は、どのくらい人のせいにして社会のせいにして時代のせいにして、生きてきたことか。この辺りで静かに自分自身を見つめ直してみよう。
平成28年4月9日 記
汲む
茨木 のり子
大人になるというのは
すれっからしになることだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女のひとと会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました
初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました
私はどきんとし
そして深く悟りました
大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子供の悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じくらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです
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※懊悩する、嫉妬する、嘆息する、悲嘆にくれる、それが人間なんだ、それでいいんだと言っているように伝わってくる。丸ごと人間を受け入れている。
平成28年3月25日 記
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