浅野内匠家来口上
去年三月、内匠儀、伝奏御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷(まか)り候處、御殿中に於いて、当座遁(のが)れ難き儀御座候か、刃傷に及び候。時節場所を弁(わきま)えざる働き、不調法至極に付き、切腹仰せ付けられ、領地赤穂城召し上げられ候儀、家来共まで畏(お)れ入り存じ奉り、上使御下知を請け、城地指し上げ、家中早速離散仕り候。右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これ在り、上野介殿討ち留め申さず、内匠末期残念の心底、家来共忍び難き仕合せに御座候。高家御歴々に対し、家来共鬱憤挿(はさ)み候段、憚(はばか)り存じ奉り候得ども、君父の讐(あだ)、共に天を戴(いだ)くべからざる儀黙止難く、今日上野介殿御宅へ推参仕り候。偏(ひとえ)に亡主の意趣を継ぎ候志(こころざし)まで御座候。私共死後、若し御見分の御方御座候はば、御披見願い奉り、斯くの如く御座候。 以上
元禄十五年十二月 日 浅野内匠頭家来 大石内蔵助
【口語訳】
昨年の三月、伝奏ご馳走役について、吉良上野介殿へ意趣をもち、殿中においてその場で避けがたい思いがございましたのか、刃傷に及びました。時節や場所をわきまえず、もっとも迷惑だったため、切腹を仰せ付けられ、領地赤穂城を召し上げられましたことついて、家来どもまで恐れ入っております。上使の命令を受け、城地を差し上げ、家中の者どもは早速に離散いたしました。この喧嘩の折り、ご同席していた方が止め、上野介殿を討ち取ることができず、内匠頭の死に際しての無念の心情は、家来どもとして耐え忍び難いことでございます。高家に対して、浅野の家来ども刃傷事件の鬱憤を晴らすということには憚りがありますが、「君父の讐は共に天をいただかず」と言うように、黙止できず、今日上野介殿のお宅へ推参いたしました。ただひとへに亡主の意趣を継ぐ志だけでございます。私どもの死後、もし、お検分の方がいらっしゃれば、お上に見せて頂くようお願いします。このようなことでございます。以上
元禄十五年十二月 日 浅野内匠頭家来 大石内蔵助
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※赤穂浪士が、討ち入り(元禄15年12月14日)の際に掲げた口上である。大石内蔵助の指導力には敬服する。しかし、浅野内匠頭長矩の愚かさには言葉を失う。殿中で鯉口に手を掛けただけでお家断絶、知っていたはずである。しかも、吉良上野介を打ち損じている。愚昧な上司をもつと、下の者は悲惨なことになる。
この事件の始末は、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の意見がとおり全員切腹となる。将来に禍根を残さない英断であった。だからこそ、その顛末は、今でも人気を博しているのである。ちなみに、林羅山(はやしらざん)や室鳩巣(むろきゅうそう)などが助命論を展開した。
『奥の細道』『徒然草』についで、この『浅野内匠家来口上』が名文だと思っている。
令和3年12月15日 記