平家物語

          平家物語(清盛最期)

 同じき二十七日、前右大将宗盛卿、源氏追討のために、東国へすでに門出と聞こえしが、入道相国違例の御心地とてとどまりたまひぬ。明くる二十八日より、重病を受けたまへりとて、京中・六波羅、「すは、しつることを」とぞささやきける。入道相国、病つきたまひし日よりして、水をだにのどへも入れたまはず。身の内の熱きこと火をたくがごとし。臥したまへる所四五間が内へ入る者は、熱さ堪へがたし。ただのたまふこととては、「あたあた」とばかりなり。
 少しもただごととは見えざりけり。比叡山より千手井(せんじゅい)の水を汲み下し、石の船にたたへて、それに降りて冷えたまへば、水おびただしく沸き上がつて、ほどなく湯にぞなりにける。もしや助かりたまふと、筧(かけひ)の水をまかせたれば、石や鉄(くろがね)などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづから当たる水は、ほむらとなつて燃えければ、黒煙殿中に満ち満ちて、炎うづまいて上がりけり。
 これや、昔、法蔵僧都(ほうそうさうず)と言つし人、閻王の請におもむいて、母の生所(しょうじょ)を尋ねしに、閻王あはれみたまひて、獄卒を相添へて焦熱地獄へ遣はさる。鉄の門の内へさし入れば、流星などのごとくに、炎空へ立ち上がり、多百(たひゃく)由旬(ゆじゅん)に及びけんも、今こそ思ひ知られけれ。

【口語訳】
 同じ月の二十七日、前右大将宗盛卿が、源氏追討に東国へいよいよ出発かとうわさされたが、入道相国がご病気ぎみということで、中止なさった。翌二十八日からは病が重くなり、京じゅうでも六波羅でも、「それ見たことか」とささやいていた。入道相国は発病の日以降、水さえのどにもお入れにならない。体内の熱は火を焚くようであった。お休みになっている部屋の四、五間以内に近づく者は、熱さに堪えられない。入道相国がおっしゃるのは、ただ「熱い、熱い」とばかりである。少しもただごととは見えなかった。比叡山から千手井の水を汲み下ろし、石の水槽に満たして、それに入って冷やされると、水がひどく湧き上がり、まもなく湯になってしまった。もしやお助かりになるかと、筧の水を身体に注ぎかけたところ、石や鉄などが焼けたように水が飛び散って寄りつかない。たまたま身体に当たった水は炎となって燃え、黒煙が御殿中に満ちて、炎が渦巻いて上がった。これは、昔、法蔵僧都という人が閻魔王に招かれて行き、泣き母が生まれ変わった所を尋ねたところ、閻魔王が憐れんで、獄卒をつけて焦熱地獄へお遣わしになった。その鉄の門の中へ入ると、流星のように炎が空へ立ち上がり、その高さが数千里に及んだという話があるが、この入道相国のありさまには及ばないだろうと、つくづく思われた。
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※平清盛の最期は、かくも凄まじきものかと改めて考えさせられる。断末魔の叫びが聞こえてくる。武士は、現世、戦いばかりを繰り返しているので、来世では修羅の道を歩むという。能の演目は五つに分けられ、武士を扱ったものは「修羅物(二番目物)」と言われている。「修羅物」は死後、修羅道に堕ちた武人たちの苦しみを描いている。
           平成30年1月4日 記



            平家物語(宇治川の先陣

 一騎は梶原源太景季(かじわらげんたかげすえ)、一騎は佐々木四郎高綱なり。人目には何とも見えざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段ばかりぞ進んだる。佐々木四郎、「この川は西国一の大河ぞや。腹帯(はるび)の伸びて見えさうは。締めたまへ」と言はれて、梶原さもあるらむとや思ひけむ。左右の鐙(あぶみ)を踏みすかし、手綱を馬の結髪(ゆがみ)に捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつと馳せ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原たばかられぬとや思ひけむ、やがて続いてうち入れたり。「いかに佐々木殿、高名せうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらむ」と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足に掛かりける大綱どもをばふつふつとうち切りうち切り、いけずきといふ世一(よいち)の馬には乗つたりけり。宇治川速しといへども、一文字にざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。梶原が乗つたりけるする墨は、川中より篦撓形(のためがた)に押しなされて、はるかの下よりうち上げたり。佐々木鐙踏ん張り立ち上がり、大音声を上げて名のりけるは、「宇多天皇より九代の後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はむ人々は高綱に組めや」とて、をめいて駆く。

口語訳】
 一騎は梶原源太景季で、もう一騎は佐々木四郎高綱である。傍目にはどうとも見えないが、内心では二人とも先陣を狙っていたので、梶原は佐々木より一段前に進んでいた。佐々木四郎が、「この川は西国一の大河だ。腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい」と言うと、梶原はなるほどそうかと思ったか、左右の鐙に足を踏ん張って、自分の体と馬との間にすき間ができるようにして、手綱を馬のたてがみに投げ、腹帯を解いて締め直した。その間に佐々木はさっと駆け抜いて、川へざっとばかりに乗り入れた。梶原はだまされたと思ったか、すぐに続いて乗り入れた。梶原が、「なんと佐々木殿、手柄を立てようとして失敗なさるな。川底には大綱が張ってあるだろう」と言ったので、佐々木は太刀を抜いて、馬の足にひっかかった何本もの大綱をぶつぶつと次々に切って進み、いけずきという当世第一の名馬に乗っていたこともあり、宇治川の流れが速いにもかかわらず、一文字にさっと渡って向こう岸に乗り上げた。梶原の乗るする墨は、川の中ほどから斜めに押し流され、はるか下流から岸に乗り上げた。佐々木は鐙を踏ん張って立ち上がり、大声で名乗ったのには、「宇多天皇より九代目の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣である。われこそはと思う人々は高綱と勝負せよ」と、叫び声を上げながら突進した。
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※梶原源太景季は、源頼朝に愛馬「いけずき」を欲しいと懇願するが、聞き入れられず、代わりに「する墨」を貰う。ところが、宇治川の戦いに、佐々木四郎高綱が、「いけずき」に跨っているのに驚く
佐々木四郎高綱は、機転を利かせて盗んできたと嘘を言うことになる。そのことを踏まえて、この段を読むと面白い。
          平成29年12月31日 記



              平家物語(敦盛最期)
    
 いくさやぶれにければ、熊谷次郎直實(くまがへのじらうなをざね)、「平家の君達たすけ船にのらんと、汀の方へぞおち給らん。あはれ、よからう大將軍にくまばや」とて、磯の方へあゆまするところに、ねりぬきに鶴ぬうたる直垂(ひたたれ)に、萌黄の匂の鎧きて、くはがたうたる甲(かぶと)の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげ藤の弓もて、連錢葦毛(れんぜなしげ)なる馬に黄覆輪(きんぶくりん)の鞍をいてのたる武者一騎、沖なる舟にめをかけて、海へざとうちいれ、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは大將軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵(かたき)にうしろをみせさせ給ふものかな。かへさせ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれてとてかへす。 
 汀にうちあがらむとするところに、おしならべてむずとくんでどうどおち、とておさへて頸をかゝんと甲をおしあふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うすげしやうしてかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ程にて容顔まことに美麗也。ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。「抑(そもそも)いかなる人にてましまし候ぞ。なのらせ給へ、たすけまいらせん」と申せば、「汝はたそ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武藏國住人、熊谷次郎直實」と名のり申。「さては、なんぢにあふてはなのるまじゐぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をとて人にとへ。みしらふずるぞ」とぞの給ひける。熊谷「あぱれ大將軍や、此人一人うちたてまたり共、まくべきいくさに勝べき樣もなし。又うちたてまつらず共、勝べきいくさにまくることよもあらじ。小次郎がうす手負たるをだに、直実は心ぐるしうこそおもふに、此殿の父、うたれぬときいて、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけたてまつらばや」と思ひて、うしろをきとみければ、土肥・梶原五十騎ばかりでつゞいたり。
  熊谷涙をおさへて申けるは、「たすけまいらせんとは存候へ共、御方の軍兵雲霞(うんか)の如く候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同くは直實が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「たゞとくとく頸(くび)をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりにいとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、めもくれ心もきえはてて、前後不覚におぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞかいてげる。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武藝の家に生れずは、何とてかゝるうき目をばみるべき。なさけなうもうちたてまつる物かな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめとぞ泣ゐたる。良(やや)久(ひさし)うあて、さてもあるべきならねば、よろい直垂をとて、頸をつゝまんとしけるに、錦の袋にいれたる笛をぞ腰にさゝれたる。
 「あないとおし、この曉(あかつき)城のうちにて管絃し給ひつるは、この人々にておはしけり。當時みかたに東國の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛もつ人はよもあらじ。上﨟(じょうろう)は猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見參に入たりければ、是をみる人涙をながさずといふ事なし。後にきけば、修理大夫(しゅりのたいぶ)經盛(つねもり)の子息に大夫(たいぶ)敦盛(あつもり)とて、生年十七にぞなられける。

  【口語訳
 平家の軍が合戦に敗れたので、熊谷次郎直実は、「平家の貴公子たちが助け船に乗ろうと、波打ち際の方に逃げなさるだろう。ああ、立派な大将軍と組み合いたいものだ」と思い、海岸の方へ馬を歩ませていくと、練貫に鶴の縫い取りをした直垂の上に萌黄匂の鎧を着て、鍬形をつけた甲の緒を締め、黄金作りの太刀を腰につけ、切斑の矢を背負い、滋籐の弓を持ち、連銭葦毛の馬に金覆輪の鞍を置いて乗った武者が一騎、沖の船を目指して海へざっと乗り入れ、五、六段ほど泳がせたのを、熊谷は「そこにおられるのは大将軍とお見受けする。ひきょうにも敵に後ろを見せられるのか。お戻りなされ」と扇を上げて招いたのでその武者は呼ばれて引き返してきた。
 波打ち際に上がろうとするところを、馬を押し並べて、むんずと組んでどっと落ち、取り押さえて首をかき切ろうと甲を無理にはぎ取って見れば、年十六、七ほどで、薄化粧をしてお歯黒に染めている。わが子の小次郎の年齢ほどで顔かたちがまことに美しかったので、どこに刀を突き立てたらいいかわからない。熊谷が「いったいあなたはどのようなお方でいらっしゃいますか。お名乗りください。お助けしましょう」と言えば「お前は誰か」とお尋ねになった。熊谷は、「物の数に入る者ではありませんが、武蔵野国の住人、熊谷次郎直実と申します」と名乗った。「それではお前に向かっては名乗るまいぞ。お前にとってはよい敵だ。自分が名乗らなくとも首を取って人に尋ねよ。誰か見知っている者があろうぞ」とおっしゃった。熊谷は「ああ、立派な大将軍だ。しかし、この人一人を討ち取ったとしても、負けるはずの戦に勝てるわけではない。また、討ち取らなかったとしても、勝つはずの戦に負けるはずもなかろう。小次郎が軽傷を負っても自分は辛く思うのに、この殿の父上はわが子が討たれたと聞いたら、どんなにか嘆かれるだろう。ああ、お助けしたい」と思って、背後をさっと見たところ、土肥と梶原が五十騎ほどで続いてやってくる。
 熊谷が涙をおさえて申したのには、「お助け申し上げようと存じましたが、味方の軍勢が雲霞のようにやってきています。きっとお逃げにはなれないでしょう。他の者の手におかけ申し上げるより、同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのご供養をいたしましょう」と申したところ、「ただもう早く早く首を取れ」とおっしゃった。熊谷はあまりにいたわしく感じ、どこに刀を立てたらよいかもわからず、目も涙にくもり心もすっかり失せて、どうしていいかわからなくなったが、そうしてばかりもいられず、泣く泣く首をかき切った。「ああ、弓矢をとる武士の身ほど情けないものはない。武士の家に生まれなければ、どうしてこのような辛い目に会うであろうか。情けもなく討ち取り申し上げてしまったものだ」と嘆き、袖を顔に押し当てて、さめざめと泣いていた。ややしばらくして、熊谷はそうしているわけにもいかず、その武者の鎧直垂を取って首を包もうとしたところが、錦の袋に入れた笛を腰に差しておられた。
 「ああ、おいたわしい、この夜明け方、城内で楽器を奏しておられたのはこの方々だったのだ。今、味方には東国武士が何万騎かいるだろうが、戦の陣へ笛で笛を持つ者などおそらくいないだろう。高い身分の人はやはり優雅なものだ」と言い、九郎御曹司義経公のお目にかけたところ、これを見た人は涙を流さずにいられなかった。後に聞くと、若武者は修理大夫経盛の子息で大夫敦盛といい、年齢十七歳になっておられた
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※熊谷次郎直実が、直垂(ひたたれ)を取って平敦盛の首を包もうとしたところ、錦の袋に入れてある笛を差さしていた。熊谷次郎直実は、戦いの陣に笛を持つ優雅な心に感動して源義経に見せたところ、その場にいる人は皆涙を流して悲しんだということである。その笛は、小枝(さだえ)笛、別名青葉の笛で、祖父平忠盛が鳥羽上皇より賜り、笛の名手の父平経盛さらに平敦盛へと伝わったものであった。このことの後、熊谷次郎直実は、「武士の身ほど情けないものはない」と仏門に帰依(きえ)して、敦盛を弔うことになる。敦盛は当時16歳、妻も子どももいたが、平均寿命が35歳前後の時代、現代とは人生のサイクルが違うのである。 人生無常を表す『平家物語』の中でも、この「敦盛最期」は代表的な場面である。能「敦盛」はこの作品を基につくられていて、面(おもて)は「十六中将」などを使用する。
         平成29年12月25日 記 



                 平家物語(那須与一)
 
 与一、そのころは二十ばかりの男なり。褐(かち)に、赤地の錦をもつて、大領(おほくび)、端袖(はたそで)いろへたる直垂(ひたたれ)に、萌黄縅(もえぎをどし)の鎧(よろひ)着て、足白(あしじろ)の太刀をはき、切斑(きりふ)の矢の、その日のいくさに射て少々残つたりけるを、頭高(かしらだか)に負ひなし、薄切斑(うすぎりふ)に鷹の羽はぎまぜたるぬた目の鏑(かぶら)をぞさし添へたる、重籐(しげどう)の弓脇にはさみ、甲をば脱ぎ、高ひもにかけ、判官の前に畏(かしこ)まる。
「いかに宗高、あの扇のまん中射て、平家に見物せさせよかし」。与一、畏まつて申しけるは、
「射おほせ候はんことは不定(ふぢやう)に候ふ。射損じ候ひなば、長き御方(みかた)の御疵(おんきず)にて候ふべし。一定(いちぢやう)仕(つかまつ)らんずる仁に仰せつけらるべうや候ふらん」と申す。
判官大きに怒つて、
「鎌倉を立つて西国へおもむかん殿ばらは、義経が命を背くべからず。少しも子細(しさい)を存ぜん人は、とうとうこれより帰らるべし」とぞのたまひける。
 与一、重ねて辞せば悪しかりなんとや思ひけん、
「はずれんは知り候はず、御諚(ごぢやう)で候へば、つかまつてこそ見候はめ」とて、御前(おんまへ)をまかり立ち、黒き馬の太うたくましいに小房(こぶさ)の鞦(しりがい)かけ、まろぼやすつたる鞍(くら)置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱かいくり、汀(みぎは)へ向いて歩ませければ、御方のつはものども、後ろをはるかに見送つて、「この若者、一定 仕(つかまつ)り候ひぬと覚え候ふ」
と申しければ、判官も頼もしげにぞ見たまひける。
 矢ごろ少し遠かりければ、海へ一段(いつたん)ばかりうち入れたれども、なほ扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。ころは二月十八日の、酉(とり)の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。舟は揺(ゆ)り上げ揺り据(す)ゑ漂へば、扇も串に定まらずひらめいたり。沖には平家、船を一面に並べて見物す。陸(くが)には源氏、くつばみを並べてこれを見る。いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、わが国の神明(しんめい)、日光権現(につくわうのごんげん)、宇都宮、那須の湯泉大明神(ゆぜんだいみやうじん)、願はくはあの扇のまん中射させて賜(た)ばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に再び面(おもて)を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼし召さば、この矢はづさせたまふな」
と心の内に祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。与一 鏑(かぶら)を取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。小兵(こひやう)といふぢやう、十二束(そく)三伏(みつぶせ)、弓は強し、浦(うら)響くほど長鳴りして、誤たず扇の要(かなめ)ぎは一寸ばかりを射て、ひいふつとぞ射切つたる。鏑は海へ入りければ、扇は空へぞ上(あが)りける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日(せきじつ)の輝いたるに、皆紅(みなぐれなゐ)の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、船ばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり。

【口語訳】
 与一は、そのころまだ二十歳ばかりの男だった。濃紺色の地に赤地の錦でもって、大領と端袖を色どった直垂に、萌黄縅の鎧を着けて、足白の太刀を差し、切斑の矢で、その日の戦いで射て少々残っていたのを頭の上から高く出るほどに背負い、薄い切斑に鷹の羽を混ぜてはぎ合わせたぬた目の鏑矢を添えてさしていた。重籐の弓を脇にはさみ、甲を脱いで高ひもにかけ、判官の前にかしこまった。
判官が、「どうだ宗高、あの扇のまん中を射て、平家に見物させてやれ」とおっしゃった。与一がかしこまって申し上げたことは、
「射とげられるかどうかは分かりません。もし射そこないましたら、長く味方の御恥となりましょう。確実にやり遂げられる人に仰せつけられるのがようございましょう」と申し上げた。判官は大いに怒って、
「鎌倉を立って西国へ向かおうとする殿方は、義経の命令に背いてはならない。少しでも不服がある者は、とっととここから帰るがよい」とおっしゃった。
与一は、重ねて辞退するのはまずいと思ったのだろう、
「はずれるかもしれませんが、ご命令でございますのでいたしてみましょう」と言って、御前を下がり、黒い馬の太くたくましいのに小房のついた鞦をかけ、まろぼやの家紋を磨き出した鞍を置いて乗った。そして、弓を持ち直し、手綱を操りながら海へ向かって歩ませた。味方の武者たちは、与一の後姿をはるかに見送りながら、
「あの若者は、きっとやり遂げるだろう」と言ったので、判官も頼もしそうに見ておられた。
 矢を射るには少し遠かったため、与一は馬を海へ一段ばかり乗り入れたが、それでもまだ七段ほどあるだろうと見えた。時は二月十八日の午後六時ごろで、折りしも北風が激しく、磯に打ち寄せる波も高かった。舟は上下に揺れながら漂い、扇も棹の先に定まらずひらひらとしている。沖では平家が船を一面に並べて見物している。どの者たちも晴れがましくなかろうはずがない。与一は目をふさぎ、
「南無八幡大菩薩、わが国の神々であらせられる日光権現、宇都宮と那須の湯泉大明神、どうかあの扇のまん中を射させてください。もしこれを射損なえば、弓を切り折り自害いたしますので、人に再び顔を合わせることができません。いま一度郷国へ迎えてやろうとお思いでしたら、この矢をお外しくださいますな」と心の中で祈り、目を開くと、風が少し弱まり、扇も射やすそうになっていた。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょうと放った。小兵とはいえ、矢の長さは十二束三伏、弓は強く、鏑矢は浦一帯に響くほど長く鳴り渡り、誤ることなく扇の要の際から一寸ばかりの所を、ひい、ふつと射切った。鏑矢は海中に、扇は空に舞い上がった。しばらく空中でひらひらして、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと散った。夕日が輝く中、総紅色の扇に日の丸が描かれたのが白波の上に漂い、浮き沈みしながら揺られていたので、沖では平家が船ばたをたたいて感嘆した。陸では源氏が、箙をたたいて喝采した。
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※和漢混淆文の力強い響きは、実に心地よい。特にこの段は、状況からしても一段と緊張感が高まり、その様子が絵画的である。まさに、作中でも圧巻だ。是非声を出して読んでもらいたい。中学校の国語の教科書に長く掲載されているのも納得。
         平成29年12月24日 記



            平家物語(木曾殿最期)

 今井四郎、木曾殿、ただ主従二騎になつて、のたまひけるは、「日ごろは何とも覚えぬ鎧(よろひ)が、今日は重うなつたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身(おんみ)もいまだ疲れさせたまはず。御馬も弱り候はず。何によつてか一領の御着背長(おんきせなが)を重うはおぼし召し候ふべき。それは御方に御勢(おんせい)が候はねば、臆病でこそ、さはおぼし召し候へ。兼平(かねひら)一人(いちにん)候ふとも、余の武者千騎とおぼし召せ。矢七つ八つ候へば、しばらく防き矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津(あはづ)の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」とて、打つて行くほどに、また新手(あらて)の武者五十騎ばかり出で来たり。「君はあの松原へ入らせたまへ。兼平はこの敵(かたき)防き候はん」と申しければ、木曾殿のたまひけるは、「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝(なんぢ)と一所で死なんと思ふためなり。所々で討たれんよりも、一所(ひとところ)でこそ討死をもせめ」とて、馬の鼻を並べて駆けんとしたまへば、今井四郎、馬より飛び降り、主(しゆう)の馬の口に取りついて申しけるは、「弓矢取りは、年ごろ日ごろいかなる高名(かうみやう)候へども、最期の時不覚しつれば、長き疵(きず)にて候ふなり。御身は疲れさせたまひて候ふ。続く勢(せい)は候はず。敵に押し隔てられ、言ふかひなき人の郎等(らうどう)に組み落とされさせたまひて、討たれさせたまひなば、『さばかり日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿をば、それがしが郎等の討ちたてまつたる』なんど申さんことこそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせたまへ」と申しければ、木曾殿、「さらば」とて、粟津の松原へぞ駆けたまふ。
 今井四郎ただ一騎、五十騎ばかりが中へ駆け入り、鐙(あぶみ)踏んばり立ち上がり、大音声あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞きつらん、今は目にも見たまへ。木曾殿の御乳母子(おんめのとご)、今井四郎兼平、生年(しやうねん)三十三にまかりなる。さる者ありとは鎌倉殿までも知ろし召されたるらんぞ。兼平討つて見参(げんざん)に入れよ」とて、射残したる八筋(やすぢ)の矢を、差しつめ引きつめ、さんざんに射る。死生(ししやう)は知らず、やにはに敵八騎射落とす。その後、打ち物抜いてあれに馳せ合ひ、これに馳せ合ひ、切つて回るに、面(おもて)を合はする者ぞなき。分捕りあまたしたりけり。ただ、「射取れや」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧(よろひ)よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。
 木曾殿はただ一騎、粟津の松原へ駆けたまふが、正月二十一日入相ばかりのことなるに、薄氷ははつたりけり、深田(ふかだ)ありとも知らずして、馬をざつとうち入れたれば、馬のかしらも見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てどもはたらかず。今井が行くへのおぼつかなさに、ふりあふぎたまへる内甲を、三浦の石田次郎為久、追つかかつてよつ引いてひやうふつと射る。痛手なれば、真向を馬のかしらにあててうつぶしたまへるところに、石田が郎等二人落ち合うて、つひに木曾殿の首をばとつてんげり。太刀のさきに貫き、高くさしあげ、大音声をあげて、「この日ごろ日本国に聞こえさせたまひつる木曾殿を、三浦の石田次郎為久が討ちたてまつりたるぞや。」と名のりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「いまはたれをかばはんとてかいくさをばすべき。これを見たまへ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本。」とて、太刀のさきを口に含み、馬よりさかさまにとび落ち、貫かつてぞうせにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。
 
    【口語訳
 今井四郎と木曾殿は、たった主従二騎となり、木曾殿が、「いつもは何とも思わない鎧が、今日は重うなったぞ」と言う。今井四郎が申し上げるには、「お体もまだお疲れになってはおりません。御馬も弱ってはいません。どうして一着の鎧を重くお思いになるのでしょうか。それは味方に軍勢がいないため、弱気となり、そのようにお思いになるのでしょう。この兼平一人ですが、他の武者千騎だとお思いくださいませ。矢が七、八本残っていますので、しばらく防ぎ矢をいたしましょう。あそこに見えるのが粟津の松原と申します。殿は、あの松の中で御自害なさいませ」、そう言って馬を進めていくと、また新手の敵の武者五十騎ほどが現れた。「殿はあの松原へお入りください。兼平はこの敵を防ぎます」と言えば、木曾殿は、「この義仲は、都で討死するはずだったが、ここまで逃れてきたのは、お前と同じ所で死のうと思ったからだ。別々の所で討たれるより同じ場所で討死しよう」と言って、馬の鼻先を並べて駆けようとした。今井四郎は馬から飛び降り、主君の馬の口に取りついて、「武士たる者は、日ごろいかに功名がありましても、最後の時に失敗をしてしまいますと、永遠の不名誉となってしまいます。殿のお体はお疲れです。従う軍勢もございません。敵に間を押し隔てられ、取るに足らない者の家来に組み落とされ、お討たれなさって、『あれほど日本国で勇名を馳せられた木曾殿を、誰それの家来がお討ち申し上げた』などと言われるのは無念でございます。今はただ、あの松原へお入りなさいませ」と申し上げた。木曾は、「それならば」と言い。粟津の松原へ馬を走らせた。
 今井四郎はただ一騎で、五十騎ほどの敵中に駆け入り、鐙を踏んばって立ち上がり、大音声で名乗った、「日ごろはうわさにも聞いていよう、今はその目で御覧あれ。木曾殿の御乳兄弟、今井四郎兼平、生年三十三に相成る。そういう者がいるとは、鎌倉殿(頼朝)さえも御存知であろうぞ。兼平を討ってお目にかけよ」と言って、射残した八本の矢を、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射た。自分の命を顧みず、たちまちに敵八騎を射落とした。その後、太刀を抜いてあちらに馳せ向かい、こちらに馳せ向かいし、切って回ると、正面から立ち向かってくる者がいない。敵の武器を多く分捕った。敵は、ただ、「射殺せ」と言って兼平を中に取り囲み、雨が降るように矢を射たが、兼平の鎧がよいので裏まで通らず、鎧のすき間を射ないので、今井は傷も負わない。
  木曾殿はただ一騎で、粟津の松原へ駆け入ったが、折しも正月二十一日の日没時だったので、薄氷は張っており、深田があるとも知らずに、馬をざっと乗り入れたところ、馬の頭も見えなくなった。あおってもあおっても、鞭を打っても打っても馬は動かない。今井の行方が気がかりになり、振り向いて顔を上げたその甲の内側を、三浦石田次郎為久が追いかかって、弓を十分に引き絞って、ひょうと射るとふっと射抜いた。木曾殿は深手を負い、甲の正面を馬の頭にあててうつ伏せになった、そこへ石田の家来二人が駆けつけて、ついに木曾殿の首を取ってしまった。太刀の先に貫き通し、高く差し上げ、大音声で、「近ごろ日本国に名を馳せられていた木曾殿を、三浦石田次郎為久がお討ち申したぞ」と名乗りをあげたので、今井四郎は戦いの最中だったが、これを聞き、「もはや誰を守ろうとして戦う必要があろうか。これを見よ、東国の方々、日本一の剛勇の者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口にくわえ、馬からさかさまに跳んで落ち、貫かれて死んでしまった。こうして粟津の合戦は終わった。

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※木曾義仲が田中で必死に敵から逃れようとする場面は、臨場感が際立っている。都での乱暴狼藉が原因とはいえ、木曾義仲の無念を思うとあまりある。滅んでいくものの美学も感じられる木曾義仲主従の最期の場面である。
             平成29年7月29日 記